参




 
 ぬるめのお湯に浸かって、深く息を吐いた。
 那智に後ろから抱えられるようにして浸かっている。そうしなければ沈んでしまうからだ。
 自分の身体を支えることすら、しんどい。
 情事の途中から意識が曖昧になっていた。
 大きな声を上げてはいけないと思っていたはずなのだが、実際声を殺せていたのかどうかは不明だ。
 快楽に全てを奪われてしまい、指一本も自由に動かせなかった。
 本気で泣いてしまった気がするのだが、それもしっかりとは覚えていない。
 汚れた身体は那智が抱きかかえて内風呂に入れてくれた。
 この宿の内風呂は貸し切り状態に出来るようだった。
 空いていれば入り、入り口には「使用中」という札をかけていればいいらしい。
 他にも温泉はあるので、大きな浴場のあるそちらも利用出来るため、こういう使われ方をしているのだろう。
 竹の筒から流れてくるお湯からして、少し温度が低い。
 散々熱に浮かされた身体には有り難いことだった。
 濁ったもので汚れた肌は那智が洗ってくれたらしい。中の物も掻き出してくれたようだ。
 思考回路がなんとか回り始めたのが、温泉に浸かって数分経ってからなので、現れた記憶というのもぼんやりとしている。
 そういえば、内風呂に声が響いたような気がする。
 深く考えても不利になるだけなので、皓弥はそれ以上記憶を探ろうとはしなかった。
 とにかく今は疲労が思考を鈍らせている。
「…洗ったら意味ないんじゃないか?」
 匂いを付けたいから、那智はあんなにしつこく情事を続けたらしいのだが。
 すでに身体は綺麗にされている。
 温泉の匂いも肌について、那智の匂いなんて残りそうもなかった。
「起きた?」
 那智は皓弥がようやくしっかりした声で喋り始めたことに気が付いたらしい。
 後ろから腰に腕を回したまま、肩にキスをしてくる。
 鬱陶しい、と呟くと小さく笑っている。
「奥は残ってるんじゃないかな」
「馬鹿が」
 卑猥なことを吐く那智に冷たく言い放つ。
 そこはまだ那智をくわえているかのような感覚だった。
 しかも、熱まで残っているような気がする。
 確か出された物をそのまま放置しているのではないだろうか。
「…始末したんだろうな…」
「大丈夫。残すと皓弥が大変なことになるからね」
 しっかり始末した。と那智は言うのだが。
「大変なこと?」
 中に出されたなど、今までなかった。そのため残されるとどうなるのかなど皓弥は知らない。
 ちょろちょろという水音だけが二人の間に流れる。
(なぜ黙る)
 沈黙の理由が分からない。
 だが問いつめるのが面倒でその疑問に流してしまった。
 覚えていれば、また後日にでも聞くことにしよう。
「…今日のおまえは…少し変だ」
 口を閉ざすことが多い。
 しかも、苦笑をして。
「なんで」
 答えがないことに焦れて、皓弥は腕の中で身体をずらす。
 少しばかり上にある目線。
 上目で見つめると、やはり返されるのは苦笑だった。
「誰に対する…主張なんだよ。俺が…おまえの主だって」
 それは鬼なのか。
 もしくは人間か。もっと別の生き物なのか。
 那智の眼差しは静かだった。
 抱き合っている時はあんなにも雄弁に、欲しいと訴えていたくせに。
 今は感情を抑えて、考えているところを見せてくれない。
 抱えているものを教えてくれない。
(俺は…まだおまえの負担のままか)
 守るべき存在のままなのか。
 確かに那智よりかは非力で、贄の血という特殊な血を持っている人間だ。鬼を引き寄せるくせに突出した力を持たない、厄介な生き物だ。
 けれど、そうやって困ったことは全て隠されなければならないほど、皓弥は小さな生き物なのだろうか。
 庇護すべき者なのだろうか。
(おまえの隣は歩けないか)
 情けなさと一抹の寂しさが生まれてくる。
 こうして抱き込まれて、守られるだけが能なのか。
「明日になったら分かるよ」
 那智はそう言って皓弥の目尻に口付ける。
「数時間後には」
 その数時間が、皓弥にとってはもどかしいのだ。
 それだというのに、那智はそれ以上語らない。
 力が欲しい。
 ずっとそう思っていた。
 鬼に対抗するため、自分の身を守るため。
 だが今は、那智に頼られる存在になれるために、力が欲しかった。
 そんなことは思うのは、初めてだった。



 タクシーの振動にさえ苛立つ。
 車内から外を眺めれば、古風な平屋と木々だけだ。
 市街地から次第に離れて行っている。
 行き先は聞いていない。那智は町名らしきものを運転手に伝えていたが、京都の町名などよほど有名ではない限り、知らない。
