パウンドケーキの生地を型に流し込み、百八十度に温めておいたオーブンに入れる。二十分のタイマーをかければひとまず手を離しても構わないだろう。 待っている間に晩ご飯の下ごしらえをするかと冷蔵庫を開けると、皓弥が「パウンドケーキか?」と声をかけてきた。 オーブンに入れられた型を見てはそう予測を付けたのだろう。これまでも幾度か作ったことがあるので、製菓に疎い皓弥にもぴんと来たらしい。 「そうだよ。三時に間に合うように作ってるからちょっと待って」 「パウンドケーキって手間がかかるんだろう?」 「そうでもないよ」 「いや、絶対かかってるだろ。この前那智がパウンドケーキを手作りしてるって言ったら荻野目さんがびっくりしてたぞ。生地を作るのも手間がかかるし、焼き始めたら何度もオーブンから取り出して焼き具合を調整しなきゃいけないって」 「オーブンから取り出すのは三回だけだよ」 約二十分を三回だ。今回は事前に作り置きしているオレンジのシロップ煮をトッピングするので、焼き具合も気にしなければならないが。その程度ならば苦にならない。 「料理に関しては本当にまめだな。しかも美味い」 「お褒め頂き光栄だ」 皓弥はよく那智が作った物を「美味い」と言ってくれる。料理をしない、食べるだけの人間が作り手に感想を伝えるのはせめてもの感謝だと思っているせいであるらしい。 美味しくない時もちゃんと素直に美味しくないと言ってくれと伝えているが、まずいと思ったことがないと返される。 そう言われて、料理を作るのが嫌になるはずもない。むしろ力を入れるのは当然のことだろう。 「子どもの頃からやってたんだろう?」 「中学生の頃からかな。始めは春奈さんに教えて貰って、基礎が出来てからは独学で色々試したよ」 「料理が好きなんだな」 「そうだね。それに皓弥の栄養になるものだから、気合いも入る」 口から摂取する食物は皓弥の中でエネルギーに変えられる。その血肉になっていくものに無頓着でいられるわけもない。皓弥の身体に何が必要か毎日考えながら、味付けを思案しつつ暮らしている。 それは健全でどこか慎ましく平穏な時間だ。 「俺の栄養なんか適当でいいんだよ。飯作ってくれるだけで充分だ」 那智が皓弥に関して手間や時間をかけることを、皓弥はあまり喜ばない。そんなに世話をして貰う必要はない。子どもじゃないのだから、自分のことは自分でやると言い張るのだ。 家事能力が著しく低いのに、自立心がとても強い。一人の人間としてはそのプライドの高さは好きなのだが、思う通りにさせていると身体を壊しそうなので何かと言い訳をしながら、皓弥の生活を支えなければいけない。 「俺が好きでやってるんだよ。趣味だから、皓弥が気にすることはない」 料理もお菓子作りも洗濯や掃除が好きなのも、那智の趣味だ。生活を整えることが生き甲斐だ。 そう皓弥には言ってある。だから生き甲斐をどうか奪わないで欲しいというお願いまでしていた。そしてそれはあながち間違いでもない。 全ては主のために。 それが那智が歩んできた人生だ。 幼い頃から、これから出逢う主に求められること全てに応じられるように、想定される要望は出来るだけ吸収した。 共に暮らすために家事一切の技術や教養、多方面の事柄に一通りの知識を仕入れた。経験出来ることは軽く身をもって味わい、そしてそれらをひけらかすことなく、主の性格に合わせて何も知らないふりも出来るように。ありとあらゆるパターンを考えて、柔軟に適応出来るように自分を作り上げていた。 この世にいるたった一人の人間に、どこまでも合わせられるように。数多の想像を繰り広げては自分をそこに当てはめた。 皓弥に出逢うまではひたすらに、主に仕えられる忠実な自分を育てることが自身の存在理由だったのだ。 けれど実際に出逢った主は、那智が思っていたよりもずっと素直で心根の優しい人間だった。それまでどのような扱いをされても、刀という道具としてうち捨てられることも本望であると心に決めていたのに。そんな覚悟を不要のものだとして、那智を敬ってくれる。 那智がどこかで思い描いていたかも知れない、理想的な主そのままが皓弥だった。 傍らにいることが至上の喜びだ。皓弥の刀として生きることが出来て、これ以上の幸福はない。皓弥のためならば何でも出来る。 皓弥は大袈裟だと言うだろうが、那智にとっては事実だ。皓弥のために惜しむようなものは一つたりとも無い。 皓弥の身体を考えながら料理をすることなんて、苦労どころか楽しみ以外の何であるかというのか。手間だなんてとんでもない。 しかし思ったことそのままを伝えると皓弥が実に複雑そうな表情で、逆に那智に気を遣ってくるので。那智は自分をただの料理好きだと言い張っている。それを素直に信じてくれるところも、皓弥の性格の良さだ。 オーブンを覗き込みながら、皓弥は興味深そうに中を眺めている。