六




 
 犬に囲まれ、二人は背中を合わせた。
 服を挟んでいるというのに、鼓動が伝わってきた。
 鬼の唸り声より、春日の罵声より、ずっとはっきり届いてくる。
 那智の手首に触れ、手探りで掌へと下りる。
 いつものように手が合わせられると、那智は戯れのように指を絡めた。
(っ、あほ!)
 顔の辺りだけ、体温が上昇してしまう。
 まるで恋人にするような仕草だ。ぎゅっと一度強く握るとそっと指を解く。
 何かを囁くように。
「那智」
 遊んでいる暇も、動揺している余裕もない。
 ぎらぎらとした眼差しが刺さんばかりに取り囲んでいるのだから。
 呼ぶと刀は答えてくれる。
「あぁ」
 皓弥は自然と吐息のような声を零した。
 恍惚としたような響きが混じっていた。
 掌を押してくれる柄を握り、ようやく五体が満足に動かせるようになった気がする。
 それまで身体のどこかが欠けているようだった。
 不自由で苦しかった。
 襲いかかってくる犬歯を眺めながら、微笑を浮かべる。
 ようやく、満たされた。
「やっとだな!」
 勢い良く掌から刀を抜き、振りかぶった。
 斜め掛けに斬ると、何の鈍さも感じることなく犬の鼻面が削られた。
 間合いの長さもさることながら、この刀はゼラチンでも斬っているかのように物体の抵抗を感じさせない。
 喰い付かれる直前の恐怖を味わい続けた皓弥に、安堵が込み上げてくる。
「やっぱこれだろ!」
 脅威にすら感じていた犬の群衆を、皓弥は自ら斬り崩しにかかった。
「そう言ってもらえると、嬉しいねぇ」
 那智もまた、皓弥に刀を渡すと軽い足取りで刀を振るう。こちらは必要最小限の動きで身体を二つに切断していた。
 飛び散る鮮血はすぐさま灰に変わり、溶け消える。
 たった一人、那智が介入したことで状況は一変した。
「春日、いつまでそうしているつもりだ」
 冷ややかな那智の声は鬼のくぐもった叫びの中でも混ざることなく響いた。
 離れた場所で刀を振り、血を落とした春日が那智を睨み付けた。
「あたしが始末を付ける!」
「だったら早くしろよ」
 牽制する春日に、那智は肩をすくめた。
 二人の視線は黒い犬に向けられていた。他の犬と大差ない、あるとしたらその目が金だということだけだ。
 だが皓弥はその金に、異様に意識を吸い寄せられた。
(何か、違う)
 貪欲さだけで動いている他の犬とは違い、その金だけは思慮があるように見える。
 衝動だけでなく思考がまだ残っているのか。
(……そうか)
 これが本体か。
 皓弥は凪ぐように犬を斬る。どうしてこいつらはこんなにも恐怖がないのか、生き物であるなら周囲でばたばたと同じ生き物が斬られているのに、それでも平気で襲いかかってくるのは異常だ。
 あれが操っているとしたら、あれから生み出されたものだとすれば。
(恐怖は麻痺するのか)
「やりたくても出来なかったの!」
 でも今は。と春日の口元がくすりと笑みを作った。
 妖艶さを醸し出すその微笑みは、残酷なまでに綺麗だった。
 斬る。
 皓弥はそう感じ、春日が走り出す方向へと踏み出した。
「悪いわね」
「役立たずって言われるのも癪だからな」
 姿勢を僅かに下げ、春日は弾丸のような瞬発力を発揮した。
 進路を妨げる犬の胴を皓弥が斬っては立ち退かせる。
 ギャンキャンと威嚇するように吠え掛かる犬たちは、気怠そうに寄ってきた那智によってもあっさりと事切れていく。
「待たせてくれたわね」
 背後から聞こえてきた春日の声が、にやりと笑っている。
 手間をかけさせてくれた。そう告げているようだった。
 まるっきり悪人の台詞だ。
「糞犬が」
 低い罵りが耳に届いてくる。
 皓弥はばっさり斬り捨てただろう犬の最期を見届けることより、春日の姿を見るために振り返った。
