弐




 
 ビルとビルの隙間のような細い道を通ると、その奥にひっそりと隠れるようにして佇んでいる喫茶店がある。商売っ気は薄く、店の前に立て看板もない。
 装飾は施されているが人目に付くというには小さい看板がドアにかけられているだけだ。那智がドアを躊躇いなく引くと、カランとドアベルが鳴った。
 室内は真昼だというのにビルに挟まれているせいで暗い。その上店内はアールヌーヴォを基調としたランプを照明としており、光量が足りていない。
 古めかしく少し華美な洋風のテーブルや椅子、調度品が配置された室内は良く言えば雰囲気がある。しかし那智の感覚からしてみれば胡散臭いとしか思えないものだった。
 褒められる点があるとすれば、静かなところだろうが。音楽の類はかかっていない。コーヒーが立てられるコポコポという微かな音だけが淡く聞こえるだけだ。
 一見はまず来ない。そもそも見付け出すことが出来ないだろう。
 店内を見渡した際に一組だけ客がいたが、以前ここに来た時にも見た覚えのある背格好をしていた。おそらく常連なのだろう。
 好みがはっきり分かれるだけあり、好きな人間にとっては居心地が良いのかも知れない。
 店の奥には敷居があり、閉鎖的な店の中でも更に隔離されている空間へと入っていく。そこに二つあるテーブル席の片方にはすでに人が座っていた。
 スーツ姿の中年の男だ。きっちりセットされた髪型に生真面目そうな顔立ち。こんなところにいるよりも、店の左右に建てられているビルでサラリーマンでもしていそうな風体だが、那智を見て微笑んだその表情は、癖がありそうだと感じさせる。
 実際男は癖が強いどころか真っ当な職業の男ではないのだから、その表情のほうが自然なのかも知れない。
「お待ちしておりました。今回は蓮城さん個人にしかお願い出来ない仕事です」
 那智が席に着くと男はそう切り出した。
 男は組織の人間であり、鬼を殺す仕事を持って来る。他人に聞かれたくない話ということで、依頼を聞くのは大抵この店だった。
 しかも那智を指定したということは、鬼は厄介な相手なのだろう。
 那智は現在皓弥と一組という形で仕事を請け負っている。皓弥一人で鬼を斬らせるにはあまりにも危険だからだ。そして仕事の内容も皓弥に合わせたランクのものを、とあらかじめ話を通していた。
 おかげで那智の存在を加味しても、あまり危険度の高いものは持ち込まれないようになっている。荻野目もその辺りはしっかり考えていることだろう。
 マスターである初老の男が何も言っていないのにコーヒーを運んで来た。このテーブルに那智が着けば、注文するものは決まっている。それを記憶しているようだ。
 そう頻繁にここを訪れるわけではないのだが、おそらくこのテーブルに着く者が少ない上に、マスターにとって那智が異質に見えるせいだ。
 元は同業者であったと、本人から聞いたことがある。そんな人間からしてみれば那智もまた、人間ではないと分かるはずだ。
 マスターが去ると、男はテーブルの上に写真を置いた。
「今回のターゲットです」
 見たところ三十歳ほどの人間に見えるけれど、那智に依頼するところからして人間ではないのだろう。
 那智の元には大抵人の手に余るものしか来ない。
 だが見た目は異形とは言い難かった。
「人間に近いな。天然か?」
 鬼の多くは人間が鬼に成り果てたものだ。元々は人間の姿形をしていても、鬼になるにつれて化け物へと姿を変える。
 だが元々は人間であった鬼を斬り殺す依頼というのはあまり舞い込んでこない。それこそ皓弥と共にこなす領域だろう。
 元が人間だった者はそう手を患わせることがないのだ。所詮は人間だっただけに、肉体が脆弱なのだろう。
 しかし天然となると生まれた時から人間と同じ姿をしている。異形に成り果てる必要もなく、あるがままで存分に鬼としての能力を発揮することが出来る。最初から完成されている者たちだ。
 成り果てた者とは桁違いの能力を持っており、いくら鬼を斬る訓練をしていたといっても人間の手には負えない。
 だから鬼は天然かと思ったのだが、男は「いえ」と否定した。
「これはターゲットがうちで働いていた頃の写真です。ターゲットも鬼を始末する側の者でした。それも蓮城さんと少し似ていて、鬼や化け物を自分の力に変えることが出来るタイプです」
「鬼を喰うのか」
「主食、というわけではないようですが。鬼を喰えば一時的に身体能力が僅かばかり上昇するようです。まあただの人間からは外れていますね。この見た目ですでに百歳は超えているそうです」
 これほど年を取らぬ者は人間とは言えないだろう。
「ルーツはどこだ」
「本人にも分からないそうです。あやかしの血が混ざっているのは間違いないでしょう」
 血統の大本がどこなのか。一体何の異形の生き物であるのか。それを辿れば殺し方も多少は分かりそうなものだが、生憎謎のままであるらしい。
 本人すらも自分の血筋を知らないなどということも、この手の生き物にはままあることだ。
 記憶を失っているか、本当に何から生まれたのか分からないのか。百年も生きていれば血筋だのということに拘泥することも無くなっていたのかも知れない。
「それで、これが鬼に成り果てたか」
「はい。実はターゲットは四十年ほど前までは女性のパートナーと二人で鬼を始末する仕事を請け負っていました。ですが女性は人間で、年齢と共にこの仕事が難しくなり引退。それからは男が一人で仕事をしていました」
 異形は年を取らずとも、ただの人間は自然と共に老いを重ねていく。同じように生きて行くには無理があったのだ。
「女性とは夫婦のような関係で、最近までずっと一緒に暮らしていたようです。ですが昨年の春、女性が肺炎で亡くなりました。八十も過ぎていたので、そうおかしな亡くなり方ではありません。ターゲットはそれから仕事を請け負わなくなり、ふらりと姿を消しました」
 連れ合いを亡くし、それまで人間の中で過ごしてきた営みに見切りを付けたのか。同じように年を取ることが出来ない、病に蝕まれることもない自身をどう感じたのか。
 考えることは無駄だと分かりながらも、少しばかり思案してしまう。人間と、人ならざる者の間にある隔たりをそこに見てしまったからだろう。
「ターゲットは今年に入って、人を喰う鬼として目撃されました」
「墜ちたか」
「そのようです」
 何十年も共に暮らした連れ合いを失ったことが、ターゲット鬼にしたのだろう。
 喪失感か、悲しみか、それとも何かしらへの憎しみか。鬼になるには途方もない強く深い憎悪が付き物だが、連れ合いの死がターゲットを鬼にするまでに悲壮なものだったのかも知れない。
「うちで仕事をしていたのでこちらの手の内を知っています。仕事柄、殺人技術も高い」
 鬼を殺していた者が人を殺すのはとても容易いことだろう。たとえ鬼を殺す訓練を受けた人間であっても、ターゲットはその訓練の中身も予想が出来るはずだ。
「やりづらい相手というわけか」
「敵に回したくはありませんでした」
「だが回ってしまったものは、殺すしかない」
 鬼を殺すのがこの組織の、そして那智の仕事だ。
 手強いことは面倒だとは思うが、仕事として請け負うのならば相手がとんなものであっても、必ず殺す。那智はそれだけを重視している。
「仲睦まじい夫婦だったそうです。奥さんを亡くされて、正気を失ったのかも知れません」
 男はコーヒーを口に運びながら、声のトーンを陰らせた。憐れみを覚えているのかも知れない。
 もしかするとターゲットと顔見知りか、仕事を斡旋していた可能性もある。
 だが那智は冷ややかな声音を崩しはしなかった。
「百年も生きていれば覚悟も出来るだろう」
 人間は自分より先に死ぬ者だ。いちいち悩まずとも、明確な答えを幾つも見てきたのではないか。
 それがいざ自分の傍らで起こったからといって、気が狂い鬼に墜ちるようなものだろうか。
 分かりきっていたものがやっていただけだ。
「いざ我が身になってみなければ分からないものですよ」
 男は那智の台詞に、静かにそう告げる。
 自分の倍近く生きているだろう男は、那智の若さを指摘しているかのようだった。



