五




 
 男は桔梗と睦のいる階段の一つ上で立ち止まった。
 自分はこちら側に属していると主張しているかのようだ。
「何をしている。大和」
 那智は呆れながら、そう問い掛けた。
「ミイラ取りがミイラになったんだよ」
 大和は肩をすくめた。
 それが意味するところは、一つだった。
 春日の叔父というのなら、鬼を狩る側の人間なのだろう。それが捕らわれたということは、鬼に惹かれてしまったということだろう。
 確かに桔梗はとても美しい姿をしている。隣にいる少年も同じだ。
 人では作り出せないほど整った顔立ちは目と心を奪うものだ。しかし皓弥には鬼に属することは信じられなかった。
 人間だというのに、補食する者の側にいるなんて。
 今でも皓弥はここから逃れたいと願っている。それなのに大和は全く逆だというのか。
「睦に捕らわれたか」
 那智は意外にも、少年の名前を口にした。
 桔梗ではなく、大和は睦に惹かれたのだと。
 それは間違いではなかったらしい、大和は頷いた。
「睦は、他の鬼とは違う」
「知っている。見れば明らかだろ」
 那智も、大和も、皓弥と同じ感想を抱いていたらしい。
 他の鬼とは、違う。息苦しいような威圧感がないのだ。しかしとても強く、大きなものだということは感じられる。
 恐怖というより、畏怖のようなものを抱かせるのだ。
 見たところ思春期の少年ほどの年齢をしている鬼が。
「純粋な鬼なんだ」
 聞き慣れない言葉だ。
(純粋?天然とは違うのか?)
 言い方が変わっただけなのだろうか。
「それも知ってる。で、帰らないのか」
 大和は苦みを飲み込んだような、複雑な表情を見せた。
「ふらふらしていた睦を見つけては、捕らわれてしもて。離れへんのどす」
 桔梗はさもおかしいというように小さく笑う。
「で、姐さんはここに置いてるの?千堂を?」
「睦が気に入ってしもたんどす」
 白い着物を着た、裸足の少年はふと皓弥に顔を向けた。
 漆黒の瞳が、じっと見つめてくる。
 それは深い森の奥のようだった。静けさが満ちている。しかし生きている。
 人など一気に飲み込んでしまう力と大きさがそこにはあった。
 殺されるという恐怖はない。だが包み込まれれば、這い上がれなくなるという怖さはあった。古く大きな木に包まれてしまえば、こんな漠然とした不安を抱くかも知れない。
 強い視線に掴まれていると、頭を引き寄せていた那智の指が、そっと耳に触れた。
 その感触にはっと我に返る。
 那智を見上げると、微かな笑みが返された。
「春日には、言ってないのか?」
 皓弥に視線を向けながら、那智は大和に声を投げる。
 視線を合わせると冷えていた身体にそっとぬくもりが入ってきた。
「言ってない」
「探している」
 那智は横目で大和を見た。皓弥の時と比べ、随分平淡になる。
「…だからって言えないだろ」
 苦渋を滲ませた大和に、那智は「まあな」と軽く答えた。
 二人のやりとりを黙って聞いていた睦がふと大和に手を伸ばした。
 細く白い指だ。どこか儚げな雰囲気があった。
「あの人は…?」
 物を知らない小さな子どもが大人に尋ねているかのようだ。
 危なっかしいところが感じられる。
「背が高いほうが那智。蓮城の刀だ。それでもう一人が」
 大和は皓弥を見て口を閉ざした。お互い初対面だ。
「主だ」
 那智は春日にそう言った時と同じように、笑みを浮かべて柔らかな声音で皓弥を「主」と言った。
 自慢だと言うように。
 この瞬間だけはやはりくすぐったい。
「とうとう見つけたのか」
 大和は目を見開いて皓弥を見た。物珍しいような見方はされたくないのだが、那智が長年求めていたということを知っているのだろう。感心しているような顔を睨み付けるのも大人げないと思って止めた。
「あの人に触っちゃ駄目?」
 睦の発言に、皓弥はうっすらと唇を開けた。「は」という響きが微かに零れる。
(触る!?)
