四




 
 屋敷の裏側の庭は、そのまま山に続いていた。
 石段がずらりと並んでいる。
 どこまで登ればいいのか、ぱっと見ただけでは分からない。
 思わず伏見稲荷を思い出してしまったほど、それは延々と続いていたのだ。
 違うところは、鳥居がないということか。
 一歩を踏み出した時点で、うんざりしてしまった。
 このボケ、アホ那智、てめぇ何さらしてくれてんだよ。という非常に口汚い言葉が次々に溢れてきた。
 ただでさえ持久力に自信がないのに、昨夜の無体な仕打ちのおかげで身体の節々に不安だらけだ。
 さやさやと葉が擦れる音、鳥の鳴き声が聞こえてくる。
 土や緑の濃い香りに、心地よさを感じるのは、やはり人間も土から生まれてきた生き物だということだろうか。
 人の声も、車の排気音も、電子音も聞こえない。
 あるのは二人の足音と呼吸、そして自然の音色。
 数分登ったところで、皓弥は肺を軽く押されるような感覚に襲われた。
 嫌な気配だ。
 神経を研ぎ澄ますが、どこから来ているものか分からない。ただ全体的に漂ってくるのだ。
 何か良くない空気が。
 しかし肌に触れる風も、耳に入ってくる音も、空気に混じる匂いも、全てが好ましいほど澄んでいる。人と共存している山の姿だ。
(どうして)
 疲労のためだろうか。
 だがそれならば腰や足にくるはずだ。
 皓弥が感じているのは、呼吸の苦しさだった。そして、背筋を走る微かな悪寒。
 那智はこの異変を感じているだろうか。一歩先を歩いている男の背中を見た。だが振り返りはしない。
(気のせいなのか…?)
 言いようのない不安に、皓弥は視線を落とす。
 端々に苔の生えた石の階段。くぼみには草や土がはまっている。
 足を動かし、登る。だが次第に足は上がらなくなった。
 行きたくない。
 この先には良くないものがいる。会いたくないものがいる。近寄ってはいけない。
 それはカンと言うものだが、皓弥はこのカンに逆らおうとは思えなかった。過去に何度もこのカンに助けられているのだ。
(鬼がいる…)
 鬼に対しては鋭くなる勘は本能なのかも知れない。贄の血という特殊なものが身体の中に流れているから。
 ぴたりと足を止めると、那智が振り返った。
「行きたくない…」
「うん」
 那智は皓弥の手をそっと握った。それだけで少し呼吸が楽になる。
 ほっとするのだ。
「この先、何がいるんだ…」
「鬼だよ。天然の」
 皓弥は目を見開いた。那智はその驚愕に気が付くと、少し申し訳なさそうな顔をする。
「どうして…」
 鬼になど近付いてはいけない。
 それは那智が強く言っていたことなのに。なぜ自ら鬼の元に行かなければならないのか。しかも仕事で会っているような鬼とはけた外れに力の強い、天然の鬼などに。
「鴉を増やした鬼の身内がね。この先にいるんだ」
「身内?」
 鬼に身内がいるなど、初耳だった。
 そもそも天然の鬼というものがどうやって生まれてくるのかさえ知らない。人と同じように鬼の親から生まれてくるのだろうか。
「鬼にも身内はいるんだよ。血のつながりみたいなもんかは知らないけど。その人に掛け合って大人しくしてもらうように交渉する」
 交渉のためにここまで来たというのか。
 それにしても、姿が見えないというのに気配を感じるということは。
「強いんだな…その鬼」
「うん」
 那智が認めるということは相当だろう。
 仕事で請け負っている鬼なんて、ゴミだ、カスだ、と言って憚らないのに。
「ごめん。ちゃんと守るから」
 守られたくない。俺だってちゃんと戦える。
 いつもなら皓弥はそう言い返した。だが漂ってくる気配に、強くは出られなかった。
 今もこうして握っている手に励まされているのだ。これがなければ、逃げているだろう。
 頷くと、那智がそっと手を引いてきた。
 もう歩きたくない。そう訴えていた足は、その動きに従った。
 だがやはり登り続けると、息苦しくなる。妙なことに涙腺が緩みそうになった。
 泣きたい。だがどうして泣きたいのかは分からない。恐ろしいのだろうか。しかし指先は那智の掌に包まれているため、震えていない。
 とくりとくりと心臓の音が聞こえ始めた。かなりの緊張を強いられ始めた。首筋に牙を立てられたような錯覚に陥って、皓弥は立ち止まる。
 もう限界だ。
 弱音を吐く前に、那智が手を離した。
「あ」
 ぬくもりが離れると、途端に足下が崩れそうになる。だがそれより先に、そっと片手で頭を引き寄せられた。
 那智の肩にこめかみが当たった。
「大丈夫。俺はここにいるから。怖くないよ」
 優しい声音がそう囁く。
 それは昨夜の情事の最中も聞いた響きだ。
 最中のことなんて、思い出したくないのに。今はあの交わりが皓弥の心に僅かな安堵を与えてくれた。那智が近い。
(このため?)
