四




 
 亡くなった後の主を喰らえば、永遠に主はおまえのものだ。
 離れることもない。
 鬼の甘言が頭の中を廻っては、重たい錫杖の一撃に手元が揺れた。柄を握っていた手が痺れては刀が落ちる。
 那智の失態を鬼は見逃さない。にやりと笑った口元から鋭く尖った獣の牙が見える。錫杖ではなく、その牙が那智の首に狙いを定めていた。
 人間のような顔をしていても、所詮は鬼に成り下がった者の浅ましい食欲が露わになる。鬼は那智の首に牙を立て、肉を噛み千切り、鮮血が噴き出す様を想像したことだろう。恐怖に凍り付く表情を見ようとしていたのか、その目が大きく見開かれている。
 だが那智はその牙から逃れようとはしなかった。むしろ襲いかかってくる鬼の、その顔に手を伸ばす。
 おぞましい表情をした鬼の顔面を、片手で鷲づかみにした。
 五指に力を込めて、鬼の勢いを止めるようとする。だが本来ならば到底鬼の勢いを削ぐことは出来ない。力負けして、手を払いのけられるか、もしくは手首ごと食い付かれて失う可能性の高い、そう鬼は思っていたはずだ。
 しかし目元を中心に掴んだ鬼の顔に、那智の指がめり込んでは肉がえぐれる。
「あ、が、っああぁぁ!!」
 濁った男の悲鳴が森に響き渡る。
 その間も那智の指は鬼の顔面を削っていく。けれど血飛沫は上がることはない。指先から飛び散るのはさらさらとした灰だけだ。
 それは風に舞って大気に紛れて消えていく。
 刀が鬼を喰うということがどういうことなのか、目の前のそれは知らなかったのだ。那智が刀の柄を握っているから、刀身が見えるから。それで鬼を斬るのだと、そうすることでしか鬼を殺せないのだと思い込んでいたのだろう。
 それは人間の思考だ。
 刀は人間ではない。この身は刀身そのものだ。
 全身の全てが刃となり、鬼を斬り殺すことが出来る。指先だろうが、肘だろうが、頭部だろうが、身体自体が鬼にとっての切っ先だ。
 ただ殺しやすく使いやすいのはやはり目に見える「刀」という形だった。だからそれを具現化して使っているけれど、その気になりば殴り殺して鬼を喰うことも容易い。
 顔を掴む手を振り払おうと鬼は頭を振っては片手で那智の手首を掴もうとする。力の強さからしておそらく握力も相当なものだろう。骨を折られることを厭い、顔面から手を離す。
 そのついでに首を掴めば、頸動脈を切断出来て殺すのが容易くなると思ったのだが。鬼もそれを察したのか後ろへと飛び退く。
 よろめいた上体へ蹴りを入れるのだが、生憎腕で防がれる。しかも倒れることもぐらついてもくれない。体幹の強靱さに感心してしまうほどだ。
 しかし顔面をえぐった際に右側の瞳に傷を入れたため、鬼は視界が狭まった上に不鮮明になったはずだ。那智が懐に入ろうとした動きに反応が遅い。
 間近に来た那智に錫杖を捨ててはその手を振りかざす。爪がいつの間にか尖り、実に鬼らしい禍々しい姿になっている。
 その爪で那智を斬り付けようとでもしたのだろう。けれど那智は鬼の爪が届く前に、それを払いのけるように手を振った。その掌からは、冴え冴えとした刀身が生み出されていた。
 鬼の爪が切り裂ける範囲より少しばかり早く、その刀身は鬼の腕を切りつける。柔らかな粘土でも切ったかのように、骨ごと腕は斬り捨てられた。
 どさりと腕が地面に落ちた音が聞こえる頃には、那智はその振り上げた手を鬼の肩から胸にかけて振り下ろしていた。袈裟切りをまともに受けた鬼の身体からは灰が舞い上がる。
 掌からは刀身が全て現れ、改めて柄を握る。しかし再び振りかざす必要はないだろう。鬼の骨を断ち、身体の中心まで刃が食い込んだ感触がある。口の中には生命の鮮烈な旨みが広がっていた。
 命に食らいつき、貪る実感が那智の中に浸透していく。鬼の身体が次第に灰と化しているところからしても、すでに生命活動は終わりへと近付いていることだろう。
