壱




 
 グラスアイが濡れている。
 そっとまぶたに触れるとほんのりとしたあたたかみが伝わってきて、彼は微笑んだ。
 頬は堅さの中に柔らかさを含み始めている、小さな唇はぷっくりと肌の質感を与えてくれる。
 冷たく、凍り付いていた彼女はもう何処にもいない。
 いるのはあの時と同じ姿を取り戻そうとしている愛おしい人だけだ。
 彼は椅子に座る彼女の元に座り込み、その膝に頭を乗せた。
 振り袖のさらりとした生地に顔を埋めた。
 ――私の手はいつ作ってくれるの?
 か細い、消えてしまいそうな声。
 だが彼の耳にはしっかりと届いた。
「そうだね。今日作ってあげるよ。そして今夜君の身体に付けてあげよう」
 ――本当?嬉しい。
 堅く閉ざされた唇の奥から、声は聞こえてきた。
 嬉々とした響きに、彼はそっと口付けた。
「その手でまた僕を抱き締めてくれるだろう?美和」
 懇願にはくすくすと軽く跳ねるような笑い声。
 彼は恍惚の表情を浮かべて、彼女を見上げた。
 自らの手で生み出したそれは、すでに彼女そのものの姿でそこにいた。


「今日一限じゃなかったか?遅刻するぞー」
 男の声がして、皓弥は眠りから浮上させられる。
 まぶた越しに眩しい朝日を感じる。
 まとわりついてくるまどろみが心地良く、寝返りをうって光から目を背ける。
「皓弥、こーうーやー」
 だが声は近付いてくる。あまつさえ頬に何かを当ててきた。
 うっすらと目を開けると、あたたかいそれは掌だと分かった。
「っ」
 反射的にそれを払い、起きあがった。
 邪魔な布団の端を投げ、そのまま逃げられる状態になってようやく気が付いた。
 目の前にいるのが同居人であると。
「一ヶ月半になるってのに慣れてくれないなぁ」
(那智……)
 那智は腰に片手を当て、苦笑した。
 その瞳は傷付いた色をしていた。
 何度か繰り返された朝の光景だった。そしてその度に那智が浮かべるその色に、皓弥はじくりと後ろめたさを感じていた。
 申し訳ないと言うことはなかった。そう思う必要もないだろう。
 那智はそれを怒っているわけでも、責めているわけでもないだろうから。
 寂しげではあるが。
「おはよう」
 那智は黒エプロン姿で微笑から苦みを消して、挨拶をする。
 本来おはようと返すべきなのだろうが、朝が非常に弱い皓弥は頷くだけで精一杯だった。
「飯出来てるから」
 那智はそれを気にすることもなく部屋から出ていった。
 その背中を見送って、皓弥は髪を掻き上げた。
 肩にかかる細い髪を手首にはめていた髪ゴムでくくる。
「………はぁ…」
(あんな目で見るくらいなら、起こしに来なければいいだろ…)
 皓弥は目覚ましのセットを止めた。
 わざわざ起こさなくとも、目覚ましの電子音で必ず起きるのだ。
 故意以外で遅刻など今までしたことがない。
(別におまえを信じてないわけじゃない……身体がそうなるんだよ)
 それは那智に言っていた。
 うん。そうだろうとは分かってた。と何でもないことのように言っていたが。
 それでも那智は毎回皓弥の態度に拒絶のようなものを感じているのだろう。
(仕方ねーだろ……。こっちはいつ殺されるかっていう生活をしばらく送ってたんだからな…)
 母親がいた頃はまだましだった。何かが来れば母親も勘付いて起こしてくれるだろうから。
 だが彼女が死んでから、たった一人で我が身を守ることになった皓弥には余裕というものを忘れてしまった。
(おまえが家にいるってのに寝られることのほうが、本当はすげぇっつーの)
 同居したその日から、皓弥は熟睡していた。不眠症に似た寝付きの悪さと睡眠の浅さを持っていたというのに。
 やはり那智という刀を得たことで安心感が生まれたのだろう、と勝手に解釈していたが。それでも無防備な時に近寄れると怖いのだ。
(といううか……)
 男同士の同居なんだから相手にもっと無関心でもいいと思っているのだが。
 世話を焼くのが好きなのだろうか。
(聞いてもきっと「皓弥だから」とか言いやがるだろうな…)
 皓弥にとっては理解できない基準で、那智は動いているのだ。
 だらだらと思考を動かし、ようやく眠気から多少脱出した。
 あくびをしながら部屋を出てリビングを見るとテーブルに朝食が並んでいる。
 本日はトーストとハムエッグとサラダ、コンソメスープというメニューのようだ。
(ここは新婚か)
 毎回抱く感想を今朝も抱いてしまったことに皓弥は空しさを覚えた。
 何が悲しくてこんな野郎同士で新婚食卓。
 椅子を引いて座ると、那智はエプロンを脱ぎ向かいの椅子の背にかけた。
「今日は何限までだっけ?二、三?」
 皓弥は三の時に頷いた。
「ドレッシング。マヨネーズ。塩だけ。ドレッシング?」
 那智は一度選択肢を全て出し、そして繰り返す。
 欲しい物が出た時に皓弥は頷いた。
 寝起きの皓弥は一言も喋らない。
 一時間ほど経過してようやく「ああ」「うん」「違う」などの短い会話が可能になるのだ。
 相当の弱さに那智は始め笑いながら見ていたが、もう慣れたらしい。
「動物と暮らしてるみたいで、普段の皓弥からして見ると新鮮」と言うことらしい。
「俺は今日昼までだから。買い物一緒に行く?」
 皓弥はちらりと那智を見上げた。
 別に行きたいわけではない。だが講義中「飯何がいい?」と毎日送られてくるのに困っているのだ。
 元々食欲というものが強くないので、いきなり食べたい物と言われても出てこない。しかし毎回「何でもいい」では作る側としては悩むらしいのだ。
 作ってもらっている立場としては、負担というのは少なくしたいものだ。
 こくんと頷くと那智は嬉しそうに微笑んだ。
 新婚であるかのような錯覚に襲われ、皓弥はサラダをかき混ぜた。
(……なんかおかしいよな。これ)
 新婚でもなければ、恋人でもない、友人と呼ぶかも甚だ疑問のこの関係は。
 何という形なのだろう。


