参




 
 那智は鬼が立ち上がったことで歩みを止めた。二人の間には十メートルほどが空いているが、その気になれば一瞬で詰められる距離だと、おそらく双方が理解しているはずだ。
「蓮城の刀は主を得たと聞いている。しかも酔狂なことに鬼を斬る仕事を共にしているとな。今宵は連れて来ていないのか」
 鬼の質問には答えない。だが鬼も那智が答えないことなど最初から分かっているだろう。ちらりと周囲を見ては、勝手に頷いた。
「やはりいないか。主は贄の血を持つそうだな。おれば今の俺にはすぐ分かるはずだ」
「浅ましい鬼の嗅覚か」
「ああ。そうだ。もう人間に混ざって生きて行くことは出来ない」
 人間の中で生きて行くことは、伴侶を失った時に捨てた道なのだろう。独りになり、その生き方には何も惹かれるところはなかったのだ。
 むしろ鬼になるほうが、魅力的だった。
「同業者が、人を喰って生きる鬼か」
 鬼の戯れ言など常ならば聞きはしない。ただ喰うだけなのだが、この鬼はあまりにも静かで、斬りかかるタイミングが見付からない。
 喋っているだけではないのだ。鬼は細心の注意を払い那智を警戒している。
 同時にいつでも喰らい付ける状態を保っていた。安易に手を出せば反対に噛み付かれるという予感が那智を動けなくしている。
「同じ生業というのも因果なものだな。それにおまえと俺は似ているよ」
 鬼は憐れだというように深く息をついた。
「俺はな、人の中で人のように暮らし、人の食い物で生きていた。年を取らぬのは奇っ怪ではあったが、それでもねぐらを変えれば大した問題でもない。人に紛れて生きておったよ」
 そうだろう、あの写真の中の男はそれが出来るはずだった。
 それほど落ち着いていた、飢えのない有様をしていた。
「人より力が強く、耳も良いのでな、この仕事は人ならざる者が生業にするには丁度良かった。そこで妻も得た」
 懐かしそうな鬼の瞳には、慈しみが宿る。
 鬼に成り果てた者が浮かべるにはあまりにも似つかわしくない感情だ。人の世を捨てた時に喪っているはずのものではないのか。
「何故、鬼になった」
 どうして鬼になったのかなんて、耳にしてもどうにもならないことだ。けれど唇は動いていた。
 ほんの少しだけ、この人間ではなかった男が鬼になったその理由が知りたくなった。もしかすると自分との違いがそこにあるのだと、確信したかったのかも知れない。
「……俺は、妻と夫婦になってからはずっと共に生きていた。妻はただの人間で、当たり前に年を取り、老いて身体は弱っていった。鬼を殺すのは俺だけになったけれど、家に帰れば妻がいる暮らしは悪くなかった。寂しくもなかった」
 寂しいという言葉に、なんて弱々しい感情だろうと思う。
 だが滑稽だというには、那智の身にも多少は懐かしさのあるものだ。
「妻は俺が自分を偽らずとも一緒にいることが出来る、唯一の女だった。妻に出逢い、俺は初めて満たされるということを知った。妻が俺を人間のようなものに変えてくれた。人の喜び、悲しみを一つずつ手ずから教えてくれた」
 人ではないものが、人に変えられていく。鬼になった男にとってその日々はかけがえのないものだったのだろう。
 もうここにはないものを見詰めている瞳は愛おしげで、まだその場所に未練を残している。
「だが人というのはあっと言う間に儚くなってしまう。俺は細く小さくなった妻を、喪いたくなかった。俺と共にずっと生きていて欲しかった。しかし無情にも、命は奪われた」
「肺炎だと聞いている」
 命が奪われるというような危険な理由で亡くなったわけではない。八十も過ぎた老婆が肺炎で亡くなるというのはほぼ老衰に近い。
 人によってはそう無理もない最期だったはずだ。
 鬼は頷き、そして狂おしげに顔を歪めた。
「そう、病だ。誰のせいでもない。だから俺は何も憎むことも出来ず、だからといって諦めることも出来なかった。何一つ妻を無くしてたまるものか、共に生きると誓った俺の半身だ」
 呻くように語る鬼に、腑に落ちた。
 男が鬼に墜ちたのはこの感情のせいだ。生々しく強すぎる、渇望だ。
 鬼は妻の死から頑なに逃げては、潰えた命を取り戻そうと藻掻いてしまった。
 それは自然の理をも呪う、不毛な道でしかない。
「身体が生命維持を止めたその瞬間から一秒ごとに妻の身体は損なわれていく。それが俺には許せなかった。このまま死ぬなんて、俺のもとから消えていくなど、決して認められない。妻は、俺と生きていくのだ」
「だからおまえは妻を喰ったのか」
 それは予感だった。
 妻が亡くなり、男は姿を消した。そして次に現れた時には人を喰らう鬼になっていたと聞いた時、おそらく妻を喰ったのだろうと感じた。
 憎しみではない感情に突き動かされて、恋しさ故に喰ったのだろうと。
 それはおそらく人間が抱く感情ではない、化け物だからこそ宿す欲望だ。男にならば、それが生まれると察した。
「喰った」
 はっきりと、宣言するように鬼が言った。
 冷たい風が那智の前を擦り抜けていく。それが鬼が鬼たる所以だと、そう聞こえた気がした。
「俺の中で妻は生きている。俺が死ぬまで決して離れない」
 妻は鬼の血肉になり、今もそこで脈打っているとでもいうのか。
 決して死んだとは認めない、鬼の拒絶だけが妻をそこに存在させている。
