壱




 
 二月に入ったばかりの夜。
 見上げた空には星が散乱している。
 星座が確認出来るのではないかと思うほど、はっきり見えていた。
 真冬であることと、月がないおかげだろう。
 そろそろ深夜だな。と思いながら真上を見上げていると隣で小さく笑う気配がした。
「何だよ」
 皓弥はむっとして那智を軽く睨み付けた。
 自宅に向かう道にはさすがにこの時間、誰もいなかった。
 二人の足音だけが規則的に響く。
「いや、ちょっとだけ口が開いてたから」
 黒のロングコートに両手を突っ込んだ男は楽しげに言う。
「別に人の口が開いていようが、真剣に星を見ていようがどうでもいいだろうが」
「そうだけどね」
「だったらほっとけよ」
 口を開けたまま上を見ているなんて、小さな子どもみたいなことをしていたとは。
 皓弥はもう夜空は見ずに、視線を前に戻した。
 唇を半開きにするような癖ついていないはずだ。幼少期母によってみっともないから止めろと躾けられている。
 だが人間というものは真上を見る時は自然に開けてしまうものだ。
 別におかしいことではない。
(笑うようなことかよ)
 しかし笑われた居心地の悪さから、つい眉を寄せてしまう。
 それを見て、那智が笑みを深くしたことも知らずに皓弥は手に持っていたコンビニの袋を軽く振った。
「あんまり振ると炭酸抜けるって」
「俺の桃とアロエドリンクは炭酸じゃないからいい」
 皓弥は冷たく言い放った。
 炭酸なのは那智のチューハイだ。
「それどんな味だよ、桃とアロエを混ぜたヨーグルト風味って」
 コンビニで皓弥がそれを手にした時と同じ呟きを、那智は再び呟く。
 かなりの疑問らしい。
「飲んだら分かる」
「不味くても俺は飲まないからね」
 皓弥は新しい飲み物をよく飲んでいるが、失敗だとすぐに那智に手渡してしまうのだ。
 七割ほど残った微妙な飲み物を、毎回首を傾げながら始末する男は渋い顔をする。
 どうせ飲むなら美味しい物の方がいいに決まっている。
「配水管に流せって言うのかよ」
「自分で飲めばいいと思いますが」
 那智はまともなことを言うが、皓弥は「無理」と我が儘を平然と口にした。
 嫌なら初めから妙な物には手を出すな。と人は言うところだが那智は苦笑するだけだった。
 元々食に関して興味が薄い皓弥が関心を示しているだけでもまぁいいか。といったところだ。
「……那智」
 公園にさしかかったところで、皓弥は表情を険しいものへと変えた。
 背筋に走る違和感、肌がざわつくのだ。
 それはもうすぐ不快感になるだろうと予測出来た。
 隣の男は「うん」と短く返事をする。
 だが大して気にも止めていないようだった。
 もしかすると、皓弥よりも早くそれを察知していたかも知れない。
 しかし那智にとってそんな存在はいちいち意識を向けるほどのものではないのだろう。
 仕事でなければ、皓弥に関わりがなければ、気紛れでもないかぎり自ら手を出したりしないらしい。
「遠回りする?」
「いや……どうせ弱いだろ?」
「まぁね」
 公園の近くを通らずにマンションに帰るには、大分距離が伸びる。
 さっさと帰って新作の味見をして、とっとと寝たいのだ。
 もうすぐ時刻は午前一時になるのだから。
 昼より夜のほうが好きだが、生活リズムが狂うと大学が始まった途端に苦しむことになる。だから少なくとも午前三時までには寝ようと心がけていた。
「何も見ないで帰るなら、ね」
「え?」
 歩きながら、那智は意味深な言葉を零した。
 何のことだと皓弥は問い掛けようとして異質な空気に身体を強張らせた。
 鬼じゃない。そんな禍々しいものではない。
 だが人とは異なる気配。それが刃物のように尖っている。
 視線を彷徨わせながら、皓弥は気配の元を探った。
(何……?)
