壱




 
 穏やかな日差しが降り注ぐ。
 山に囲まれた土地は、ぱっと見ただけで緑が多く目に付く。
 外観に気を付けるため、電柱の色合いも変えているような土地だ。
 中学の修学旅行以来訪れたことのない京都という場所に、皓弥は立っていた。
 元々寺などや近代文学に出てくる土地として、訪れたいという気はあったのだが。重い腰はなかなか上がらなかった。
 きっと今回も那智が計画して、旅行の準備をしなければ来なかっただろう。
 平日ということもあって、観光客はさほど多くはなかった。
 カメラを構えている老人の近くで、皓弥は楼上からある物を眺めていた。
 南禅寺、山門の楼から眺めると言えば、下に建てられている建物だ。
 丁度視線を斜めに落とすと見える天寿庵。趣のある古の建物なのだが、とても座敷までは見えない。塀と木々が植わっているのだ。屋根と、ある程度の外観が見えればいいところだろう。
 もちろん、振り袖の女がいるはずもない。
「金閣寺を思い出すな」
 ぽつりと呟くと、すぐ近くにいた那智が「行く?」と聞いてきた。
 その問い掛けに、皓弥は視線を上げた。
「三島由紀夫の金閣寺、読んだことあるか?」
 尋ねると那智は首を振る。
 理系大学の院生をやっている那智は、文学に対して興味はないらしい。一方皓弥は大学を文学部、近代文学を専攻している。
 その違いがここに出たようだ。
「三島由紀夫は男色の趣味があって、切腹して死んだってことくらいしか知らないなぁ」
「その通りだけどな」
 だがそこだけ出されると、三島由紀夫は完全に危ない人にしか聞こえない。
 平凡な人物とは口が裂けても言えないわけだが。
 聞き慣れない言葉があちらこちらで交わされている。違い土地に来たのだと実感させられた。
「出るか」
 京都に来たら見たい場所の一つだった南禅寺に来ることが出来て、多少気分はいい。
「次は何処に行く?」
 那智はあまり京都で行きたい場所があるわけでもないようだった。
 皓弥の行きたいところに行こう。とだけ言ってくる。
 どうやら京都には何度か来たことがあるらしい。
「それ以前に、いつ相手に会うんだよ」
 京都に来たのは観光が目的ではない。
 面喰いという鬼に関しての情報を持っているらしい人物がいると聞いてやってきたのだ。
 それが誰なのか、何処に住んでいるのか、どんな人物なのか。皓弥は一切知らされていない。ただ京都にいるとだけだ。
 気になることは気になるのだが、聞いても那智は曖昧に濁すだけだった。言いたくないことは言わない、それが那智だった。
 最も、大抵のことは教えてくれる。那智にとって不利と思えるようなことも、皓弥のためならばと言って教えてくれるのだ。黙っているということは、聞いてもあまり良いものでないのだろう。
「明日」
「どこで?」
「相手の家だよ」
「どこだよ」
 もう京都に来た。そして明日会うのなら、そろそろ教えてくれてもいいだろう。
 皓弥はそう思うのだが、那智は苦笑した。
「そろそろ宿にチェックイン出来るんじゃないかな。電車とか乗って疲れたでしょ」
(なんで)
 語らない那智に、引っかかりを覚える。
 どうしてそんな頑なに隠すのか。明日になれば嫌でも知ることになるのに。
「そこまでして隠すことなのか?」
 無意味だろう。そう続ける皓弥に、那智はやはり口を開かない。
 目の前でこれほどまであからさまな隠し事をされると、やはり冷静さは波立つ。
 皓弥のことを考えている。そう照れることもなく言うのなら、その微かな苛立ちと戸惑いも分かってもらいたい。
 いや、きっと分かっているのだろう。
 察しの良い男なのだから。
 一つ溜息をついて、那智から視線を外す。
 明日、一体どんな人物に会うことになるのだろう。



 硝子越しに庭を眺めていた。
 二階からということで、少し離れた距離で眺めていることになるのだが、それにしても見事だった。
 幾つかの寺を巡って来たのだが、それらの庭をそのまま移して来たかのような趣がある。
 端々に置かれた小さな灯りが、ぼんやりと薄暗い庭を照らしては幻想的だ。
 宿は木造で、かなりの年代物らしい。近代の作家たちがここで主筆していたのではないかと思えるような、モダンな雰囲気があった。
 陰影にこだわっているらしく、夜になると宿の所々に影が出来た。それがさらに時代をさかのぼるかのような印象を与えていた。
 内風呂の近くにある休憩するための部屋には、いろりのようなものまで置かれていた。
