六




 
 座椅子に座って、天井を見上げた。
 年代を感じさせる、深みのある木目だ。
 浴衣に包んだ、湯上がりの肌を少しずつ落ち着かせながら、ほぅと息を吐いた。
 疲れた。
 危険を感じている鬼の前でじっとしていなければいけないということは、皓弥にとって重圧だった。
 危ないと分かれば一目散に逃げること。
 そう教えられてきたのだ。
 ああして自由を奪われると、パニックを起こしてしまいそうだった。
 抑え込んでいたのが那智だからまだ、耐えられたのだろうが。
(それにしてもしんどいな)
 ただでさえ疲労を残す身体に、精神的圧力をかけられたのだ。
 もう動きたくない。
 日は暮れかかり、格子をはめたような障子からは斜めに光が入り込んでくる。
 夜はこれからなのだが、もう眠りたい気持ちだった。
 艶のある木製の座卓の上には「生八つ橋」と書かれた長方形の箱。
 那智が近くで買って来たらしい。
「食べていいよ」
 じっと眺めていると、那智がお茶を入れてきた。
 宿に来てもこうした世話を焼きたいらしい。
 包装紙を取り、生八つ橋を口に運ぶ。
 三角のそれはあんこを包み、食べるとニッキの香りがした。
 京都に来たなぁという気持ちにさせられる食べ物だ。
 お茶を濃いめに入れてくるのは、さすが那智というところだった。
 同じく浴衣姿の那智は皓弥の向かいに座る。
「皐月って…何?」
 皓弥は昼間に会った鬼との会話を思い出していた。
 聞いている内に思ったことがあったのだが、ろくに喋ることも出来なかったのだ。
「皓弥に出会う前、俺にちょっかい出した来た天然の鬼だよ。姐さんの身内なんだ」
 那智もお茶をすすりながら答える。
 何やら平穏な夕暮れである。
「まだ子どもでね。自分の力を試したかったのか知らないけど、俺に挑み掛かってきて」
「幾つなんだ?」
 頭の中では十歳ほどの子どもが思い浮かんでいるのだが。鬼は外見と比例するのだろうか。
「確か、戦後生まれじゃなかったかな」
「それって子どもか…?」
 終戦から一体何年経っているのか。
 人間の感覚で鬼を計ってはいけないのだが、それにしてももう子どもとは思えないのだが。
「まだ子どもだよ。人間で言うと、十二歳くらいじゃないのかな。外見はもうちょっと上に見えるけど」
「六十年が十二歳か」
「睦でさえ、百近いからなぁ」
「じゃあ、あの桔梗って鬼は?」
 那智は生八つ橋を片手に「さあ」と興味のなさそうな様子だ。
「姐さんはいつからああしているのか、誰も知らない。鬼は長生きだからね」
 長生きとか、そういうレベルを超えているだろうが。
 人間とは外見が似ているだけで、中身は随分違う者だと思っていたが、ここまで違うとは。
「姐さんに比べたら皐月なんて赤子も同然だね。俺にとっても。皐月は天然の鬼とは言え幼いことに変わりはないからさ。痛い目に遭わせて返したわけ」
「殺さなかったのか?」
「無断で殺せば、姐さんもいい気はしないだろうからね。だから今回わざわざ挨拶に来たんだよ。今度ちょっかい出したら殺すからって。忠告した以上、何かあれば斬る」
 那智が斬ると言えば、それは迷いがない。
 ゴミを捨てるのと変わりなく、鬼を斬るのだろう。
「天然と、やり合えるんだな」
 人間から鬼に墜ちてしまった者は、那智の相手にはならない。
 だが桁違いに強いという天然も、軽くあしらっているように話され、少し意外だった。
「いくら猛獣でも、生まれたばかりの頃は他の肉食獣に喰い殺されるだろ?」
「ああ…」