 ホワイトボードに羅列される文章をルーズリーフに書き並べる。
 この教授はどうも板書が多い。しかも学生がそれをきっちり書き写したかどうかに一切関心を見せない。そのため、ホワイトボードの文字は予告なく突然消されていく。
 教授は自身の研究内容を伝えることに集中しており、学生が聞いているかすらも気にしてはいないだろう。
「なぁ、同居人ってどんな人?」
 隣に座っていた三村が携帯を片手にこちらを見た。
 脱色したオレンジの髪が目を隠し気味にしている。
 それをピンで止め額を出すと童顔が際立つことを、皓弥は長い付き合いの中で知っている。
 中学からの腐れ縁だ。
「親戚だっけ?おまえと同居出来る人ってなんか想像出来ない。すっげー無関心か、それとも世話焼きかどっちかだよな」
 私語があちらこちらからちらほら聞こえてくる教室で、三村は小声で皓弥に寄ってくる。
「世話焼きだ」
 皓弥は板書を続けながら答える。
「へー。従兄弟か何かだっけ?」
 皓弥は「さぁ」と曖昧に返した。親戚だというのも、那智の母である春奈が言ったことで実際はどうなのか分からない。
「家事万能なんだろ?いいよなぁ」
「まぁな」
 有り難いことだった。皓弥は家事をあまりしない。やろうと思えば人並み程度には出来るのだが、やる気が起きないのだ。よほど散らかって「人の住みかじゃない」という次元まで来てようやく動くという腰の重さ。
 さすがに洗濯はまめにやるが。
 自分に直接触れるものが汚れているというのは気持ちが悪い。
「どんな人?」
 皓弥は押し黙った。
 最も答えにくい質問だ。
「……見た目は猫科で。中身は犬科ってぽい」
 かろうじて言えたのはそれだった。
 那智の見た目は多少の鋭さを感じさせる。横顔など見ていると冴えた三日月のようだ。それが整っているものだから、近寄りがたいという雰囲気まである。
 しかし口を開けば日常ではのんきなものだった。野菜が高いだの、皓弥は細いだの、雨が降ると洗濯物が乾かないだの、日本語の乱れが気になるだの。
 皓弥は時々那智がよく懐いてくる大型犬のように見えることがある。仕事の話になると垣間見せる冷たく鋭い視線から、本当は狼という類のものなのだろうが。
「犬科だから皓弥と付き合えるんだろー。おまえ完璧猫科だもん。気紛れで知らない人間には警戒心丸出し、おまけに滅多に懐かない。飽き性だし」
「おまえもだろ」
「んで、上手くいってんの。犬科の人と」
「さぁ」
 なんだか最近彼女とどうなってんだよ。と聞かれているようで皓弥は妙な気分だった。
「いいなぁ。部屋広い?俺も同居させろよ」
「嫌だ」
 とんでもない提案だった。
 いくら付き合いが長いとはいえ、三村と同居など出来ない。贄の血として鬼に狙われる真咲の特性など一度も話したことがないのだ。
 日々何かに警戒している皓弥を怪訝に思うのは間違いない。
 それにあの那智がそんなことを許可するとは思えなかった。
 あの男は皓弥以外には何故か冷たいようだった。
「大学からチャリで十分なんて、羨ましい限り」
「見笠なんか三分だろ」
「あいつ学寮じゃん」
 見笠とは大学で出会った人物だった。地方から出て、寮に住んでいる。
 同じ学科で、今現在講義を受けているべきなのだが。その姿は見当たらない。
 サボリだ。
「皓弥のノートがあれば大丈夫。んじゃよろしく」というメールが携帯に入って来ている。
 きっと自室で惰眠を貪っていることだろう。
(留年しちまえ)
「俺なんか電車で一時間もかかってんのによ〜」
「俺だって前はそうだった」
「ちくしょー。俺も近くに住みてぇ」
「人の話聞いてんのかよ」
「あ、皓弥後でノート見せてくれ」
「てめぇなぁ……」
 呆れる皓弥の携帯が震えた。
 メールは那智からだ。
(今夜の飯の材料は一緒に買いに行くんじゃなかったっけ?)
 メニューを聞かれても困るんだが。と思いながら開く。
『荻野目が仕事を持ってくる。三限後はすぐ帰ってくる?』
 脳裏に銀色の光が走った。那智の中に生きているそれが、皓弥を呼んだ気がした。
『三限は休講らしいから。後四十分もしたら帰る。昼飯食うから』
 そう送ると『了解』の文字だけが返ってきた。
 神経の一部が冷えていく。それは大学生としての感覚ではなかった。
 この関係はどんな形か。
 朝方に考えていたことの答えが思いついた。
 皓弥と那智は。主と刀だ。
 それがどんなものなのかはまだ皓弥には分からなかった。
 おそらく蓮城の人々しか分からないことなのだろう。
 深く息を吐く。教授の声はもう耳には入って来なくなっていた。


