深夜というには時間がまだあるというのに、住宅街には人気が感じられない。 マンションの灯りはついているが、不思議とそこから人の声などが聞こえてこない。 冬ということでぴったりと窓を閉ざしているせいだろうが、それが一層辺りを寂寞とさせていた。 こつんこつんとブーツのヒールが高く鳴っている。 春日は隣でコートに両手を突っ込んだまま歩いていた。 腕にはボストンバッグをぶら下げている。 初対面の時より幼く思えた。内面に少しだけ触れたからか。 愛される? そう不安を隠せずに揺れていた姿を見たからかも知れない。 「家ってこっち?近所に住んでるわけじゃないんだろ?」 「駅に行くの」 「遠回りじゃないか?もう一本外れた道の方が近いぞ」 「何、あたしと歩くの嫌なの?」 むっとしたように言われた。親切心のつもりだったのだが。 「いや、別に」 本人の好きにすればいいか。とそれ以上口は出さなかった。 すると、突然春日は何か思い出したように「あ」と声を零した。 「そういえば、ホモなのね」 「は?」 「だって皓弥って男じゃない」 髪は長いけど、とコートから手を出して春日が一つにくくってあった髪を掴もうとするので、皓弥はさっと身体を避けて逃れる。 「いきなり変なことを言うな」 顰めっ面で皓弥は身構える。 尻尾のような髪を容赦なく引っ張られたのは、数時間前のことだ。 「リアルホモって実際に見るの初めてなんだけど。違和感ないね」 「なんだそのリアルホモって」 「三次元的なホモ」 「全然意味が分からん」 特殊な人間同士だからか、内面に触れる会話をしたせいか、会ってそんなに時間も経っていないというのにまるで友達みたいにじゃれ合っていた。 「人間同士じゃない上にホモかぁ。茨道ね」 「おまえ、さっきから嫌なことばっか言いやがるな」 「事実じゃない。事実」 ほほほ。と春日はわざとらしく口の前に手を当てて笑う。 「おまえは有閑マダムか」 皓弥はとうとうそのツッコミを入れてしまった。 すると春日は気分を害した様子もなく、むしろきょとんとした目をする。 「何それ。夕刊?」 明らかに新聞だろそれ、というニュアンスで尋ねられ皓弥は説明する気にもならず脱力した。 春日は小説を読まないタイプなのかも知れない、なんて考えても仕方がないことを思ってしまう。 「新聞マダムって何?分かんないんだけど?」 「分からなくていい。そのまま生きて行け、きっと縁のない人種だ」 「何よ。さっきはあたしに向かって言ったくせに」 どういうことよ。と白い息を吐きながらも「ねーねー」と執拗に追求する春日に、皓弥は手を振った。 犬を追い払うような仕草だ。 「ちょっと!あたしを何だと」 まるでどこぞのお偉いさんがご立腹した時に出しそうな台詞を言いかけていたが、春日は言い終えることなく急に首ごと横を向いた。 ぴたりと立ち止まっては動かなくなる。 「どうした?」 皓弥も歩みを止め、何事かと春日が見ている方向に目をやる。 公園だ。皓弥の胸ほどの高さがある柵に囲まれている。木々がよく茂っているため、ここからでは中はよく見えない。 隙間からかろうじてのぞける範囲には、人が乗っていないブランコが僅かに揺れているだけだ。 風だろう。そう思ったが頬には何も当たってこない。吹いていないのだ。 違和感が込み上げた。それはすぐに苛立ちのようなものへと変わる。 「春日!」 皓弥が感づいたと同時に無言で春日が走り出した。 迷うことなく公園の入り口へと向かう背中をつられるようにして追う。 スカートにブーツという姿にも関わらず春日は俊足で、皓弥が入り口に辿り着いた時にはすでにそこから見渡せるグランドに姿は見えなかった。 初めて会った時にはそこで刀を振り回していたのだが。 (何処だ。たぶんこの嫌な気配の先だな) 皓弥はコートの内ポケットから短刀を取り出す。 着膨れしていてもおかしくない冬場は刃物を衣類に仕込めるからいい。 (人には見られたくないな) 刃物を持って、夜に公園をうろついているなんて変質者決定だ。このご時世なら通報されること間違いなしだろう。 (那智は便利だな) 体内に刀を仕込めるというのはこういう点に置いても利便性に富んでいる。 人目から隠せる上に、持ち運ぶ必要がない。 (春日も面倒だろう) いくら小さくなるとはいえ、刀を持ち歩くのは色々不便なのだ。皓弥も護身のため常に携帯しているからその苦労は分かる。 「あーぁ」 仕事でもあるまいし、どうして自ら厄介事に首を突っ込もうとしているのだろう。春日はプロなのだから、鬼に遭っても自分で始末出来るだろう。 引き返そうかと思いながらも皓弥は走っていた。 