 そこには大きく開けられた黒犬の口に、刀を深々と突き刺している少女の背があった。
 長い黒髪が揺れる。
 春日はそのまま突き刺した刀を横に滑らせた。悲鳴と濁った血が溢れ出す。
 体内から斬られるというのは、想像するだけで痛々しい。
(あれなら首を落とされたほうがまだマシだな)
 春日は裂けた喉から空気をもらす鬼の頭部に刀を当てた。
 そして無言で、生命活動を断ち斬った。
 どさりと鬼の死体が地に転がる。
「さて、後始末といきましょうか!」
 春日はすっきりした笑顔で、元気良く声を上げた。
 目は据わり、歪み気味の笑みだが。
 刀を片手で構え意気込んだが、そこに広がる光景は春日の意に反していた。
「はぁ!?何これ」
「おまえがいつまでも始末しないからだ。待っている間に全て斬った」
 那智の淡々とした言葉が示す通り、そこには一匹も残っていない。
 二十ほどいた犬の全てを殺しきったのだ。
 死体は点々としているが、那智が斬ったものはすでに灰になっているのでその数はあまり多くない。
「えー……」
 不満そうな表情をしながら、春日は腰に手を当てる。
 文句を言おうかどうしようか悩んでいるようだ。
「人を巻き込んでおいて、何だ」
 那智は腕を一振りし、くにゃりと刀の形状を溶かす。それはいつも霞のように消えていく。
 見たことがあるのだろう、春日はそんな光景にも驚いた様子がない。
「俺が勝手に首を突っ込んだ。その後に手伝ってくれとは言われたけど」
「なんでそんなことするの。俺がいないのに」
「……なんとなく」
「なんとなくじゃないでしょうが。万が一ってことがあるんだから」
 呆れたような、だが慈しむような瞳で那智が説こうとする。
 自分が良くないということは分かっているので、皓弥は途中で喋るのを止めさせようとはせず「ああ」と相づちを打っては適当に流していた。
「何の為に俺がいると思ってんだよ。自分を大切にしたくないの」
「そういうわけじゃない」
「だったらねぇ、俺を呼んでくれよ。鬼がいるところに行くならちゃんと刀を持って。そのためにいるんだから」
「分かっている」
 皓弥は溜息をついた。
 こうして那智が説教をするのは、大切だと思っていてくれるから。心配してくれているからだ。
 だから別に嫌なわけじゃない。
 でも、今は。
「主のために刀がいるんだろ?分かってる」
 もうそれ以上聞きたくない、というように皓弥は話を纏めて畳んだ。
「主の」
 口に出して、その単語に付きまとい始めた嫌な感覚に喉の奥が塞がれる。
(俺が主だから、だからこうして怒ってる)
 もし自分が主ではなかったら、那智はどうするだろう。掌を返すように冷たくなるだろうか。何の価値もない人間に接するみたいに。
「皓弥?」
 気鬱そうな皓弥に那智は怪訝そうに名を呼んだ。
 だが何でもないというように皓弥は首を振った。
(くだらないな)
 こんなことを悩むなんて、くだらない。
 今、那智は皓弥を主としていて。それで大切にしてくれている。
 皓弥そのものを大切だとしているわけじゃなくても、何も変わらない。
「こんな馬鹿面した那智を拝めるなんて思ってなかった」
 春日は感心したように二人を眺めては、皓弥と目があった瞬間。
 口元をほころばせた。
 穏やかな、優しい表情だ。
 その柔和な顔に、皓弥は春日の不安は杞憂に終わるだろうと思った。
 そして、心の中にある靄が卑小なものに感じて胸の鉛が重くなった。


 鋭い犬の爪にあちこち引き裂かれたコートをゴミ箱に突っ込み、シャワーを浴びて一息ついた。
 適当に乾かした髪はくくらず、そのまま肩に流している。
 本棚の前に座り込み、読みかけだったハードカバーのページをめくる。
