弐




 
 桃とアロエのヨーグルト風味の感想は。
 微妙。
 その一言尽きた。
 だが後を引く味だったため、だらだらと飲み続けて最終的には全て皓弥の胃に収まることになった。
「……あの曖昧な味がすごく気になる」
 記憶した味のぼんやりさに、舌が「はっきりさせてくれ!」と叫んでいる。
 明日にでももう一本購入してみようか。
 ベッドヘッドに背を預け、皓弥は桃にアロエが絡まった何とも言えないパッケージを思い出していた。
 すると、コツンとドアがノックされた。
「ん」
 たった一声上げただけで、ドアの向こうにいる人は了承の合図だと理解する。
 今日はノートパソコンを抱えてやって来た。
 その日によって手ぶらであったり、本であったりする。
 同じベッドで眠るようになってから、那智の枕はずっと皓弥のベッドに置きっぱなしだ。
「そろそろ犯人出た?」
「出た」
 二日ほど前から皓弥はノベルズを読み続けていた。
 辞書並に厚い本だ。
 読むスピードは速い方に分類されるが、それなりに時間を取られている。
「どう?」
「……さすがメタミスだな」
 皓弥は半眼で、唇の端をひくっと持ち上げた。自棄になったかのような表情に那智はベッドに身体を滑り込ませながら「はい。分かりました」と複雑そうに微笑んでいた。
 そして皓弥と同じように上半身を起こしたまま、ノートパソコンを開いている。
「……なぁ」
 皓弥は解決編もほぼ終わり、最期の締めに入りかけていた本に、興味が薄らいでいた。
 犯人とトリックが分かれば後は蛇足だ。と思っているからだ。
「あの千堂って人。刀なのか?」
 犬の首を切り落とした日本刀が皓弥の脳裏に蘇る。
 春日は軽々と刀を振り回していた。小柄な少女が普通の日本刀をあんな風に扱えるとは思わなかった。
 那智のような刀でなければ、無理だと。
 あれは羽ほどの重みしかないのだから。
「違うよ。春日は刀じゃない。人間だ。あの刀は持ち物にしか過ぎない」
「でも、小さな鞘に収まってたぞ。あんなの普通の刀じゃない」
「うん。普通ではないね。あれは千堂の家で作られる特別製。皓弥が持っているあの短刀と似たようなものだよ。あれは蓮城でしか作られないものだけど」
「俺のは小さくなったりしない」
「元々小さいからだよ。春日のは長いままだと不便だから、短く出来るようになってるんだ」
「どうやって?」
「それは千堂の企業秘密だろ」
 ノートパソコンの画面から目を離さず、那智は淡々と説明を続ける。
「もし春日が刀であるなら、あの死骸はすぐさま灰になっている」
 そう言われ、皓弥は春日の去った後の公園を思い出した。
 犬の死骸を見ると黒く腐食するように溶けては小さな影に貪られていた。
 餓鬼だ。鬼の死骸は餓鬼が出てきて残らず食らい付くす。
 だが皓弥が斬った鬼は、那智が喰らうためすぐに灰になって消えた。
 しばらくするとそこには何もなかったように、平穏な光景が戻ってきただろう。
「でも人間だからね。喰えない。始末するだけだ」
「じゃあ、千堂は刀の家じゃないのか。おまえのところみたいに」
「違うね。確かにあそこは鬼を始末することの出来る由緒ある家柄らしいけど。所詮人間だからね。力の差が年によってばらばらで、近親婚が進みすぎて一時期やばかったらしい」
「近親婚って…」
「自分たちの血を色濃く残すための手段だ」
 外部からの血を受け入れると特別な血が薄れてしまうという恐れからくるものだろうが、文字だけで読むならともかく、事実として耳に入れられると、しかもつい最近のことのように言われると生々しい。
「あそこの良いところは実力主義なんだ。年齢は全く関係ない。今のところ春日の叔父が最も力ある人間としてトップにいるはずなんだが、失踪してね」
「失踪。なんかとんでもない家だな」
 近親婚だの、失踪だの。剣呑な単語だ。
「とんでもないよ。更にとんでもないことに、その次に力あるのがあの高校生である春日だ。千堂の家で今、あれに逆らえる者はいない。せいぜい親くらいのもんだろう」
「……なんか、調子に乗りそうな環境だな」
「乗るだろうね。でも力があればあったで鬱陶しいらしいけどね。無駄に人数だけは多いから。千堂は」
「おまえのところは?」
「俺のところは前の刀であるジジイと、俺の母親である春奈さんと、現在刀である俺の三人。他は親戚でも無関係みたいなものだよ」