 ある程度成長するまでは、やはり子どもというのは喰われる側に回るらしい。
「まあ、そこら辺にいる鬼に殺されるなんてことはまずないけどね」
「やっぱり、それなりに強い状態で生まれてくるのか?」
「そうだね。でも人間で言うと中学生くらいの年になるまでの期間が、鬼の場合凄く短くて五年くらいなんだよ」
「は!?」
「それからゆっくり大きくなっていく」
「…なんて生き物だ」
 それは、補食される側にいる期間がたったの五年ということだ。それからずっと人を喰らって生きていくのだろう。
 それは反則のような仕組みだ。
「生態系で言うとかなりの高さになるかな」
「ムカツク」
「だからさ、皓弥なんて五歳児に喰われる可能性もあるわけだ」
 那智の指摘に、皓弥は顰め面で舌打ちをした。
 しかもぽいと口に入れた生八つ橋の味がいちご餡だった。
 妙な味が付いていて、皓弥の味覚には合わない。
「あの桔梗って奴は、対等にやれるのか?」
「姐さんか」
 那智もいちご餡を食べて、難しい顔をした。
 それが味のせいなのか、皓弥の質問のせいなのか。
「相打ちだろうね」
「それでも、相打ちになるのか」
 近付いてくるだけで皓弥を恐怖に陥れた存在を、那智は対等だと言う。
 出会ってから何度も思ったのだが、刀という者はどこまで強さがあるのだろう。
「お互い何の利益もないからやらないけどね」
 那智はそう言いながら「いちごって微妙だな」と呟いた。
「皐月って鬼があの鴉を鬼にしたんだろ?そしたらまだあそこにいるのか?」
「うろついてるかもね。でも直接人を襲ってるってことはないよ」
「ないのか?」
「鬼を増やして遊んでるかも知れないけど」
「それは遊びになるのかよ」
 悪趣味な遊びだ。
 皓弥は呆れてしまうが、鬼にとっては面白いのかも知れない。
「暇つぶしだろ」
「そんなに退屈なら、人を喰ってた方がいいんじゃないのか?腹も膨れる」
「天然の鬼は、そう簡単に人を喰ったりしないんだよ」
 那智はお茶をすすっている。浴衣とお茶、お互い年寄りのようだ。
「見ず知らずの人間をいきなり襲って、その身体を喰うってことは知能の低い獣のやることで、生まれながらの鬼からしてみれば、品のないことらしいよ」
「鬼に品って…」
 皓弥が今まで見てきた鬼というのはどれも貪欲な目をしていた。喰らいたい、殺したい。そればかりだった。
 言語すら忘れてしまったように、襲いかかってくる。
 獣の方がまだ理性があるだろう。
 それが鬼なのだ。
 だというのに、品があるなしを語っているというのか。
「天然の鬼っていうのは、特別気に入った人間じゃないと喰わないんだよ。どんな者かも分からないような人間を喰って、それが自分を生かす生気に変わるのは嫌らしい」
 人間が、どこの原産かも分からない食物を取ることを拒んでいるようなものだろうか。
 国産の物でないと食べたくない。という我が儘とも取れる言葉をスーパーで聞いたことがある。
「特に姐さんの身内は、見た目が気に入った人間と接触して、相手のことを知って、そして相手を墜としてから喰うんだよ」
「墜とす?」
「そう。心を奪うんだ」
 那智は少しだけ笑った。
 愉快な物語を話しているかのようだ。
「恋に…墜とすってことか?」
「そう。好きな人しか喰いたくないんだよ」
 鬼というものはそれまで酷く醜く、遠い存在だった。
 理解したくなどない。あんな人を喰うことしか考えていない生き物なんて、分かるはずがない。
 それなのに、今は天然の思っている気持ちが少しばかり感じられるかも知れない。
(殺したいくらい愛してるってやつか?)
