四




 
 忘れていたことだった。
 那智は人ではなく、もっと別の生き物で。
(俺を殺すことなんて、簡単だってことは)
 あの男はいつもあたたかな掌で触れてくれて、穏やかな声で囁いてくれて、あの刀は身を守ることにしか使ったことがないから。
「化け物、か」
 それは那智本人が口にすることだった。
 人と同じ外見で、人と同じように感情を見せるくせに、当然のような顔で言う。
 その度皓弥は小さな鉛を飲み込んだような気持ちになる。
 皮肉のようなその言葉はあまり聞きたくなかった。
 自分とは違う生き物だと声高に告げられているようで、距離が開いていく気がする。
「あたしも化け物に近いものがあるけど、那智はもっと近い。むしろあれはそのものかも知れない」
 春日もまた、当たり前のように化け物。と言う。
 本人から聞く分には気持ちが沈むだけだが、春日の口から聞くとどうも癇に障った。
 罵られているわけではないと察することは出来るのだが、どうも苛立つのだ。
 那智を貶められているようで。
「あれが化け物だと、本気で思うのか?」
 自然と低くなってしまった声に、春日はきょとんと目を丸くした。
 意外そうな目をして、それから目元をほころばせた。
「なんだ、良かった」
 初めて見る穏和な表情に、春日が可愛らしいというより綺麗な顔立ちをしていることを知らされる。
 それまではどこか人をからかっているような雰囲気があったというのに、あっさり払拭された。
 優しく微笑んでいたら美人だと言っても文句を付けられることはないだろう。
「何が、良かったんだよ」
「こっちの話」
 意味ありげな言葉で春日はにこにこと機嫌良さそうにジンジャエールを飲む。
 そろそろ氷が溶けて薄くなってきてるのではないだろうか。
「鬼を斬ってる時の那智は、どう見たって化け物に近いでしょ。少なくとも人間には見えない」
「……そうか?」
「那智が斬ってるの見たことあんの?」
 同意出来ない。という顔を見せる皓弥に、春日は呆れたような視線を向ける。微笑んでいた時の穏やかさが、とげとげしいものに一変する。
 くるくるとよく変わる表情だ。
「あるが、そんなに人離れしてるか?まぁ、人格は変わってるけど鬼なんてもん斬ってるんだから殺気立つのは当たり前だろ」
 仕事は主に皓弥がやっていたが、時折手を出してくる時の那智は非常に不機嫌そうで。
 口調は荒い上に、鬼をこの上もなく目障りな存在であるかのようにすぐさま抹殺している。
「殺気立つって次元じゃないのよ!絶対見たことないわね!あいつそんなところまで変わったの?」
「そんなところって」
「那智はね。大勢に囲まれても平然と全滅させるような男なの。しかもあたしみたいに犬相手じゃなくて、人の形をした鬼でも」
 春日は唇を少しだけ尖らせた。壮絶さが伝わらない、と不服そうだ。
「仕事関係でね。たまたまその場に遭遇したことがあんのよ。あの時、鬼が六人。那智は一人で始末してた。一太刀で確実に仕留めてね。あたしは十六だったけどもう立派に仕事やってたのに、身動き出来なかった」
 六人の鬼。
 同じ状況になったらどうするだろう。たった一人で囲まれれば。
(……最悪だな)
 殺されるという最期しか、思いつかない。
「あの男は、刀で斬り殺す前に目で殺してるのよ」
「え?」
「蛇に睨まれた蛙の状態。動けば死ぬ。でも動かなくても死ぬ。どうしようもないでしょうね。だから六人でも殺せる」
「そんなこと出来るのか……?」
「見てみれば分かるわよ。死ぬしかないって思うから」
 あたしだって思ったんだから。と春日は拗ねるようにぶすっと言った。
 十六からすで仕事をしているという自負を持っていたのだろう。春日はプライドが高そうだ。
 それを砕かれた思いがしたのかも知れない。
(そういえば)
 初めて那智と会った次の日、昇司との稽古を眺めた時のことを思い出した。
 生まれたての赤子の首を絞めるより簡単に、自分は呆気なく殺されるだろう。
 そう感じたのだ。ただ同じ空間にいるだけで。