「機嫌悪いね」
 隣からかけられた声に、皓弥は目を据わらせた。
「誰のせいだ」
「俺のせいです」
 那智はあっさりと自分の非を認めた。
 今朝、目覚めると実に爽やかな空気の中で鈍痛を覚えた。
 昨夜無茶をした箇所だ。
 あれだけヤっていれば、痛みが走るのも無理はないのだろうが。
 休憩もなく、攻め立てるように回数を重ねたのは初めてだったので、どれだけの負担がかかってくるのか予測出来なかったのだ。
 起きあがってまず、那智に枕を投げ付けた。
 すでに浴衣から私服へ着替えていた男は、その枕をちゃんと両手で受け取っては「よく寝れた?」と言ったものだ。
 怒鳴るのも無理ないことだろう。
 朝はゆっくり休んで、動くのは昼からにした。
 向こうにちゃんと連絡しているのかと聞けば、那智は意味深に笑うだけだった。
 苦笑ではない、何かを含んだ笑みだ。
 何かやらかすのは目に見えている。
 この男は時々唖然とするようなことを平気でするのだ。
(嫌な予感がする…)
 もしかすると今日はろくでもない日になるのでは。
 そんな不安が皓弥の中によぎった。
「お客さん、これからどうします?」
 どうやら目的地に着いたらしい。運転手が那智に問い掛ける。
「この辺で下ろしてください」
 何の目印もない、ただの道ばたで那智はタクシーを止めた。
 辺りを見渡すが、山、道、所々平屋。しか見えない。
 右手は開けた平地なのだが、反対側は完全に山だった。
 一体ここからどこに行こうというのか。
「少し歩くよ」
 支払いを終えて那智は歩き出す。
 腰が怠いのに、長距離は歩きたくない。そう顔に出たのだろう、那智は皓弥を振り返ってとんでもないことを口にした。
「おんぶしようか?」
「アホか」
 思いっきり馬鹿にした顔で吐き捨てる。
 成人した男が、なんでおんぶなんて。
 いくら腰が痛くてもそんな情けない格好は遠慮する。
「でも辛いでしょ」
「うるさい。いいからさっさと案内しろ」
 棘が大量に付いている声で冷たく言い放つ。
 皓弥は今朝から機嫌を直していない。
 腰の怠さだけでなく、那智にいいように啼かされたということも引っかかっているのだ。
 理性を完全に失ったことなんて、なかったのに。
 那智は皓弥の不機嫌さに「はいはい」と微笑みながら受け流している。子どものだだを聞いているような態度が、さらに癇に障る。
 唇をきつく結んで、皓弥は辺りを見渡した。
 どこに続いてるのか分からない道。人気は全くない。
 山ばかりがそびえているが、近くで微かな水音がする。小川のようなものがあるのかも知れない。
「こっちだよ」
 那智は手前の角を曲がった。すると小さな橋が架けられてあった。赤く塗られたそれを渡ると、大きな垣根が続いていた。
 どっしりとした瓦屋根が、垣根の上に見える。随分大きな家のようだ。
 宿か何かだろうか。しかしこの辺りは観光出来るような所はなさそうなのだが。
 木製の門の前に来ると那智が立ち止まった。
 ここは寺か神社に繋がっているのだろうかと思うほど造りが古く、しっかりした門だ。
 しかしインターホンが付いてるのは、現代らしいところだろう。
「ここなのか?」
「そう。ちょっと荒いことするけど、気にしないで付いてきて」
 荒いことする。そう那智がわざわざ口にしたということは、何かしらやるのだろう。
 騒ぎにならなければいいか。
 インターホンを押すと『はい』という声が機械から聞こえてきた。
 女のようだ。
「蓮城だ。姐さんに会いに来た」
『はい?れんじょう、さまですか?』
 相手は非常に怪訝そうな声をしている。
 どうやら那智の名字に見当がないらしい。
「他の者を出せ。出来れば老人をな」
 那智は話が通じないことを相手の不手際としか受けとめていない。
 戸惑った様子が機械の向こうから聞こえてくるが、ふいにぷっつりと切れた。
「…シカトされたのか?」
「まさか」
 那智は口角を少しばかり上げた。性格の悪そうな笑みの浮かべ方だ。
 すぐに門は開かれた。
 開けたのは一人の男だった。中年を少し過ぎたくらいで、白髪が混ざっている。
(…おかしい…)
 静かな眼差し、那智を見ると頭を下げるその人に皓弥は強い違和感を憶えた。
 人間なのだろうか。
 妙な気配がする。鬼だとは思えないのだが、それでも他の人間とはどこか違う。
 出来れば関わり合いになりたくない空気だった。
「どうぞ」
 男は那智を中に引き入れる。
 外から見て分かった通り、門から玄関までが遠い。
 驚いたことに宿の庭よりもずっと広く、そして綺麗に手入れがされている。