 文庫とは違い手に持っていると重みで疲れていくので、胡座をかいて膝に置いた。
 しばらく内容に没頭していると、コツンと一つドアがノックされる。
「はい」
 皓弥が本から顔を上げずに返事をすると那智が入ってくる。
 もう寝る時間だろうか、と壁にかけてあるアナログ時計に目をやるがまだ十一時だ。
 いつもなら後一時間は自室に籠もっているはずだが。
 パソコンも抱えず、那智は手ぶらで皓弥の横にすとんと腰を下ろした。
「何だよ」
「なんで春日といたのかなぁと思って」
 わざわざ皓弥の部屋にやって来たわりに、那智は機嫌を損ているようでもない。
 ただ気になったから聞いてみただけのようだ。
 そんなの寝る前にでも、ついでで聞けばいいのに。
「コンビニで声をかけられた」
 問いつめられているわけでもないし、皓弥に後ろめたいことは一つもない。
 文字に目を落として、読みながら口を動かした。
「話があるみたいだったから、そのまま飯食った」
「そういえば冷凍庫のピラフ減ってなかったな。何食べたの」
「モス」
「ジャンクフードばかりは良くない……って言っても俺が毎日飯作ってるから大丈夫か」
「おまえは俺が不健康そのものだと思ってるだろ」
 初めて会った頃、那智は皓弥に向かって食事の大切さを語った。まともに食事を取っていなかったことを嘆いた上でのことだ。
 よほどインスタントと出来合ばかりで済ませていた皓弥の生活が受け入れられないものだったらしい。
 細身であるのも食事のせいではないか、低血圧なのもそれか。と何かと那智は食事関係に持っていく。
 皓弥にしてみれば、それは元々なのだから今更何食っても変わらねぇよ。と言ったところなのだが。
「不健康というか……まぁそれは置いて。春日が皓弥に話なんかあったのか?仕事を手伝えとかじゃないだろうな」
「全然。もっぱらおまえの話だったよ」
「俺の?」
 那智は不思議そうな目で瞬いた。
「うん。昔の那智の話とか。俺の先祖のこととか」
「真咲のこと?千堂が詳しいことを知ってるとは思えないんだけど」
「ああ、分からないって言ってた」
「皓弥は知りたいの?真咲のこと」
 顔を上げ、皓弥はこちらを見ている那智の眼差しを受けた。
 頷けば答えるだろう。真面目な顔つきだ。
 だが首を振って否定する。
「お家騒動とか言ってた。どうせろくでもないことになったんだろ?どうでもいい。俺の家族は両親だけだ」
 会ったこともない、見たこともない人間を「親戚だ」なんて言われても困るだけだ。
 友達のほうがずっと身近に感じることだろう。
 その上遠縁でいつの年代かも分からないのだ。
 無関係に等しい。
「まぁ、ろくでもなかったね。でも俺の話のほうがろくでもないと思うけど」
 苦笑する那智に「そうでもなかった」と皓弥は口元を歪めてみせる。
 たまにはこっちがからかう側になるのも面白い。
「春日は今のおまえに会って、驚いたって言ってたぞ」
「だろうね」
 本人も変化した自分を自覚しているらしい。
「昔は無表情だったって?今とえらい違いだな」
「感情自体、そんなになかったしね」
 自分より表情豊かな那智を眺め、皓弥は首を傾げたくなる。
 那智の感情が乏しいなら、自分など感情が元々欠けているのではないだろうか。
 にこにこといつも笑っている人間が心の中でもそうだとは思わないが、それにしたって那智は嬉しそうだし、一部のことに関しては怒りの沸点も低い。
 皓弥など大抵のことなら淡々と流してしまうというのに。
「意外って顔してるけど、前はそうだったんだよ。皓弥に会う前」
「春日も言ってた。俺は那智が仕事している姿を見てないって」
「どういうこと?」
 仕事ならいつも一緒なのに。というように那智が尋ねる。