「たった三人?てか、春奈さんのこと名前で呼んでんのか?」
「名前だよ。ずっと昔はお母さんって呼んでたらしいけど。実のところ、親って感覚はないからね」
「ないのか?」
 初めて那智と逢った日、そのまま蓮城家に泊まったのだが仲の良さそうな親子に見えた。
 距離があるとは、思えなかったのだが。
(春奈さんも、那智のこと大切にしてるみたいだったけど)
 そういうのはなんとなく雰囲気で感じられる。
「春奈さんは、俺を産んだ母親だけど人間だから。やっぱり刀とは違う生き物だよ。俺が身内だと、同じだと思うのはジジイだけだ」
 ジジイ。初めて聞いた時は乱暴な言い方だと思ったのだが。
 こうして話を聞くと、それはとても近い肉親だという気持ちの表れなのだろう。
「でもまぁ、それでも近い人だとは思うけど。父親なんて他の人間と同じ、自分とは明らかに異なる生き物だって意識しかない」
「そういえば、おまえの父さんって?」
 那智の口から父親などという言葉が出てきたのは初めてだった。
 蓮城の家には祖父と母親しかいなかった。
 父親という存在がぽかりとなかったのだ。
 込み入った事情があるのだろうかと今まで聞かずにいた。
「いるよ。でもあの家には暮らしていない」
「別居してるのか?」
「俺だけがあの蓮城本家でジジイと暮らしてるんだよ」
「両親とは一緒に暮らしてないのか?」
「五歳までは一緒だったけど、それからは本家でジジイと一緒。でも昼間とか春奈さんがいたけど」
「なんで、本家に?」
「刀だから」
 那智はノートパソコンのキーボードを叩きながら、口にする。
 それだけしか理由がない。というように。
 だが、その一言だけでは皓弥にとってはよく分からないままだ。
「刀だと、両親と暮らせないのか?」
「いや、暮らせるよ。でも俺が本家で暮らしたいって言ったんだ。親といるよりジジイといたかったから」
「それは、人といるより刀同士でいたいってことか?」
「そう。たとえ親でも、俺にとっては違和感のある存在だし。ジジイがこの世で一番近いんだ。小さい頃はジジイの側にいると安心出来た。俺一人がおかしいわけじゃないって」
 この世には、見た目だけ似ているが中身は全然違う者ばかりが溢れていて。何処にいても違和感と疎外感だけが積もっていく。
 そんな世界で、たった一人の同類は那智にとってどれほど重要だったか。
(俺なんか、ちょっと人とは違う血が流れてるってだけで随分孤立した気持ちを味わってるってのに)
 この男は孤独に潰されずに、こうして生きている。
 まるで大したことなんてなかったというように。
「俺なんかまだいい方。刀なんて、主が死ぬと同時に死ぬことが多いから。次の刀が産まれた時にはいないわけよ。基本的に一本だけ。だからたった一人で産まれ育ったのがほとんど」
「きついな」
 皓弥は開いたまま、読んでいないページに目を落とした。
 文字の羅列をただ見つめる。
 親も親戚も、自分とは全く違う人間だなんて。
 皓弥には考えただけで嫌になる。誰に指をさされなくても、周囲が自分を「違う生き物」と認識することが出来なくても。
 自分が知ってしまえば辛い。
「……俺といるのは、きつくないのか?」
「皓弥といるの?」
「俺だって、ちょっと変わってるけど人間だ。一緒にいて違和感とか感じないのか?」
 顔を上げず、皓弥は問い掛けた。
 目を合わせて「辛い」と言われればいたたまれなくなりそうで。
 落ち込んでしまうのが目に見えていたから。
 自分でも小心者だと思うが、那智に関してだけ、拒絶されるのが怖い。
「嬉しいよ」
「え?」
 平気、大丈夫。なら分かるのだが。
 予測していなかった返事に、皓弥はちらりと那智を見る。
 パソコン画面から皓弥へと視線を移した那智と目があった。
「確かに皓弥は人間で、俺は人間じゃないから。違和感ってのはあるよ。俺は人間とは違うんだなぁって事実を感じさせるんだけどさ。他の人と違って、皓弥といるとそれが嬉しいって思う」
「なんで?」
「刀だと実感出来るから。刀だってことは、皓弥の役に立つってことだ。力になれる。人間じゃ、皓弥の力にはなれない」
 笑みを帯びた瞳は嘘、偽りがない。
 紛れもなく本心なのだと伝えられ、皓弥はそっと目をそらし溜息をつきたくなった。
 照れることも誤魔化すこともなく、那智はこういうことを言う。
 告白のような、睦言のような言葉。