 鬼はそれでも一歩踏み出しては那智に襲いかかる気力を見せたけれど、伸ばそうとした、残された片手は肩から崩れていく。腕が無残にも土に落ちた時、鬼は力なく笑った。
「もう終わりか。終わるのか」
 そうか、と納得したように呟いては血色の瞳に穏やかさを滲ませた。
「最期まで一緒だ。おまえと離れはしない。俺たちは、一つだ」
 鬼は体内にいる妻に語りかけては目を閉じた。身体の中心部分まで灰となって崩れたせいで、上体を保てなくなってはぐらりと後ろに倒れた。灰が一気に風に吹かれて夜に混ざっていく。
 鬼は満ち足りたように笑んでは目を閉じた。



 木片が刺さった腕は、帰宅する頃には何事もなかったかのように傷口を塞いでいた。勢い良く飛んでは来たけれど、木片はさして大きくもなく、軽い素材だったおかげで浅い傷で済んだらしい。
 皓弥は血の匂いに敏感だ、それに那智が怪我をしたと知ったら心配をかけてしまう。
 那智が単独で仕事を受けているということは教えていない。同行を願われても許可など出来ず、皓弥を落胆させるからだ。
 自分が弱いせいだと、不必要な劣等感なんて抱かれた日には双方にとっての悲劇だ。だからいつも実家の用事だのゼミの飲み会だのと適当な理由を付けていた。
 今日も祖父に呼び出されて実家に行っていた体だ。傷一つ無い状態で帰るのが望ましい。
 自宅に足を踏み入れる前に血を洗い流し、眠っている皓弥を起こすことかないように玄関を開けた。そしてそのまま、皓弥の部屋へと足を向ける。
 すでに眠っているだろう皓弥を起こさないように、極力音を立てずにドアを開けた。案の定皓弥はベッドの上で丸くなって眠っている。
 自分を抱え、守ろうとするかのような体勢だ。顔だけがちょこんと出ているだけで、他は全てがシーツの中に潜り込んでいる。窮屈そうな姿だが、那智と眠っている時はその身体を弛緩させてこの腕に収まってくれる。
 身を固くすることもなく、シーツに隠れるでもなく、体重を那智に寄り掛からせては穏やかな寝息を立てる。
 安心しきっていると分かるその様子を見るのが大好きだった。そうしていると自分が生きている意味を感じることが出来る。
 長い髪を指先でそっと梳く。皓弥が亡くなった母親に自身を似せるために伸ばしている髪も、出逢った時からどれほど長さが変わっただろう。
 皓弥の母親がどんな人であるのかは知らないが、写真の中の彼女は皓弥によく似ている。血の繋がりをはっきりと感じるその姿に、一度で良いから生きている彼女に会ってみたかったと思う。
 刀を嫌っていたという彼女はきっと那智を厭うだろうが、それでも彼女を皓弥と共に守りたかったと思う。それはきっと皓弥にとっても希望になったことだろう。
 物心つく頃には亡くなっていたという皓弥の父親もそうだ。皓弥の両親、この世に皓弥を生み出してくれた人ならばきっと喜んで守れたはずだ。忠犬のように彼らの役に立とうと尽力出来た。
 もう叶わないのが返す返すも惜しい。
 しかし守られるだけの立場を良しとしない主たちの気高さは大変好ましく、眩しいものだ。人間である以上刀よりずっと弱く脆い生き物だ。それは彼らも分かっていたはずなのに、腕の中で始終安穏とはしてくれない。
 皓弥も、母親を殺してはその顔を奪い取った面喰いを自らの手で始末することを絶対的な願いとしている。相手が天然の鬼で、強靱な身体と桁外れの力を持っていることは荻野目からも聞かされているはずだ。諦めろと説得もされていると語っていた。それが冷静な判断だと誰もが言う。
 だが皓弥は折れない。復讐に目が眩んでいるといえば容易いけれど、那智の目にはそれは母親を弔うために避けることが出来ない使命のように見えた。母親の尊厳のため、自分たちの矜持を汚されたままでは済まさないための戦いだ。