「大丈夫だろうけど」 万が一ということがある。今がその時なら、皓弥はいつまでも後悔するだろう。 そうしないため、小柄な春日を捜していると公園の外から見えたブランコの近くにあった。 遊具が点在する中で、こちらに背を見せ立っている。 手には人の足ほども長さがある刀。 バッグは足下に捨ててあるかのように置かれていた。 「春日」 「なんだ。来ちゃったの?」 ちらりと振り返った瞳は刀身と同じだけ鋭さを持っていた。先ほどまでじゃれていた少女とは全く別人であるかのようだ。 年も姿も曖昧にさせるほどの鋭利な気配と殺気。 (似てる) 仕事中の那智に。 あの男はもっと無機質な感じだが。 「今から仕事なんだけど」 春日は皓弥からシーソーへと目を移した。 その奥、木々の間からゆらりと陰が現れる。 一つ、二つ、口を開け牙をちらつかせながらうなり声を上げる。 「らしいな」 鬼に成り下がった犬だ。 それなら来るまでもなかったわけだ。 そう皓弥が鞘を握りながら抜こうかどうしようか迷っている間にも、陰は数を増していた。 「……なぁ春日」 「言いたいことは分かる」 「多過ぎじゃねぇの?」 「皆まで言わないでよっ」 春日は苛立ったのか声を荒らげる。 それほどの数が木々から現れていた。 ざっと見るだけで既に十匹だ。その奥にもまだ気配がある。 白や茶、黒。ぶち模様や長毛種、様々な犬がいるがどれも爛々と飢えを訴えている。 「これだけの数になるとヤバイから逃げたほうがいいんだけど。今日は確実に今回の目標がいるのよ。ようやくお目見えってやつね」 焦らしやがって。と春日は嬉しそうに、だが忌々しそうに言った。 「だから仕留めておきたい。次いつ出るか分からないから」 話の流れ上、春日の言いたいことには察しがつく。 「それで、皓弥。聞きたいことがあるの」 「なんとなく予測が付くんだが」 「手を貸すつもりはない?報酬出すけど」 「皆まで言うなよ」 皓弥は鞘を抜いた。短い刀身は那智に比べれば明らかに見劣りがある。だが透き通るような輝きがある。二十年という歳月、皓弥を守ってくれたものだ。 「金はいらない。俺が好きこのんでここに来ただけだ」 頼まれることじゃない。そう皓弥が告げたか告げないかのタイミングで一匹の犬が春日に飛びかかってきた。 大きく口をあけ、剥き出しとなった牙が少女を喰らおうとするが一刃にその首が落とされる。 ごとと鈍い音を立て、だらりと長い舌を出したまま頭が転がる。 それで正常な状態の生き物ならば怯み逃げ出すのだが、鬼たちは一気にその貪欲さを増したようだった。一声吠えては荒い息を吐く。 そのほうが美味そうだ。とでも思っているのだろうか。 「さすがにぞっとするな…」 「同感」 人より犬や猫といった鬼のほうがずっと数が多い。皓弥も犬の姿をした鬼を覚えていないくらい何度も斬っているが、これだけの量と熱気に囲まれると背中に嫌な汗が滲んできた。 春日もそうらしい。斜め後ろから眺めているだけでも表情が強張っている。 「でも、やんなきゃね。今から逃げてもやられる」 「だろうな」 犬は逃げるものを追う習性がある。斬るしかないということだ。うんざりしている暇はない。 皓弥は柄を握りしめた。那智より頼りなく感じてオイオイ、と呆れる。半年前までこれが最も馴染んだ物だったのに。 (人は一度いいもんを手に入れると、元には戻れないか) 濁った遠吠えが夜を裂いた。 それが合図だったのか。犬が一斉に襲いかかってくる。 「うっぎゃー…」 圧巻ですらある。引け腰になる自分を叱咤しながら血肉を求める歯に触れられる距離まで待った。 この獲物では接近戦しか出来ないのだ。 肩を囓られる直前になってようやく刃が首に届き、身体を捻りながら間近にあった首を一文字に斬る。鮮血が飛び散ってはコートを汚す。 ぐぅと斬られた喉から空気が漏れる音が聞こえた。犬はそのまま少しばかり歩いた後崩れるように倒れた。 息絶えたのかを見届ける間もなく次の牙がすぐ側までやってきていた。 死がすぐ背後に迫ってくるような、間合いの近さだ。 「やり辛ぇ!」 隣で春日が長い刀身をいかして、犬と一定の距離を測りながら斬り捨てていた。 それが視界に入るものだから、余計那智が頭にちらつく。 もどかしい。これでは全力なんて出せない。 喰われそうになるのをかろうじて回避しているという、ぎりぎりの状態は酷く精神を圧迫していた。心臓が恐怖に悲鳴を上げる。 「春日、ちょっと抜けるぞ!」 皓弥はくるりと犬に背を向けた。 このまま逃走しても犬の足には敵わず、背後から襲いかかられるのがオチだろう。