 昨夜あんなに皓弥を抱き続けたのは、こうして那智の存在を内側に染み込ませることで鬼に対する恐怖を和らげるためだろうか。
 深呼吸をする、それでも鼓動は落ち着かない。
 那智の体温や心臓の音を感じてると、震えることはなかった。
(来る…)
 大きなものが、恐ろしいものが、近付いてくる。
 階段を下りて、こっちに向かってきている。
 唇を噛んで、拳を握った。
 怖い、怖い。逃げてしまいたい。
「大丈夫」
 強張る皓弥の感じ取っているのだろう。髪を撫でながら、那智が宥めてくる。
 見たくない。だが目は真っ直ぐ階段の先を見てしまっていた。恐ろしいほど見てみたいという心理と言うより、それは視線を引き寄せずにはいられない空気があったのだ。
 圧倒的な存在感が、無視することを許さない。
 小さな影は少しずつ人の形を取っていく。
 それは女のようだった。
 藍色の地に、薄紅の艶やかな花が散っている着物を着ている。女が歩くたびに花弁が足下に散っていくのではないかと思わせられる。
 顔立ちが分かる頃には、皓弥は呼吸をすることすら忘れて、見入った。
 見たところ二十過ぎのように見える。だが若さは感じられない、かと言って老いた様子は皆無だ。年が計れない。
 涼しげな双眸、桜色の唇、肌は白く、蓮の花弁を思い出させる。髪は結い上げており、かんざしの先についている金の飾りが揺れている。
(嫌だ…)
 それに近寄ってはいけない。決してそれに関わっていけない。
 恐怖で身体が凍り付く。逃げたいのに、もう逃げることすら叶わなくなっているようだ。
 女は二人を見つけると、にっこりと微笑んだ。
 ぞくりとするほど、妖艶な笑みだった。
「お久しぶりどす」
 おっとりとした口調。木々の葉擦れに混ざり、さらりと届いてくる美しい声だ。
 耳に心地よいはずの声音だが、皓弥は喉を締め付けられるような気持ちだった。
「お久しぶりです。姐さん」
 那智は皓弥とは違い、平然とした声音で答える。
「遠いところからようお越し下さいました。うちになんぞご用で?」
 女は五歩ほど離れたところから、二人を見下ろした。
 視線が高みにあるということだけでも、酷い重圧だったが、それ以上近寄って来ないということは有り難い。
「金髪の子が、また遊んでますよ」
 那智がそう告げると、女は苦笑して柳眉を僅かに下げる。
「あの子がまたご迷惑を」
 鬼なのに、こんなにも巨大な恐怖を与える存在なのに。
 会話だけ聞けば、普通だ。それが皓弥にとっては信じられないほどの違和感を憶えさせる。
「少しばかり」
 那智はゆったりとした動きで皓弥の髪を撫で続ける。
「前に那智さんに叱られて、うちもきつう言いましたえ?懲りた思ったんどすが」
 女はほっそりとした手を頬に立てて小首を傾げた。おかしいな、という意思表示なのだろうか。
「俺が引っ越した先でね。だから俺に対してのちょっかいなのかどうかは分からない」
「本家を出はりましたん?」
「去年に」
 女はそこで初めて皓弥に目を向けた。
 それまで那智しか見ていなかったのだ。その腕の中にいるものなど、存在していないかのような目線だった。
 目があうと、心臓を冷たい手で直接握られたような恐ろしさに、息を止まる。