 泳げるほど大きな池、様々な木々が植えられ、丸い石が道を作るように埋められていた。
 一瞬にして、世界が変わったかのような錯覚に陥ってしまいそうだった。
 あの門の内と外では、空気が大きく異なっている。
 玄関に付けば、男が開けて中へと通してくれた。
 たたきの奥には、二人がその場に座り、頭を下げて出迎えていた。
 まるで賓客を受け入れているかのようだ。
「ようこそいらせられました」
 並んだ二人が顔を上げた。
 一人はやはり中年の男、鋭い顔立ちをしている。目には感情が見えない。
 もう片方の女は着物を着ていた。髪を結い上げ、赤い唇にうっすらと笑みを乗せている。
(こいつもだ)
 見たところ人間なのだ。
 だが常人とは思えなかった。何かが違う。
「桔梗に会いに来た」
「なりませぬ」
 男は那智の言葉を突っぱねた。
「通せ」
 那智は正座をしている男を見下ろす。そこにあるのは威圧感だけだった。
 表情すらない。ただ命じているのだ。
 高みから、下にいる者に対して。
「出来ません」
 男は那智を見上げて、そう放つ。
 頑として聞かないようだ。
「止めてどうする」
「私たちはあの方をお守りするのが、役目です」
 真剣な様子に、那智が鼻で嗤う。
「おまえたちが守る?身の程を知れ」
 那智はそこでようやく馬鹿馬鹿しいという表情を露わにした。
「守られるような方か?」
「それでも、お守り致します」
 男は嗤われても真面目に言葉を重ねる。
「なら斬り捨てるか」
 那智は何でもないことのように言った。
 荒いことをする。
 それはまさか、ここにいる者を斬り捨てるということか。
 皓弥は青ざめた。いくらなんでも荒々しいだろう。
「この奥にも、おります」
 男は挑むかのように、那智を睨み付ける。
 だがそれすら滑稽だというように、那智は口角を上げた。
「全員斬っても大して時間はかからないだろうさ」
 恐ろしいことに、それは事実だろう。
 見たところこの男は違和感は感じさせるものの、鬼ではない。鬼でさえ片手で容易に斬り捨てる男が、人間ごときに時間を取るとは思えない。
「…拝見致しましたところ、そちらの方はただの人かと」
 男の視線が皓弥に注がれる。冷たく、堅い眼差しだ。そこには殺気が混ざっている。
 冷気をそっと背に吹きかけられたような気持ちだった。
「牙を持たぬ人じゃない」
 どうやら男の言葉は脅しのようだった。
(だだの人?普通の人間だったことが、不利な材料になるのか?)
 だが皓弥は那智が言ったように、これでも鬼を斬ることの出来る人間なのだ。
「通しなさい」
 緊迫した雰囲気を凛とした声が破った。
 廊下の奥から、ゆっくりとした足取りで老人が歩いてくる。
 頭髪はなく、歯も抜け落ちている。皺だらけの肌や着物から覗く細い指がかなりの高齢であることを物語っていた。
 だが杖も介添えもなく、しっかりとした歩調で歩いてくる。
「ですが」
 老人の言葉に、男が動揺を見せる。
「誰もそのお人を止められやしやせん。それに、桔梗様を斬らはるわけではないですやろ」
 桔梗様。どうやら那智が会いたい人物というのはここでとても大切な存在らしい。
「姐さんや、身内を斬る仕事は受けない」
 那智は侮蔑のような眼差しを消し、苦笑を見せた。
 老人に対しては少しばかり態度が軟化した。話が通じる相手だからかも知れない。
 しかし皓弥にしてみれば、この老人の方が目の前にいる男よりもずっと違和感が強い。
 人間、なのだうろか。
「利益がないんでね。仕事ならもっと他のものを選ぶ」
 那智の言葉に老人は皺だらけの口元に笑みを浮かべた。
 そして廊下の途中で立ち止まる。
「どうぞ、奥へ」
 それがこの家に入る許しになったらしい。
 正座をしていた二人は立ち上がり、再び頭を下げた。
 入っても良いということだろう。
 何やら妙な気配のする家に、皓弥は緊張しながら足を踏み入れた。
「あ、靴持って」
 那智は氷のような態度を見せていたというのに、皓弥に対しての口調はがらりと変わる。別人かと思うほどだ。
「靴?なんで」
 家に入るというのに靴を持つ必要が分からない。
「この奥の山なんだよ。用があるのは」
「山?まさか歩くんじゃないだろうな」
「階段が、いっぱい」
 皓弥は靴を持ちながら、那智をぎぎと睨み付けた。
 威圧感を見せていた那智の笑みたちまち消え失せ、そこからは「ごめんって」という謝罪が聞こえてきた。
 この重い腰を抱えて階段なんて、冗談ではなかった。
 


 


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