 あの時皓弥も今まで積み重ねてきた経験や、自負というものを粉砕された。
 いっそ気持ちが良いまでに。
「そんなのを人間とは言えない。少なくともあたしはそう思ったの。なんて生き物だって。恐怖なんてないだろうって」
「恐怖……」
「うん。あたしは特殊だって言っても人間だから、やっぱり面と向かって鬼を斬るってなると怖い時がある。あたしには刀があるけど、あっちにだって爪や牙、怪力とかがあるから。殺される可能性だってあるわけじゃない」
 皓弥は頷く。
 殺される可能性。それは人間であるなら常に付きまとってくることだ。相手は人を殺すものだから。
「でも那智にはそんなものないだろうって。それ以前に那智に恐怖心ってあるのかどうか自体が分からなかった」
 でも、と春日はそこで何かを思い出したようにくすりと笑った。
「その後に、那智に会ったときに聞いたの。怖い物なんてあるのって。そしたらあいつ何て答えたと思う?」
 猫を思わせるような大きな目が、面白そうに皓弥を見た。
「主に嫌われないかどうかが怖いって言ったのよ」
 ぽんっと頭の中にゴムのボールから投げ込まれたみたいだった。
 黄色くて、ほわほわした、幼児の遊び道具。それくらい拙い恐怖だ。
 鬼を斬るだの、恐怖心だの、剣呑な単語を繰り広げていた空気からはほど遠く、かくっと脱力してしまう。
(すげーぴりぴりした那智を想像してたんだが)
 それでは、いつもと同じくのほほんと家事をしている那智が言う台詞ではないだろうか。
「皓弥に嫌われるのが一番怖いよ?」と、煮込み料理の片手間に世間話のように言うのなら、ありありと想像がつくのだが。
 本気なのか、冗談なのか。よく分からない言葉たちを聞かされることはよくあることだから。
「有り得ないでしょ。殺気立って、近寄る奴みんなとりあえず斬ろうかって男が。あたしは耳を疑ったわよ。大丈夫かこの人って」
「そこまで思うか」
「やっぱ人間じゃないから、頭のねじが飛んでるんだって思うことにしたけど」
「それは酷いだろ」
「そう思わざるえなかったの!だってその時初めて那智が笑ってるとこ見たんだもん!それまでは表情筋が死んでるんじゃないかと思ってたのに」
 それは誰のことだろう。
 那智のことだと分かりながらも、首を傾げたくなる。
 あの男はよく微笑んでいる。嬉しいことが毎日いっぱいころころ転がっているみたいに。
「蓮城が主っていう人を大切にしてるってことは知ってた。有名だから。でもあの時の那智はまだ主に、貴方に会ってもなかったのよ?それなのに嫌われたらどうしようとか言ってんの!あんたは女子中学生か!って言いたくなるでしょう。そのギャップがすさまじいわけ!」
 春日はここにきて、生き生きと語り始めた。
 もしかするとこれが言いたくて皓弥に声をかけたのではないだろうか。
「馬鹿じゃないかって、思ったわよ」
 はぁ、と春日は上がったテンションを抑えようとするように息を吐いた。
「出逢ってもない人間に嫌われるかどうかの心配をするなんて無駄でしょう」
「まぁ、そうだな」
 普通にそう思うだろう、と皓弥が続けると春日は唇を歪めた。
 苦笑というより、皮肉げに。
「あいつは嫌われる嫌われない以前の問題でしょう?」
 声音が沈んだ。
 活気があった表情は再び淡々としたものになっている。
「拒絶されるに決まってる。人間と化け物が相容れるはずがない。拒絶されるのが目に見えている。なのにこいつは何を期待してるんだろう」
 教科書を朗読しているようだった。
 堅苦しい文章を、ただ感情も込めずに読んでいる。
「一人でいるほうがずっと楽なのに。あれくらい強ければずっと仕事が出来るだろうし、傷付くこともないはずなのに。どうして誰かを求めるんだろう」
 春日は目を伏せ、最後のひとかけらになっていたレタスバーガーをぱくりと口に入れると瞬きをした。
 それで気分を入れ替えたのだろうか。
 ちらりと上げられた視線は、からかうようなものに変わっている。