「主はん、どすな」
 それは疑問ではなく確認だった。
「えらい大切にしはってますなあ。蓮城のお人はみぃんなそうしはらはるらしいけど。それにしても蓮城の主はんはお綺麗やお人ばっかりどすなあ」
 女は目を細めて微笑んだ。
 優位に立っているものが、力のないものを爪先でいたぶるような微笑み方に見える。
「やらないよ」
 那智は戯れとして、くつりと笑った。こんな鬼とよくそうやって会話が出来るものだと驚かされる。
「分かってます。主を獲るほどうちらはあほと違います」
「俺だって天然を喰うほど馬鹿じゃない」
 でも、と那智の声が僅かに低くなった。
「主が関われば別だ」
 女は那智の言葉にくすりと微笑んだ。
 とても優しげな表情になるが、それでも恐ろしさは変わらない。
「刀はどなたもそう言わはります。うちらもいくら美味しそうに見えてもそないに無理なことは致しまへんえ」
「でもあの坊ちゃんはわざわざ俺にちょっかい出して来たけどな」
 どうやら、話の中心にあるらしい天然の鬼は、昔那智に何かしらの接触を試みたらしい。
「あの子はまだ幼子なんどす」
「いくら幼子でも、ちょっかい出されれば困る。今は手加減なしで始末することになる」
 その原因は、皓弥なのだろう。
 那智は不安材料は許せないらしいのだ。
「そうなれば、姐さんだっていい気はしないだろ?」
 女は苦笑する。
「だから姐さんから言っておいて欲しい」
「そうどすな。遊びにばっかり行かんと、うちに戻って来るように言い聞かせましょ。皐月はおいたの過ぎる子や」
「桔梗姐さんの言うことなら、聞いてくれることを願ってます」
 軽く頭を下げる那智に、桔梗は「しょうのない子どすわ」と零した。
 その背後に、桔梗とは違う気配を感じる。
(何…だ?)
 鬼とは少し違う。禍々しい感じがない、だが大きなものだ。人とは違う、強いもの。
 何なのかと目を凝らす。桔梗よりも恐ろしさはない。
 桔梗もその気配を感じるのだろう、ちらりと振り返った。
 ゆっくりと下りてくる、二人。
 一人は白い着物を着ている。もう一人は洋服だ。
 近付いてくると、着物を来ているのが少年であると分かった。しっとりとした黒髪に大きな瞳、桔梗と同じように白い肌をしている。裸足で石段を踏みしめていた。
 もう一人は黒のジャケットを羽織った男、見たところ那智と年は近いようだ。
 那智を見ると、その男は目を見開いて立ち尽くした。呆然としているらしい。
 誰に似ている気がした。だが誰なのかは、思いつかない。
「睦」
「姉さん、お客様?」
 少年は桔梗の側に寄ろうとする。
 あどけなさのある口調だ。
「那智……」
 立ち尽くす男の唇が、ぎこちなくそう動いた。
「春日の叔父だよ」
 那智は皓弥にそう囁いた。
 猫のような目をした少女を思い出す。言われてみれば、どことなく似ている気がした。
 それよりも、叔父というのは行方不明になっていたのではないのか。どうしてこんな、しかも鬼と一緒にいるのか。
 男は衝撃に慣れると、階段をゆっくり下りながら渋い顔をした。
 


 


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