 那智が色々とパンフレットを集めて、熟考した上で選んだだけあって、皓弥の好みをストレートに貫いてくれる宿だった。
 料理も京風に味付けられていて、舌に合っていた。
 宿の照明は白熱電灯、そして部屋も柔らかな色で照らされていた。
 この点もまた、趣を出すためらしい。読書にはあまり向かないのだが、こうして静かに物思いに耽るには丁度いい明るさだ。
 部屋にはテレビがあったが、二人ともテレビを見るという習慣がない。それに、こんなところまで来てテレビにかじりつく必要を感じなかった。皓弥は何をするわけでもなく庭を眺め、那智は酒を舐めていた。
 お猪口と那智という組み合わせは珍しいものだった。皓弥は酒を嗜まないので、一人で手酌をしている。
 すでに内風呂を堪能しているので、二人とも浴衣姿なのだが。初めて見た那智の浴衣姿は堂には入ったものだった。
 那智の祖父、昇司が着物を着ている人だからか、すんなり着こなしている。
 きっと今までも着物を着たことが何度かあるのだろう。だが皓弥は着物など縁がないので、少し妙な感覚だった。
「いい宿だな」
 胸の奥までいっぱいに詰まったこの言葉は、零れるようにして皓弥の口から出た。
「そうだね」
 皓弥は那智を表立って誉めることはない。もともと人を誉めるということが得意ではないのだ。
 その性格を知っている那智は、その言葉の奥で皓弥が感謝していることを察知しているようだった。
 頷きながら嬉しそうに微笑んだ。
「前から京都には来たかったんだが、ここまで堪能出来るとはな」
 寺を見て回りたいという気持ちはあったが、いい宿に泊まりたい、という考えはなかった。それでもこれだけ好みの宿に泊まることが出来ればやはり心は躍る。
「気に入ってくれて良かった」
「でも三泊する必要なんかあったのか?明日会うならそのまま帰っても」
 那智はなぜかこの宿に三泊を予定していた。
 てっきり一泊くらいで帰ると思っていた皓弥は、昨日になって驚いた。
 予定は入れないように、とは言われていたが。
「観光したいかと思って。せっかく来たんだし」
「おまえは見たい所ないのか?飽きた?」
 何度も来ているのなら、京都の観光なんて飽きているのではないか。
 皓弥がそう思って尋ねると、那智は「気にしないでいいから」と小さく笑った。
 一緒にいるなら、どこでもいい。そんなことすら平然と言う男だ、きっと飽きていても口にはしないだろう。
 気にするな。そう言われても皓弥は自分だけの好みで振り回していいものか考えてしまう。
 寺巡りは結構な距離を歩くのだ。
 体力のことを皓弥に心配されても、と笑われるだろうが。
「…寝ようか」
 那智は座卓にお猪口を置いて、皓弥の元まで歩いてくる。
「早いだろ」
 さっき携帯電話を見た時は、まだ午後十時過ぎだった。あれからそんなに時間が経っていない。
 二人ともどちらかと言うと夜行性なのだ。普段は日付が変わって寝ているというのに、環境が変わったからといって、こんなに早く眠れない。
「いいから」
 那智はそっと皓弥の手を引いた。
「別に疲れてないけど」
 京都まで来て、寺を回っていたことに疲れたかと思われたのだろうか。
 皓弥はすでに敷かれている布団まで連行されながらも、そう告げる。心配するなと言いたかったのだが。
「分かってるよ」
 那智は部屋の電気を消す。変わりに少し間隔を開けて敷かれた二つの布団の近くにあった四角いスタンドの間接照明をつける。
 和紙と細い竹で作られた四角い提灯のようなものが、ぼんやりと辺りを照らす。
 橙色の、曖昧な光。
 影がくっきりと出来る。
 那智は皓弥の手を離すと、硝子窓と部屋を仕切るように、障子を閉めた。
 それは真四角が並んでいる形ではなく、細長い格子をはめたような形だった。
 まるで、遊郭の囲いみたいだ。
 唐突なそんな発想をしてしまい、ふっと那智の横顔を見て気が付いた。
(まさか)
 今からここで皓弥を抱くつもりではないだろうか。
 それならこんな時間に寝ようと言った理由も分かる。寝る前に抱けばそれだけ睡眠時間は遅れるからだ。
「那智」
 こんなところでヤるなんて、勘弁したい。どうして自宅でいつも出来ることをこんなところに来てまだヤらなきゃいけないのか。
 三日くらい我慢すればいいだけの話だ。
 毎晩毎晩抱き合っているわけでもあるまいし。
 戸惑いながら那智を呼ぶと「ん?」と返事をする。
 だがその声の主は、鞄の中から良からぬ物を取り出していた。
(潤滑…!)