「お帰りなさい」
 帰宅するとリビングには荻野目が座っていた。
 真っ直ぐ肩まで伸びた髪は黒く艶やかだ。
 今日のパンツスーツはキャメルだった。
 コーヒー片手にしたその人の前には那智がいた。
 一瞬母親を思い出し、皓弥は苦さを噛み締める。帰宅して、家に荻野目がいる時はいつもその向かいに母親がいた。
 小さな皓弥を迎えてくれた二人は、もう揃わない。
「ただいま」
「飯はうどんなんだけど」
「いや……」
 那智は立ち上がろうとするが、皓弥はいるとは言えなかった。
 いくら物心付く頃から知っている荻野目が相手でも客であることは変わりない。客が来ているのにうどんをすするというのはどうも気が引ける。
「おなか空いてるでしょう?食べていいですよ」
 皓弥君細いから、ちゃんと食べないと。と毎日のように那智が言っている台詞を荻野目は笑いながら告げる。
「食べながらでも仕事の話は聞けるでしょう?」
「それは、まぁ」
 荻野目に許しを貰い皓弥は鞄を自室に放り込み、那智がいた椅子の隣に座った。
 ぐつぐつと鍋の煮える音がする。どうやらうどんの用意はすでに済んでいたようだ。
「今度の仕事は何ですか?」
「犬か」
 那智が戻ってくる。乾麺を茹でているから時間がちょっとかかる。と言いながら。
「それとも猫ですか?前はカボチャでしたけど」
「ちょうどハロウィンの時期で、仕事を持ってきた私も驚きましたよ。あれは」
「けたけた笑うカボチャがハロウィン間近に出てきたから、ハロウィンまで残そうかと俺は思いましたけど」
 那智が無言で斬り捨てたのだ。うるさい、と言って。
「俺はだみ声は嫌いなんでね」
「しかもおっさんぽかったな」
「今回は人形ですよ」
「あー、髪の伸びる日本人形もあったな」
 那智は気怠そうに言う。
「髪よりも喋っていることほうが衝撃的だったがな」
「稲淳の声で延々語ってくれたなぁ」
「あの絶妙な間の開け方まで一緒だったな。思わず感心した、あれは」
 夏の深夜、たまに怖い話というものを見ている皓弥はあまりにもそっくりな語り口調に爆笑したほどだ。
「しかし見た目が五月人形ってのはな。怖いっていうより笑いだろ」
「皓弥が腹抱えて笑うから斬るに斬れなかったって」
「今回は真面目な感じですよ」
 荻野目は二人のじゃれるような会話を止めるかのように鞄から小さな機械を取り出した。スティック状のそれはボイスレコーダーだろう。
「人を喰っているんじゃないかって話ですから」
 皓弥はその一言に、うどんを食べるなんて言わなきゃ良かったかもな。と思った。
 生臭いことが語られる予感がした。



 


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