「鬼六人に囲まれたことあるんだって?それを全部斬ったって。そん時のおまえは人間じゃなかったって」
「人間じゃないからねぇ」
 さも当然のような那智に「そうじゃなくて」と皓弥はハードカバーの本について栞紐をページに挟んだ。
「目とかで相手を威圧して、動けなくするとか」
「それは大袈裟」
「でも、そんな感じだったって」
 皓弥はぱたんと本を閉じた。
「春日が見れば、そうだったんだろ?俺も荒れてたから、人間から見たら多少怖かったかもね」
 怖い。という単語に皓弥はふと面白いことを思い出した。
「おまえは、あの時主に嫌われるのが怖いって言ったんだって?」
「んなことまで覚えてたわけか、あれは」
 那智は呆れたように呟いた。
 ここに春日がいれば睨まれていそうだ。
「いい年してそれはないだろ。しかも真顔だったって」
「事実だからね。人からしたら馬鹿みたいな悩みだろーけど。刀にしてみたら深刻なんだよ」
「主に嫌われるのが?」
「そう。だって主のためだけに生まれてきた生き物なのに、嫌われたらいる意味ないでしょ」
「嫌われたって、必要なら側に置いておくだろ」
「そうだとしても、自分が恋い焦がれる人に嫌われるのは辛いよ。どうせなら好きになって欲しい」
 那智の目が細められ、皓弥は口説かれているということにはたと気が付いた。
 真っ向から「好きになって下さい」とお願いされているようなものだ。
 嫌ではないが、その視線に居心地の悪さがぽつぽつと気泡のように浮いてくる。
「自分が欲しがるくらい、欲しがって欲しい。でも刀はどっちかって言うと化け物の類だからね。気味悪がられたり、嫌われる可能性が高いと思って怖かった。求めながら、待ちながら、俺は怯えてた」
 揺らぐことなんてない、余裕ばかりの自信を見せ付けてくるくせに。那智は語る言葉の端々に、切なさを香らせる。
 それに震える皓弥の心を見通しているみたいに。
「主だけが俺の世界だから。地獄に突き落とすのも、幸福の絶頂に連れていってくれるのも、皓弥だけ」
 手を突き、腰を上げて身を乗り出すようにして近付いてくる那智に、胸のあたりに靄が生まれてきて皓弥の瞳が揺れた。
 箱の中に、ぎゅうぎゅうと押し込めたはずなのに。那智の口から聞こえる「主」という単語に反応して溢れてくる。
 どうしてだろう、今までは何とも思わなかったのに。
 それは自分のことだと簡単に考えられたのに。
「皓弥?」
 また那智は引っかかりを感じたようだった。
 皓弥は首を振るが、今度はそのまま見逃してはくれなかった。
「嫌?」
 那智の声が陰った。この男は皓弥の言葉にだけこんなに不安を見せる。それだけ特別なのだと教えてくれるのは嬉しい。だが今は苦しかった。
 自分でも整理の付かない、把握出来ない思いで那智を振り回している。
「そうじゃない」
「なら、どうしたの。春日に何か言われた?」
「違う」
 ただ気付いただけだ。
 那智の口から言われただけでは分からなかった。「主」と言う那智の瞳は皓弥だけを見ていて、それは名を呼んでいるのと同じだったから。
 だが春日が言った「主」というのは、代々蓮城という刀を持つことの出来た人間たちを指していた。
 そこに皓弥個人の情報も、感情も含まれていなかった。
 だから知ってしまったのだ。主だからこそ、自分が大切にされていることを。
 好きだと言ってくれることも、主だからだと。
(痛い)
 見て欲しい。主ではなく、自分を。そんな思いが棘になって心の内に刺さる。
 こんなにも人に対して貪欲になっている自分を扱いきれず、持て余しては鉛をまた一つ飲み込んだ。



 


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