 ベッドの上でお目に掛かることのあるジェル状の液体を入れた容器が、那智の手に握られている。
「なんでそんなもん、京都に持って来てんだよ!」
「必要でしょ?」
「んなわけあるか!!」
 力一杯否定すると、那智は容器を掌でぽんぽんと投げている。
「濡らさなきゃ痛いよ?」
「そういう問題じゃない!なんでこんなところまで来てんなことを!」
 隣の部屋では誰かが泊まっていることだろう。
 全く何も知らない相手だが、もし声を聞かれればと思うだけで身体は冷める。
「必要だから」
 那智は苦笑しながらも、皓弥に近付いて来ては後頭部に手を差し入れる。
 キスするつもりだろうが、それを許す気にはなれない。
 那智の口を右手で覆う。睨み付けると、後頭部に回った手が皓弥の髪を梳いた。一つにくくっていたゴムを外し、肩に髪を下ろす。
 春奈に切ってもらった髪は、また少し伸びている。
「嫌だ。こんなところでする気はない」
 はっきり言い放つ。
 嫌がることはしない。そう那智は言っている。
 これまでも「鬱陶しい」「怠い」「嫌だ」と言えば止めてくれた。
 だが今日は、目が苦笑するだけで離れていかない。
 それどころか、口元を覆った掌をぺろりと舐められた。
「那智…」
 呆れる主の手を外し、那智は唇を押しつけてくる。
 唇を舐められても、舌を受け入れるつもりはなかった。嫌だと言えば嫌なのだ。
 しかし那智は浴衣の合わせから、皓弥の肌を手で探ってくる。
「皓弥」
 促す声。強請られている。
「なんでヤりたがるんだよ。シチュエーションに酔ったとか言ったら、殴るぞ」
「あー、そうだね。それもあるかも」
「このボケ!」
「でも本当は、別の理由」
 那智は皓弥の耳を軽く噛み付いた。
 痛いだけであるはずの刺激は、電気のようなものを皓弥の背に走られる。
(駄目だろ…)
 この感覚が生まれてくると、流される可能性が出てくるのだ。
 所詮身体には那智が与えてくれる快楽の記憶が染みついている。
「皓弥は俺の主だ」
 低く囁かれた声。
 欲情と、強い意志が滲んだ響きに琴線が震えた。
「それを言葉以外のものでも主張したくてね」
「言ってることが、分からない」
 皓弥が那智の主だということを主張したいのだろう。
(誰に…?)
 明日会うという人物に対してだろうか。
 だがどうして抱く必要があるのか。
 見せ付けたいというのか。
「痕なんか、付けるなよ!?」
 肌の薄いところをそっと撫でる手に、身体の奥からぽっと熱が生まれてくる。
 逃れたい気持ちはまだある。こんなところで、という困惑も。
 だが那智の声が、視線が、逃さないと雄弁に語っているのだ。
 身体の深い部分に爪を立てられたかのように、動けなくなる。
「付けないよ。見えるところには」
「絶対だぞ!?」
 誰かに見られて恥ずかしい思いをするなんて、考えただけでも泣けてくる。
 すると那智はくつと喉の奥で笑ったようだった。
「そんなマーキングの仕方、今は意味ない」
 欲情で濡れた呟きと共に重ねられた唇。
 今度は、うっすらと開いて迎え入れた。
 殴っても、罵っても、止めない。そう強く出られれば。抵抗など出来なかった。
 受け入れることが、心底嫌なわけでも、許せないことでもない。
 入ってきた舌は、熱く、囁くように絡みついてきた。



 


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