 読経が聞こえる。
 夜の山奥で、それはひっそりとこだましている。
 夏の虫の声も、夜に鳴く鳥の声も聞こえない。生きているものは読経に怯えて、じっと息を潜めているかのようだ。それだけに異様な空間だった。
 唯一冷え切った風に揺れる葉擦れの音だけがする。だがそれも読経に掻き消えそうなほど淡い。
 舗装されていない獣道を雑草を踏み分けるようにして進む。満月は出ているが木々に阻まれる。光源を持って来なければ歩けないような道だ。
 道を進んでいくと開けた場所に出る。その真ん中に廃寺が鎮座していた。
 とうに人の手を離れたのだろう、小さな本殿は朽ち、木材は腐り果て屋根には穴も空いている。今にも崩れ落ちそうな本殿の扉の前で、男が座禅を組んでいた。
 作務衣を着ているのは坊主にでもなったつもりだろうか。
 写真で見た時よりもターゲットは年老いているように見えた。五十歳ほどに見え、頭髪には白髪が目立ち、目元は落ちくぼんでは深い皺が刻まれている。年を取ることを忘れたはずの生き物が、伴侶の死と共に老いを覚えたのか、それとも精神的なものか。
 那智は躊躇いなくターゲットへと近付いた。廃寺を避けるように、その場所だけぽっかりと木々が絶えているため、満月の光が皓々と辺りを照らしている。
 青白い光を浴びながらゆっくり進むと、不意に読経が止まった。
 ターゲットが那智を見据える。真っ赤に血走った目と視線がぶつかり、身体の中でぐつりと本能が疼いた。
 これは人間ではない、鬼だ。
 真っ先に食欲が目覚めては那智を突き動かそうとする。だが意識はその食欲を押しとどめては、規則正しい呼吸と鼓動を続ける。
 乱れてはいけない。それは隙に変わる。
 鬼を殺すことは喰うことでもあり、命の奪い合いでもある。
 本来食事とはそういうものだ。
 喰うか、喰われるかの殺し合いだ。
 自身が刃になっていくのが分かる。一振りの刀として研ぎ澄まされ、目の前にあるものを斬るための道具になる。無意識に右手を軽く振っては、自身そのものでもある刀の柄を握る。
 皓弥が冷たく美しいと褒めてくれるこの刀身も、今は貪欲な鋭さを纏っていることだろう。
「蓮城那智か」
 鬼はどうやらこちらを知っているらしい。
 気怠そうに立ち上がっては那智を見下ろしている。声音は落ち着いており、下等な鬼のように殺気立っていることも、怒りや食欲に支配されているということもなさそうだ。
 一見まだ人間そのものに見えるところからしても、自制心は生きているのだろう。
「人間の手には負えないと思ったか。正しい判断だ。俺はもう、芯まで鬼に墜ちたからな」
 鬼は悲しむでも憎むでもなく、淡々とそう告げた。
 その事実を自ら受け入れたのだと、何も問わずとも分かるような様だった。










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