 そこら辺で遊んでいる犬や猫でもあるまいし。どうして人間に触りたいなど、しかもさして特徴があるわけでもない男相手だ。
 天然の鬼というのは思考が飛び抜けているのだろうか。
 しかし隣にいる桔梗は苦笑している。
 あまり良いことではないという意識はあるらしい。
 大和に至っては皓弥と同じように耳を疑っているようだった。
「それは駄目だろ」
「那智さんが許しはらへんわ」
 有り難いことに、止めてくれたのは大和と桔梗だった。
 しかし睦は明らかに肩を落とした。
 落胆を隠しもしない。
「ちょっとだけならいいよ」
 ほっとしていた皓弥に冷水を浴びせたのは、那智だった。
 皓弥は那智を見上げて唖然とした。
 この男は何と言った。
 いい?触れてもいいと言ったのか。
 信じられない。ここに来て、那智は本当に信じられないようなことばかりしているし、言っている。
 驚愕のまま凍り付いている皓弥を、那智は背後から両手で抱き包んだ。
「ちょっとの我慢だから」
 頭だけでなく、全身を包まれて皓弥は安心感を覚える。だが、問題はこれから鬼が触れてくるということだ。
 それは死ぬということではないのか。
 もし鬼がほんの少しでも皓弥に傷を付ければ、あの恐ろしい桔梗という鬼も、そして不思議な雰囲気を持っている少年の鬼も、狂ってしまうだろう。
 そうなれば、那智と二人で対応出来るのか。
 考えただけで涙腺がまた緩んだ。
 逃げたい。こんなに嫌なのに、どうして那智は拘束して、恐怖を強制してくるのか。
「信じられない…」
 消えそうな声でそう呟くと、耳元に唇が寄せられた。
「ごめん。でも大丈夫だから。姐さんならともかく、睦は純粋だから」
 皓弥は首を振る、純粋なんてことは知らない。
「睦は人を喰わない鬼なんだよ」
「喰わない…?」
「自然から生気を貰って生きている。他の鬼と違って人を喰うことを知らないんだ。だから人に対して食欲がない」
 食欲がないということは、皓弥の血を欲しがることがないのだろうか。
 言われてみれば、あの視線はとても深く大きなものだが、浅ましいほどの貪欲さは感じられない。
「でも最近は自然自体が少なくなってるからね。こうして山にいてもなかなか生気が喰えなくて、身体はあんまり丈夫じゃない」
 睦の小柄な体付きは、細身だからだろう。
 確かにあまり健康そうには見えない。
 肌の白さは生気が薄さなのか。
「触るのは一瞬。何かすればすぐに斬る」
 那智は睦にそう告げた。
 言われた鬼はこくりと頷いて、皓弥に近寄ってきた。
 思わず足が後ろに下がった。だが背には那智がぴったりくっついている。
 逃げられず、泣きたい気持ちでいっぱいだった。
 鬼に対しても臆してはいけない。殺気を向けられても怯んではいけない。
 そう分かっているのに、どうしても身体は恐れていた。
 睦が目の前に来ると、恐怖が頂点に達すると思った。しかし実際は怯えが収まっていく。
(…ああ…)
 土や緑の香りがした。
 懐かしい、とても恋しい匂いだ。
 地面に寝ころべば、こんな雰囲気に包まれるのだろうか。ふとそんなことが頭の中をよぎった。
 那智は皓弥の胸の前で手を合わせた。刀を出そうと構えているのだろう。
 もし何かあれば、瞬時にこの鬼を斬り捨てるつもりなのだ。
 そっと、睦の細い指が皓弥の頬に触れた。
 冷たい感触に、雨上がりの土を思い出した。
 子どもの頃、母親の目の届く範囲で遊んでいた時、盛大に転んだ瞬間に嗅いでいた匂い。
 アスファルトより暖かくて、しっかりと受けとめてくれる大地。
 間近にある双眸はやはり深い。底などないかのようだ。だが不思議と優しげであった。
 深くとも、闇ではないのだろう。暗がりでもない、そこには光という生気があるのだから。
(不思議な鬼…)
 血の匂いも、狂気の匂いも全くない。あるのはさらりとした静けさだけだ。
 見つめ合っていると、苦笑する気配を感じた。
「ハイ。そこまで」
 那智が制止をかけると、睦はむっとしたような目をする。
 だが不満を訴えたところで、折れるような男ではない。
  「睦のお願いも聞いたことだし」
 那智はぎゅっと皓弥を抱き締めた。また怖い思いをさせたと思っているのだろう。確かに心臓には悪いが、離れた今はさして嫌な気持ちではなかった。
 残念だという顔をしながら、睦は桔梗のところに戻った。
「面喰いについて、教えて欲しい」
 那智は交換条件を出したようだった。
(だから、俺に触れてもいいって言ったのか)
 何の見返りもなく、皓弥を危険に晒す男ではなかったらしい。
「面喰い?また妙なものをお知りになりたいんどすなあ。この辺りでは聞きまへんえ」
 桔梗は睦の頭を慈しむように撫でる。鬼にも身内に甘いのだろうか。
「今はどんな顔なんかも、分かりまへん」
「こういう顔だよ」
 那智は皓弥の頬に触れた。
 三人の視線に晒され、皓弥は唇を噛む。