 強烈なまでに、生きている。
 那智の瞳にはいつだって、皓弥の生き様が焼き付いている。
 もし皓弥を喪った時、大人しくその死を受け入れられるだろうか。
「俺は」
 喰らうだろうか。
 喪いたくない、奪われたくない。何であったとしても、自分と皓弥を引き裂くもの許さないと正気を捨てるだろうか。自らの体内に皓弥を入れることで、共に生きるのだと狂ったように叫ぶのか。
 今は穏やかに呼吸しているこの肉体が朽ちるなんて、火に焼かれるなんて見ていられない。絶対に認められない。いくら心臓が止まっていたとしても、一秒ごとに細胞が枯れ、肉が腐っていくとしても、この身体が灰になるところは直視出来そうもない。
 あの鬼が選んだその道が、そう遠くないものに感じられる。
 自分の中で永遠に生きる主というのは、蠱惑的な幻想だ。
 ゆらりと指先を伸ばして、皓弥に頬に触れる。
 細身の身体は抱き締めると怖いくらいに骨の感触が分かる。けれど頬はさすがに柔らかく、吐息が微かに指をくすぐっては不意に泣き出したくなった。
「出来ないよ」
 皓弥を傷付けるなんて出来ない。
 たとえ命が潰えても、魂はこの肉体にないと言われてもどうしようもなく大切にしたい。
 皓弥の肉体という器も、皓弥を作り上げているものは全てが愛おしくて、この手で奪うなんてことは出来ない。死んでしまった、朽ちていくだけの身体になったと言われても、抱き締めることしか出来ない。
 愛するということは狂おしい。最期のその時がこんなにも恐ろしく、それを知りながらも無力に成り果ててしまう。
 自分はこれほどまでに脆弱だったただろうか。
 皓弥の頬から手を引くと、那智の指先を追うかのように皓弥のまぶたが震えた。
 目覚めるのだろう。瞳に自分が映される、その喜びの時を待っていると数秒後にぼんやりとした双眸が那智へと向けられた。
 眠たそうな、焦点の怪しい瞳はそれでもちゃんと那智を認識してくれる。
「おかえり」
 呼吸音のような声に「ただいま」と返す。顔面の筋肉は自然と崩れ、声音は丸くなっているのが自分でも分かる。皓弥と喋ると自然にそうなってしまうのだ。
 皓弥は何故か後ろへと身体を下げていく。元々セミダブルベッドの丁度窓際半分に収まるようにして横になっている。そこから更に窓側に移動すると、ベッドからずり落ちてしまうだろう。
「落ちるよ」
 背中がベッドから出てしまう前にそっと手前に引き寄せる。すると怪訝そうな顔をされた。
「……入れないんじゃないのか?」
 どうやら那智が皓弥を眺めていたのは、ベッドの真ん中に寝転がっており那智が入るスペースがないからだと勘違いさせてしまったらしい。
 そんな心配はしなくとも、皓弥はもうずっと前からベッドを半分しか使わない癖が付いている。那智が毎晩添い寝をしているため、身体が定位置を覚えたのだろう。
「まだ風呂にも入ってないから」
 就寝は必ず風呂に入った後だとこの家では決まっている。これが皓弥の習慣だからだ。
 なので何時であっても、疲れ果てていても、風呂に入って一日の汚れを落としてからベッドに入る。皓弥は那智の返事に目を閉じてはまた丸くなった。
 早く風呂に入って来いということだろう。
「皓弥、長生きしてね」
 それだけは切に願う。
 脈打つ心臓がその音を響かせ、酸素を吸い込む肺が正常に機能を続けては、明日を当たり前のように迎えて欲しい。何の変哲もない黎明を、どうか安らぎの中で繰り返したい。
 この日々は奇跡などではないと感じたい。
 そしてその命が最期を迎える時は共にこの命も終えよう。
 那智の幸福はそこでおしまいだ。
「……寝言が早い」
 皓弥はうっすらと目を開けては叱るようにそう言った。
 うんと答えながら、祈る思いで皓弥の額に唇を落とした。








TOP