だがすぐ側にあったジャングルジムまでならなんとかなりそうだった。 「ちょっと、皓弥!?」 春日は刀を振り回しながら、一目散にジャングルジムにかけよった皓弥を「何してんの!」と怒鳴りつける。 罵声を背後に受けながら、皓弥はかろうじて辿り着き、足を噛み付こうとしていた犬の顔面を踏み付けてよじ登る。 慣れない手つきで頂上まで上がると、デニムのポケットに入れていた携帯を取り出す。 足下では犬が群がってきては吠え続けている。 短い呼び出しですら焦燥感にかられてしまう。 舌打ちをした時、呼び出しが途切れた。 『はい』 「今何処だ!」 怒鳴りつけるように言った。 『家だけど』 電話の相手はその勢いに押され気味だ。どうしたの、と聞こうとしたのだろうが皓弥は最後まで聞いてやらなかった。 「鬼だ。公園まで来い!」 それだけ言うとぷつりと電源を切った。 状況はそれだけで十分伝わる。急いで駆けつけて来るだろう。 (三分くらいか) マンションからここまで、走れば二分くらいだ。部屋から地上に降りる時間を考えればそれくらいで来るはず。 「那智がいなきゃなんにも出来ないの!?」 また一つ首を斬り落とした春日に罵られた。 必死な様子に、下りたほうがいいということは分かるのだが。下手なタイミングで地面に足を付けようとすると犬に襲われる。 傷一つ負うわけにはいかないのだ。この状態で血が流れれば確実に犬たちはもっと殺気立つ。 「仕方ないだろ!?短刀じゃ間合いが取れないんだよ!」 「役立たず!!手伝えって言ったでしょ!?」 「態度デカイなおまえ!」 だが四方を鬼に囲まれた春日は、見ているとかなり危険な状態だ。 くるりと身体を捻って回るように刀を扱い、ようやく身を守っている。 (まずいな……) すぐ下でギャンギャン吠えている犬を見下ろし、皓弥は深く息を吐いた。 出来るなら、自分の血は流さずにいたいものだ。 だが静観している場合ではない。 皓弥の刀も、もうすぐここやってくる。 それまでの間。 「どうせ役立たずだよ!」 自分の身を守るだけで精一杯だった過去を振り返りながら、皓弥は短刀の刃を下に向けて握り直した。 そのまま犬の牙が届くか届かないかの位置まで下りる。くるぶしに噛み付こうと力一杯飛びかかってくる犬の鼻面に短刀を突き刺した。 飛び散る血で視界を奪われた犬がのけぞるようにして悲鳴を上げる。 犬の身体が地面に落ちると同時に皓弥もジャングルジムから飛び降りた。 「こんな数、相手にしたことねぇしな」 鼻面を切った犬の首にとどめを刺す。他の犬はその間にも弧を描くように跳躍しては爪を立てようとする。 「かつかつ過ぎなんだよ!」 急いで短刀を首から引き抜き、身体をひるがえす。だがその先にも犬の牙があった。 「こういう経験だって必要でしょ!?」 「強がり言ってんじゃねぇよ!」 瀕死になるような経験はいらない。 余裕のある仕事の仕方のほうがずっと身体に良い。 「くっそ、刀!」 爪と牙。次々に向けられるそれらから皓弥はかろうじて逃れていた。コートのあちらこちらが破けても、皮膚まで達していないのが幸いだ。 刃渡りの長い物が欲しい。あの刀が欲しい。 触れた瞬間に呆気ないほど鬼を斬り捨ててしまう。那智が。 背中を預けていられる、那智が。 (やばい) 走り回っては息が上がってきた。 避けても、避けても、きりがない。 斬り付けるような余裕もなくなり、皓弥は死と直面しながら動き回っていた。 「那智……!」 酸素が足りずに身体が悲鳴を上げている。 だがそれまで容赦なく襲いかかってきた犬が、一瞬怯みを見せる。 「あ」 何だ。そう怪訝そうに皓弥は眉を顰めたがすぐに理由が分かった。 ――斬。 すぐ近くで刀が犬を絶った。 春日ではない。もっと研ぎ澄まされた、もっと無慈悲なものだ。 見ずとも分かる。それが何なのか。 「那智!」 男がコートも着ずに走り寄ってくる。手には透明な光を反射させる美しい刀。 皓弥を見付けると、少しだけ目元を緩ませた。 だが群がる犬を無造作に斬り捨てる動作は冷淡だ。 「巻き込まれちゃ駄目だろ」 皓弥に飛びかかる犬を、一歩大きく踏み出して那智は断ち斬った。 有り得ないほどの距離の長さを消し去ってしまう。 達人などという領域の者は、刀を持ては相手との距離を霧散させてしまうそうだ。 那智もそこに行き着いた者ということだろう。 「皓弥」 すぐ側、傍らでそう名前を呼ばれるだけで皓弥の身体から恐怖が消えていく。 緊張の糸を切りはしないが、張り詰め過ぎていたそれには微かにゆとりが戻ってくる。 必要だ。那智が。どうしようもなく。 皓弥は込み上げてくる切望を噛み締めた。 次 |