 鬼の視線は痛い。
「そういうことどすか。分かりました。見かけた時には御本家に連絡しますよって」
 何故面喰いについて尋ねるのか、桔梗は納得したようだ。
 本家というのは、昇司のいる家だろう。鬼だというのに蓮城と交流がいるらしい。鬼を狩る家と、鬼が繋がっているとのは妙な話なのだが。以前、那智は「鬼は鬼に聞けってね」と言っていた。
 独自のルートがあると思っていたのだが、桔梗のことだったのだろうか。
「何か知りませんか、あれについて」
 情報を欲しがる那智に、桔梗は瞬きをした。
「そうどすなあ…。十年か二十年に一度顔を変えること。深い傷でも負わへん限り、それくらい顔を持たはるらしいどすな。独りで動かはるお方やから、詳しいことはうちもよう知りまへんわあ」
「ありがとう」
 那智は素直にお礼を口にした。口先だけでないことは、口調から感じられる。
「いいえ。睦の我が儘を叶えてくれはったんやもの」
「姐さんは睦に甘いね」
「今の那智はんに言われるやなんて」
 くすくすと桔梗は嫌味なく笑う。
 ごく自然なやりとりだ。
「那智」
 大和は真剣な面もちで那智を呼んだ。
「春日は…どうしてる?」
 会えないと言いながらも、気になるらしい。
「本家から出て一人で好き勝手やってるよ。たまに会うが、変わってない」
「そうか」
 明らかにほっとした大和に、那智は苦笑しながら「会えば」と言う。
 だが首を振るだけだった。
 大和が沈むのを気にしてか、睦とそっと大和の手に触れる。気遣っている様子に、皓弥は驚いた。
 鬼なのに、人を心配しているかのようだ。
 人間なんてただの食料。鬼はそんな風にしか思っていないと考えていたのが、覆される。
 ただの鬼と天然は異なるのだ。
 天然は、人間にとても近い。生まれた時から鬼だったというのに。
 人間が鬼に墜ちれば、獣のごとく狂うのに比べて、皮肉なことのように思えた。



 階段を下りる足取りは、登る時よりも格段に軽かった。
 鬼の気配をうっすらと背後に感じるというのは、重圧ではあったが、自ら近付いていくより遙かにマシだ。
 今度は那智が一歩後ろを歩いている。
「このために、昨日抱いたのか?」
 天然の鬼と対峙するために、少しでも贄の血の匂いを誤魔化そうとしていたのだろうか。
「そう。刀の気配が濃く付いてると、さすがに手を出しにくいからねぇ」
「いつもはそんなことしないのに」
「しなくていい相手なら、あんな抱き方しないよ。皓弥だって今ちょっと辛いだろ?」
 ちょっとどころではなかったりする。
「とにかく知らしめたかったんだよ。皓弥が主だってことを。手を出せば殺すってことをね」
 言葉より分かりやすく、あからさまな方法をとったということだろう。
 何やら原始的なやり方のような気がするが。
「…あんなことで、本当に匂いが残ってるのか?」
 洗い流したというのに、分かる物には那智の匂いが付いているとかぎ分けられるのだろうか。
 そう思うと今更ながらに恥ずかしい気がする。
「匂いというか、気配というか。そんなのがしっかり残ってるはずだよ。人間には確かめようがないだろうけど」
 鬼ならば分かるというのか。
 人とは異なる生き物は、一体どんな感覚で生きているというのだろう。
 特にあの二人は、今まで会ったことのないタイプの鬼だった。
「…那智」
「ん?」
「面喰いは……あの人たちより強いのか」
 近寄れば殺される。決して関わってはならない存在。
 那智がいなければ、確実に逃げていた相手だ。
 面喰いもまたそれほどの力を持っているとすれば、苦戦することだろう。
 あの母が殺されたのだ。強い鬼であることは間違いないが、天然の鬼というものに初めて会って、衝撃を受けていた。
「睦よりかは強いだろうね」
「あの桔梗って鬼よりは?」
 睦という鬼に対しては強い恐怖を感じなかった。きっと人を喰わないということが、皓弥を怯えさせなかった理由だろう。
「桔梗姐さんのほうが強い」
 あの人は特別だから。
 そう続けた那智に、皓弥は胸を撫で下ろした。
 やれる。そう思えた。
(それにして、長い…)
 登る時も長いと思ったのだが、下りは緊張した後なのでさらに長く感じる。
「怠い」
 足も腰も動きたくないと言っていた。
「おんぶしてあげよっか?」
「いらない。でもこのまま宿に帰る」
 とてもでないが観光をする気分ではなかった。
 宿に戻って、身体を休めたい。
「分かってるよ。温泉入ってゆっくりして」
「ああ。一人で入ってゆっくりする」
 言外に、おまえの世話はいらん、と突きつける。
 すると那智が後ろで「えー」と不満げな声を上げたが、綺麗に無視した。
 ぎりぎりまで事情を明かさなかったことに対する仕返しだ。



 


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