 聞き覚えのあるフレーズが頭の中に蘇ってくる。
「心身ともに繋がって、溶け合って、それから喰う。一つの恋愛の形みたいだろ」
 昨晩、皓弥はそれに近いことを体感した。
 繋がり、溶けて、喰われていく感覚。
 那智は本当に皓弥の皮膚を破って血をすすり、肉を食すわけではない。
 だが抱かれているだけでも、喰われてしまうような気持ちに襲われるのだ。
 精神的には、きっと喰われている。
「人間だって誰とでもそうして深く恋するわけじゃないように、あそこの鬼もそんなに人を喰ったりしない。ましてえり好みするからね」
「もしかして…何年も喰わないなんてことがあるのか?」
「普通にあるよ。桔梗姐さんも何十年も食べてない」
「そんなに!?」
 鬼はすぐに腹を減らして、すぐに人を喰い殺していると思っていたのだが。
「喰い殺したいほど好きな人って、そんなに簡単に出逢えないみたいだからね」
 皓弥は濃いめのお茶を飲みながら、内心溜息をつく。
 それでは、皓弥を脅かしているのは出来損ないの鬼であって、本元である天然ではないということだ。
 皓弥が鬼と恋をすることなんて不可能なのだから。
「蟷螂のメスにそういうやつがいたな」
「オスを喰うの?」
「ああ。子どもを生むための栄養にする」
「へぇ」
 人間にも、きっとそんな気持ちがあるのだろう。
 相手と一つになりたい。相手を自分の物にしたい。その思いが強ければ強いほど、狂えば鬼に成り果てることがある。
「俺は、喰いたくはないな」
 那智はぽつりと呟いた。
 隠すことなく、皓弥が大切だ、愛おしいと言う男は目の前で微笑む。
「喰うなら別の方法がいいしね」
 真面目な話をしていたのだ。
 鬼の話なんて、皓弥にとっては非常に重大なことだったのだが。
 那智の台詞に、一気に気が抜けた。
「昨夜散々喰っただろ」
「そうだけど、限界まで挑んだわけじゃないしねぇ」
「は!?」
 皓弥など途中から意識が曖昧になったというのに、那智はまだ限界点に達していなかたというのか。
 確かにあの後、皓弥を抱き上げて洗い、後始末もしっかりした男だ。体力はまだ残っていたのだろう。
 それにしても、まだヤる気力が残っていたとは。
「おまえは、絶倫か…」
 片手で頭を抱えてしまう。
 もしかすると、いつもの情事は手加減をしていたのではないだろうか。
 一度、二度で終わる程度で皓弥は十分だったのだが。
 那智にとっては軽度であったと。
「皓弥が淡泊なだけでしょ。俺は毎晩でも、あれくらい」
「殺す気か?」
 持っていた湯飲み茶碗をガンっと座卓に叩きつけたる
「そう言うと思った。だからいつも皓弥が音を上げないようにしてるでしょうが」
「…我慢してんのか?」
 もっと欲しいという気持ちをずっと抑え続けていたのだろうか。
 皓弥の問いに、那智はくつと笑う。
「してるけどね。無理させたいわけじゃないし。セックスだけが気持ちいいことなわけじゃないから」
 抱き締めて眠ることだって気持ちいい。
 そう言う那智に、皓弥はほっとしたような、困ったような、複雑な心境だった。
(…鬱陶しいから離せって言うのは酷なことだったのか…?)
 機嫌の悪い時、寝苦しい時などは、那智の腕の中で眠るのが嫌になる瞬間がある。
 元々人と触れあうのが好きではないのだ。
 それを、一緒に寝ているということでも大きなことなのだが。
 たまに那智の腕を退けると、とても残念そうな顔をされる。
 そんなに落胆することでもないだろうが。いい年した男を抱えて眠ることの何がいい。と疑問だったのだが。
「…まあ…俺も一緒に寝るのはもう嫌じゃないけど」
 素直にそう呟くと、那智が機嫌良さそうににっこりと微笑んだ。
「今日も一緒に寝よう」
 もう日常になってしまっていることをそうやって改めて言われると、妙に気恥ずかしい。
 大人しく頷くのは、どうしても羞恥心を刺激されることだった。
「ヤらないからな」
 一言告げると、那智は溶けるような甘さで「分かってるよ」と言った。






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