「そう馬鹿にしてたの。きっと主に会ったって、上手くいきっこない。受け入れられるはずがない。捨てられなくても、せいぜい奴隷みたいに扱われるのがオチって思ってたんたんだけど」
「奴隷」
 皓弥は思わず苦笑する。
 主をどんな人間だと想像していたのだろう。
「いざ会ってみると、すっごい幸せそうにしてるじゃない。奴隷にしては」
「奴隷扱いなんかしてないからな」
「みたいね。いつも無表情か、もしくは不機嫌そうな那智しか見てないから。にここにしてるのが不気味でびっくりした。貴方も那智のこと嫌がってるように見えなかった」
(そりゃ、嫌がってないからな)
 初めて春日と会った時のことを思い出す。確かに那智は幸せそうだったかも知れない。
 主と皓弥のことを言う瞬間は微笑んでいた。
 自慢げですらあった。
「正直、そんな風になるなんて思ってなかった。理想そのものになれるなんて思ってないかった。だから、貴方がどんな人が知りたくなったの。那智にあんな表情をさせる人ってどんな人間なのか。受け入れられる人間ってどんな人なのか」
「どんなって……」
 貴方はどんな人ですか。
 そんな質問をされてすらすらと答えることなど、皓弥には出来なかった。
 皓弥のことに関してはきっと那智のほうが惑いなく答えてくれるだろう。
 色々着色が入ってそうだが。
「怖いとは思わないの?那智を」
「殺気が自分に向けられることがないからな。なんだかんだで、大切にしてもらっているし」
 面倒をみてもらっている。と言えばまるで子どものようで言い辛い。
 しかし大切にしてもらっているということも、むずがゆい台詞だ。
 何と言えばちゃんと伝わるのだろう。
「そりゃずっと待ち焦がれた主だから。大切にするでしょ」
 当然よと春日は言った。
 だがこの言葉に、皓弥は何か引っかかりを覚えた。
(待ち続けた、主だから)
 だから那智は大切にしてくれるのだろうか。愛おしいと言葉より雄弁に伝えてくれる触れ方は、皓弥が主だから。
(主じゃなかったら、俺は那智にとって価値のない人間だったわけか)
 那智が求めるのは主だけで、主ではない人間は自分と違う生き物だという認識しかないと言う。
 それはこの心を抱くものとは異なっている。
 皓弥は那智が刀だから大切なのではない。もう二度とあの刀を出すことが出来ないと言われてもすでに気持ちは変わらない。
(でも那智、違うんだろうな…)
 もし主でなくなってしまえば、そんなことが有り得るのかは分からないが。
 那智は皓弥の元から離れるだろう。主でない人間だから。
(違うのか)
 自分と、那智とでは違う思いを抱いている。
「主を愛することが生きている意味だって断言してたもん。ようやく逢えた主なんだから全力で愛するでしょ」
「愛する愛するって、素面で言う台詞じゃないな」
 皓弥は呆れるが、きっとあの男は素面で言ったのだろう。
「素面の真顔で言ってたわよ。全ては主のためにって」
「主のために、ねぇ」
 春日の口から那智が抱いていた主への思いを聞くたびに、もやもやとしたわだかまりが増えていく。
 主というのが、自分ではないかのようだ。
「で、皓弥はどうなの?愛してるの?」
「は!?愛してるって」
「だって愛されてるんでしょ?愛してないの?やっぱり那智は嫌?」
 春日は目を輝かせながら、前のめりになって尋ねてくる。
 色恋沙汰になると興味津々になるのは、女の子全員に共通するものなのだろうか。
 そういうものに縁がない上に興味もなかった皓弥には、その好奇心に気圧されそうになる。
「嫌ではない。うん、大事にされてるし……」
「でも好きでもない?」
「それは……」
 否定出来ない。那智がここにいないのだから、この場限りのことで否定してもいいのだが、気持ちの問題だった。
 那智は特別な人間で、きっとこういう思いで見ているのだろうという自覚はあるから。
「好きなんだ」
 言いよどんだ間を、春日は都合良く解釈したようだった。きらきらとした瞳を細めてにやりと笑う。
 あまりにも嬉しそうで、一体何がおもしろいんだ。と問いつめてやりたくなる。
「ふぅん、良かった」