 依存することを強固に拒む皓弥の隙をつくみたいに。
 緩やかに陥落させていく。
(卑怯……)
 那智が意図としてやっているのかは分からない。だが皓弥にしてみれば不意打ちのようなものだ。
「寝る」
 それだけ言うと会話を切り上げ、ぱたんと本を閉じた。
 借りた物なので、ベッドから出て机の上に置く。
 これが自分の物ならそのまま枕元に置いてしまう。本と添い寝することは気にしない。
「んじゃ俺も」
「調べ物か何かしてるんじゃないのか?」
「こんなの後で十分」
 那智は機嫌良くパソコンの電源を落とす。
 この男はなるべく皓弥と同じ時間に寝るようにしているようだった。
「一緒のベッドで寝るだけで十分だろ!」と皓弥は言っているのだが「少しでも長い時間側で寝たい」と真顔で主張してくる。
 何処の駄々っ子だ貴様は。と呆れられても平気のようだ。
 いい年した大人の行動ではない。
「何が嬉しいんだか」
 那智がベッドサイドテーブルにパソコンを置くのを確認してから、皓弥は電気を消した。
 照明が一気に失われ、視界は黒一色に染まる。
 脳内の想像と日常の慣れだけでベッドに進むと、布の擦れる音がした。
 手探りでシーツに入り込むと、ふわりと毛布に包まれた。
 那智の腕に抱き込まれ、体温が背中に伝わる。
 この瞬間だけは、身体が強張る。
 他人と触れる距離で横たわっているということを怖がっているわけではない。
 那智と生活をしてたった半年近くだが、馴染みすぎているくらいなのだ。
 側にいるのが当然のような錯覚すらある。
 傍らにいるだけなら、平気なのだが。
 こうしてベッドに入ると、あることが思い出されて無駄に緊張してしまう。
 那智は、自分に対して欲情することが出来る人間だ。
 そんなことはいつもは忘れている。
 だがこうされると、この指がどんな風に肌を愛撫したか、熱を煽らせたか。
 そして自分がどんな声を上げて達したのか。そんなことが蘇るのだ。
 なかったことにしてしまえればいいのだが。
「おやすみ」
 那智は後ろから皓弥を抱き、囁きながら耳の後ろにキスする。
 その声は明らかに甘く、皓弥はどうしていいのか分からず「おやすみ……」と小さく返すのが限界だった。
 絶対に襲わない。襲ったら二度とベッドに入れない。
 そう約束させている。
 破ったら問答無用で皓弥は那智を叩き出す。
 それを分かっているのか、不埒な動きは今まで一度もなかった。
 だが時折、那智はちらつかせるのだ。
 頬に触れる指先で、不意に絡まる視線で。
 愛おしいと。
 欲しい。と告げる。
 皓弥はそれに気が付かない振りをして、やり過ごしていた。
(いつまで、このままでいられるだろう)
 誤魔化しているような、先送りにしているような、とても不安定な形。
 もしくはこのまま不安定なものが定着して、変わらない形になるだろうか。
(このままがいいって、俺は我が儘なんだろうか)
 欲しがられているのは嫌じゃない。
 だが身体ごと那智を受け入れたときに変わってしまうものがきっとあるはずで。
 それがどんなものなのか分からず、皓弥は立ち止まってしまう。
(女だったらもっと楽に考えられただろうか)
 男同士じゃなければ、もっと簡単に那智に「いいよ」と言っただろうか。
(や、きっと言ってねぇな)
 自分の性格上、男だろうが女だろうが、同じ状況になっただろう。
 つまり、迷っているのは性別がどうのこうのより。
(そんな深いところまで、誰かに明け渡せるかって)
 服もない、理性もない。欲情して本能だけしかない自分を見せるのが怖い。
(こいつが欲しいのは、身体だけでも心だけでもないだろうから)
 きっと全てだ。
 皓弥は規則正しい呼吸を背後に感じて、目を閉じた。
 強張っていた身体もじきに弛緩して、眠気が訪れるだろう。
 結局那智に対しての警戒なんて長続きしない。すぐに飽きてしまうのだ。
 そうして添い寝も日常化してしまった。
(あーゆーのも日常化すんのか……!?)
 嫌なことに気が付き、皓弥は静かに落ち込んでいく。
(無理無理。あんなの。てかどんなのかよく分からんが)
 考えても気持ちは沈んでいくだけだった。
 早く眠りに落ちればいいのに。
 これ以上心を揺らす前に。



 


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