まだまだ生地は膨らみはしないのだが、出来上がるのを待つ子どものようだ。 微笑ましさに鼻歌でもうたいたくなる。皓弥の側にいると、日々がとても充実していた。 出来上がった煮物を前に、腕を組む。オレンジのパウンドケーキはしっかり三時に間に合い、皓弥のおやつに出来たのだが。晩ご飯の煮物について、どうにもしっくりこない気がしたのだ。 皓弥と共に祖父の家に行った際、たまたま春奈も来ており四人で晩ご飯を食べることになったのだが、春奈が作った手羽先と大根の煮物を皓弥は気に入ってよく食べていた。 美味しいと絶賛していたので、その味を覚えて今日作ったのだが。出来上がったものに納得が出来ない。 料理の基本は春奈から教えて貰い、充分に身に付いたと思っている。腕も春奈と比べられてそう劣ってはないはずだと思うのだが、煮物に関してだけはまだ胸を張れずにいた。 煮物を作る際にコツがあるのだろう。それも春奈から聞いたのだが、何か足りないのだろうか。 気になって思わず春奈に電話をかけてしまった。 丁度手が空いていたらしい春奈に煮物の作り方を最初から細かく説明し、何が悪かったのかと尋ねるのだが返ってきたのはくすくすという控えめな笑い声だった。 『大丈夫、ちゃんと美味しく出来てるわ』 「まずくはないとは思うが、皓弥が美味しいと言っていた春奈さんの味になってるかどうかは分からない」 『そんなに私の味にこだわらなくてもいいじゃない』 「俺は少しでも皓弥にとって美味しい物が作りたい。皓弥は春奈さんの煮物が気に入ったみたいなんだ。だからそれを再現したい」 皓弥が望む最上を作り出すことが那智にとっての楽しみであり、そこまで腕を上げるのが刀としてのやりがいでもある。 この程度で大丈夫だろう、という生温い価値観で料理をしたくはなかった。 『この前一緒にご飯を食べた時に皓弥君が私の料理を美味しいと言ってくれたのは、私が作ったことに関して気を遣ってくれたからよ。半分以上はお世辞』 「お世辞なら一度でいいだろう。でも皓弥は何度も言っていた」 春奈の料理を料理を食べる機会はあまりないため、皓弥が春奈に配慮して料理を絶賛したという可能性は那智も考えていた。 けれどそれならば一度や二度口にすれば充分ではないか。けれど皓弥はそれ以上に春奈を褒めていた上に「マジで美味しい」と微かに呟いたのだ。 誰にも聞こえないだろうと思う声量は紛れもなく皓弥の本心だ。 『あら、それは嬉しい』 無邪気にはしゃぐ春奈に少しばかりむっとしてしまう。こちらは悩んでいるというのに、暢気なものだ。 「春奈さん、俺は真剣なんだが」 『分かってるわ。だからいいことを教えてあげる』 「なに。作り方が違う?」 『皓弥君。私の料理は那智と味が一緒だって言ってくれているのよ。この前の時もそう。那智の料理が毎日美味しいって、私にこっそり教えてくれたの』 春奈に対しても、那智の料理が美味しいと言ってくれているのか。 味が同じということは、今日作ったこの煮物も皓弥の好みにちゃんと作られているだろうか。もしそうならば良いのだが。 『私の味なんて気にすることはないのよ』 「そうだろうか」 皓弥にとっての一番美味しいもの、心地良いものを探してしまう。それを自分のものにしなければ、気が済まない。 『本当に気になるのね』 「ああ」 『皓弥君の全てが、貴方にとっては重大ですものね』 「この世で最も、重大だ」 『皓弥君に出逢う前から、貴方はそうだった。ずっと、そう』 「そういうものだから」 自分自身よりも遙かに、主はこの身を支配している。 那智を産み落とした人である春奈も、刀の血を濃く継いでいる。ただの人間とは異なる彼女も、那智の気持ちが少しは分かるのだろう。まだ見ぬ主に焦がれる那智を、それは静かに見守っていた。 誰にも止められない、刀である以上主以外の束縛も受け付けない。この世でたった一つの存在。そう春奈も識っていた。 『良かった。皓弥君が主で』 春奈は電話の向こうで噛み締めるようにそう呟いた。 那智が皓弥のことに関してあれこれ喋った、という記憶はない。料理に関することで助言を求める場合はある、その際に付随するように小さな日常のことを伝えたことはあるけれど、中身はつまらないものだ。 けれど春奈は皓弥に会った際に、その人柄も那智にどう接しているのかも見ていたことだろう。 感じ取ったものが多くあったはずだ。 そして那智がどれほど満たされていることか、その目にもきっと映っていた。 「俺もそう思うよ」 皓弥以外の主などいない。それは当然のことなのだが、もし今皓弥は主ではないなどという事実が万が一起こったとしても、皓弥だけを選ぶ。 皓弥が自分を振り返らなくなっても、この身体にある心臓はすでに皓弥の元に預けている。もうこの身体には存在していない。 それは幸いなことだった。 次 |