「良かった?なんかさっきも言ってたけど、那智が幸せだと春日にとっては良かったってことになるのか?」
 那智の幸せが、あたしの幸せよ。とでも言うのだろうか。
 もしそうだとすれば、春日は那智が好きなのだということになるのだが。
 皓弥はぴりぴりとしたものを感じていた。緊張に似ている。
 そうでなければいいと祈っている自分を少し笑ってしまいそうだった。
 人が誰を好きになろうが関係ない。そういうスタンスで生きてきたのに。急変する羽目になっている。
 たった一人の、男のせいで。
「うん。良かったってこと」
「なんで?」
 ぴりぴりとした緊張は、心臓を軽く締め付けた。微笑む春日の顔が妙に非道に見える。人は勝手な見方をする生き物だな。と今更ながらに関心しそうだ。
 さっきまで普通に可愛らしい顔立ちだと冷静に見ていたのに。
「だって、人じゃなくても愛されるんだって思えるから」
 皓弥は思いがけない答えに、息を止めた。
 緊張はすっと溶け消えるが、心臓は縛られたまま窮屈そうに脈打っていた。
 春日は微笑んだままだった。だが瞳は不安げに揺れている。
 気が強そうな少女はその言葉を告げると、小さくなるように肩を落とした。
 黒髪が、さらりと肩から滑り落ちる。
「普通の人じゃなくても、誰かに受け入れてもらえるなんて信じられなかったから。拒絶されるだけだって思ってたから。でも受け入れる人はいるのね」
「……いるよ」
 気休めではなく、皓弥は確かにそう断言した。
 多くの人間は拒絶するだろう。春日が恐れるように、忌み嫌うだろう。
 だがそれでもいいと言う人間だっているはずだ。
 皓弥とて最初は那智なんて得体の知れないものは嫌だったし、まして人間じゃないと言われれば警戒する。鬼ではないかと。
 でも大切にされるたび、囁かれるたび、ぬくもりを教えられるたび、そんなものはゆっくりとほどけていった。
 ほどけざるえなかったのだ。
「俺は普通の人間とは、違うけど。でも……あいつはやっぱり違う類のもんなんだと思う。でもそんなことは今更どうでもいいし。そんなことよりもっと大切なことってのがあるから」
 人間だから、人間じゃないから。そんな理由で那智から離れることは出来ない。
 あの存在は、皓弥にとって必要なものなのだ。そこまで、浸食されてしまったから。
「あたしでも大丈夫かな」
 ぽつりと消えそうな声で春日は呟いた。
 ああ。これが聞きたかったんだろうな。皓弥はそう察した。
 人とは違うということを嫌というほど感じながら生きてきたのだろう。
 鬼を斬るなんて仕事をするたびに、隔たっていくような気がしたのだろう。
 皓弥がそうであったように。
「変なところがない人間なんていないからな。大丈夫だろ。てか鬼を斬れるってのが嫌なんて言う男、捨てちまえ」
 懐の広い男を見つければいいだけの話だろ。とあえて軽くまとめる。
 慰めにもなってない気がする。
 と言い終わってから内心やばいかも。と思いながら冷えた烏龍茶を飲んだ。
 春日の反応を窺うが、しばらくは黙ってまだ四分の一ほど残っている自分の食事を眺めていた。
「……それもそうか。何もこっちから愛情乞うことなんてないのよね。君ならどんな人間でもいいってくらいたらし込めばいいのよ」
 くすりと笑う気配とともに、元のように人をからかっているような口調が戻ってきた。
「たらし込む……」
 なんだそのいかがわしい単語は。
 少女の口からは聞きたくない単語だったが、何やら吹っ切れたらしい春日に安堵の息を密かについた。
(ああ、でも那智はそうしたんだろうな)
 那智は初めから自分は人間じゃないとバラしたが、それでも構わないと皓弥が思うほど愛情を注いで、言うなればたらし込んだわけだ。
(主だから……捨てられると刀として生きてる価値がないから)
 皓弥が主だから。
 不意に那智の声で蘇った言葉に、胸が塞がれた。
 


 


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