「ならば何故妻以外の人間を喰らう。妻以外の人間を自分の中で生かすこともないだろう」
「人を喰ったものが、人でいられるわけがないだろう」
 鬼はつまらないことを言うなとばかりに鼻で笑った。もう人を喰らうことに葛藤はないのだろう。
 そして人を喰らっても妻以外のものはその場限りの栄養であると切り捨てる。そこに矛盾があるはずだろうに、もはや道理などではないのだ。
「人の血を覚えたか」
「それもあるさ。だが一番は、鬼に成り果てたほうが長く生きられる。人のふりをしているよりもずっと長く、強く」
「だが組織に目を付けられ、俺が送り込まれた。長く生きるどころか、ここで終わりだ」
 人を喰らえば鬼として寿命が延びるかも知れないが。同時に狩られる危険性があるということを、鬼は知っていたはずだ。かつての生業なのだからそれは当然の考えだったはずではないか。
「いや、死なん。俺はずっと妻と共に生きていく。愛し合いながら、ずっと」
 それは永遠を懇願しているようですらあった。
 そんなものがこの世にあるわけもないだろう。そう冷ややかに笑い飛ばすには、鬼は苦しげだった。
 おそらくこの鬼が一番その愚かさを理解している。
 それでも、もう止められない。
 鬼は突然強くその場を踏みしめた。脆くなった本殿の廊下は鬼の足によって割れ、砕かれては木片が飛び散る。
 それは重力に逆らい、ぶわりと浮き上がる。それを目に映した那智は、両腕で顔を覆った。木片は浮き上がった直後に一斉にこちらへ飛んできたのが分かったからだ。
 鬼になる前の男がどのような手段で鬼を殺していたのかは、仕事を斡旋した者から聞いている。その中で最も印象に残っていたのが、自身の周囲にあるものを磁石のように引き付け、そして逆に強くはね除けることが出来るという技だった。それは気力を溜めなければならないものであるらしく、一日に一度しか出来ない技であるらしいが、飛び道具を加えれば厄介なことになると思っていた。
 まさに今行われたように、無数の鋭利な武器を用いられるとその瞬間はこちらが不利になりかねない。
 鋭い矢尻のように襲いかかるそれは腕に突き刺さっていく。
 あまりに広範囲に飛んで来るせいで避けようと思っても限界がある。下手に逃れるよりも正面で受け止めた方がまだ良い。
 何故なら木片と共に、鬼が眼前に襲いかかってくるのが予測出来た。
 視界は自らの腕によって完全に覆っているわけではない。腕の隙間から前方を見ると真っ赤に染まった眼球が、ぬっと間近に現れる。
 鬼の目だ。
 身体は瞬時に後ろへと飛び退いた。那智がそれまで立っていた場所に、鬼が構えた長い杖のような形状をした、確か坊主たちが持つ錫杖と呼ばれる物がめり込んでいる。頭部にある円に通されている幾つもの遊環という輪っかがシャンと軽やかな音を響かせた。
 地面はえぐれている。その錫杖を身体に受けていたならば肉がそげ落ちていたことは間違いない。
「おまえは俺だ。俺と同じ、いずれ人を喰うさ」
 鬼は呪いのようにそう言っては、錫杖を那智に向けた。
 戯れ言に耳は貸さない。刀を握り直しては自らの呼吸を聞き、一歩踏み出した。
 鬼は斬りかかる那智を錫杖でしっかと受け止めては、力任せに押し返そうとしてくる。
 思っていたよりも鬼の力が強い。跳ね返されそうな圧を感じてはより一層気を引き締める。どうやら暇つぶしのような仕事、というわけにはいかないらしい。
「……面倒だな」
 鬼は那智を強く押しては錫杖を軽く離し、力の拮抗を乱しては今度は間髪入れずに錫杖を叩き込んでくる。防戦に回るしかなくなった那智は、思わず目を眇めた。
「刀は主を愛するそうだな。その愛はとても深く、自己犠牲も厭わないと聞いている。その主が死んだ時、おまえは決してそれを受け入れられない」
 皓弥がもし死んだ時、それをつい想像してはぞくりとしたものを感じた。恐怖であることは紛れもない。
「黙れ」
 つい反射的に言葉が漏れる。
 鬼の妻が亡くなったことに、ほんの少しばかり自分たちのことを思い描いていた。それを鬼に読まれたことが腹立たしい。
 しかし冷静さを乱すなど、らしくない。
「主の死体を前にして、おまえは決してそれを認められない。喪うこと、損なわれることに憤怒を覚える。刹那の間にも腐り落ちていく、果てていく主の身体に気が狂うだろう。人間は勿論、自然であっても、主を奪おうとするものは排除するはずだ」
 那智は、皓弥が皓弥として生きていることを何より尊重している。皓弥の意思は自分のものを上回る。
 けれど皓弥に意識が無くなったその時、どうするだろうか。
 自然に朽ちていく、喪われているそれを大人しく眺めていることが出来るのか。
 喪いたくないという衝動にどう立ち向かえば良い。
「主と一つになり、主と共に永遠を生きることを、おまえは切望する」
 断言する声に、那智は一瞬息を止めた。
 それは皓弥を求め、皓弥と身体を繋げ欲情をそそぐことを止められなかった己の浅ましさを見抜いているようだった。
 皓弥に付き従い守り、傍らに刀として控えるだけでは抑えられなかった。那智の強欲さがそこにある。
「主の身体を体内に入れて、愛おしむおまえの姿が俺には見える」
「黙れ」
「喰らえば、決して離れることはない。主はおまえのものだ」
 永遠におまえだけのものだ。
 それは魔的で、酷く甘美な響きでもあった。










TOP