 危険だと本能は声を荒らげてはいない。だが緊張感が解けてくれないのだ。
 一体、これは何だ。
 大きな公園の入り口にさしかかり、ようやくそれを発見することが出来た。
 公園のグラウンドに一人の少女と思われる背中があった。
 五匹ほどの犬に囲まれて。
 ただの犬であっても危ないと思わせるような光景だ。
 しかしそれは、人を喰い殺すことだけしか知らない、鬼の成り果てだった。
「那智!」
 皓弥はコンビニ袋をその場に置き、名を呼んだ。
 手を伸ばすと、いつもなら即座に合わせてくれる掌がない。
「おい!?」
 何してる!と非難の眼差しを向けると那智はのほほんとコートからゆっくり手を抜きだしているところだった。
「いらないと思うんだけどなぁ」
「何言って」
 一般人があれだけの数に囲まれたら、すぐさま肉のかたまりになるだろう。
 断末魔の悲鳴など聞きたくない。
 焦れる皓弥の掌をそっと握り、那智は白い息を吐きながら「ほら」と目で少女を指した。
「えっ?」
 身体をバネのようにしならせて少女に飛びかかった犬の首が、ことりと落ちた。
 薄汚れた茶色の犬は、胴体と首が離れたことに気が付かず無様に地に倒れては痙攣している。
 よく見ると、少女の手には何か長い物が握られていた。
「刀……!?」
 細い刀身の、紛れもなく日本刀だ。
 街灯の鈍い光にも、美しく反射している。
 皓弥は呆然とそれを見つめた。
 この日本で、自分たち以外に町中でそんな非常識な物を振り回す人がいるなんて思わなかった。しかもそれで鬼を斬るなんて。
「那智、あれはおまえの親戚か?」
 指をさしたその合間にも、少女は犬を斬り捨てる。
 次々と向けられる牙をするりとかわしながら、確実に急所を狙っているのが、端から見ていてよく分かる。
「いや、そういうわけじゃないよ」
 驚いて固まったままの皓弥とは違い、那智はしらりとした、わりとどうでもいいというような顔をしている。
「でも」
 皓弥が戸惑いを色濃く見せていると、斬り捨てられた犬の死骸に怖じ気づいたのだろうか、一匹が少女に背を向けた。
 きゃん、と負け犬の悲鳴でも上げて逃げるのだろうかと思っていると。
 一心に駆けていく方向は。
「って、勘弁しろよ」
 真っ直ぐこちらに向かってくる。
 剥き出しの牙の合間からハァハァと荒い呼吸が聞こえてきた。
 殺意と言うより、食欲丸出しだな。と嫌気がさす。
「那智」
 再び名を呼ぶと、重ねられた手のぬくもりから堅い感触が伝わってくる。
 これがある限り、どんな生き物であってもこの身を奪うことは出来ない。そう確信出来た。
 生まれ出た柄を強く握り、皓弥は一気に引き抜いた。
 那智という名の、刀を。
「駄犬が」
 そして大きく飛び、前足で皓弥の肩を掴もうとしていた犬を見据える。
 すっと一歩前に出て、身体の向きを横へと変える。正面を狙っていた犬は直前で移動した皓弥の動きに対応出来ずに、そのまま何もない場所に着地しようとした。
 だが足が地に着く前に、刀が首をばっさりと斬り落とした。
 血が噴き出し、貪欲さを露わにした首が転がっていく。
 始末したそれを見下ろすと、何かの息づかいがまた耳に届いてきた。
「もういらんってのに」
 また一匹、黒い犬がやはり皓弥に向かってくる。
「俺は犬まっしぐらか」
 猫まっしぐらも勘弁だがな。と皓弥が溜息まじりに刀を構えると、犬よりも先に跳躍したものがあった。
 少女だ。
 背を丸めて大きく飛んだ少女は刃を下に向け、そのまま犬の身体に突き刺した。
 ぶすり、と鈍い感触が見ているだけで感じられる。
 ギャァンと高く異様な鳴き声を上げて犬が身をよじった。
 刀で身体を貫かれ、土に固定され必死に藻掻いている。空気を掻くように四肢を動かすが、開かれた口から血を吐き出すとびくりびくりと震え始めた。
 少女は長い黒髪が乱れるのも気にせず冷静な目でそれを見下ろし、刀をゆっくり引き抜く。
 とろりと流れ始めた血など気にも止めず、包丁で小魚の頭を落とすように。
 無造作に犬の首を斬った。
(忍者……?)
 一気に飛んで、重力とともに身体を落として目標物に刀を刺すなんて技を使う者に対して、皓弥は他のものを想像出来なかった。
 しかし口に出すのはどうかと思って心の中だけに留める。
 何だこの女。という視線を受けて、少女は凛とした立ち姿を見せた。
 今では珍しくなったセーラー服だ。膝丈のプリーツスカートに、黒のハイソックスとローファー。
 長く真っ直ぐな黒髪、大きな、だが目尻がすっと通った瞳。
 顔立ちは可愛いのだが、それよりも意志の強そうな眼差しに惹きつけられる。
 日本刀を持っているせいか、古風な雰囲気を感じさせる。
 少女はちらりと皓弥を見ると、くるりと背を向けた。
 あっさりと立ち去るのだろうか。皓弥は呼び止めて事情を聞いてみたい気持ちになったが、かける言葉がなかった。
 立ち尽くす皓弥など気にせず、少女は公園に戻り、近くのベンチに置いてあった物を手に取った。
 手提げ鞄らしい。革製で学校指定のような印象を受ける。
 そのまま何処かに行くのだろうかと思ってると意外にも少女は戻ってきた。
「久しぶり」
 鞄の中から小さな小刀ほどのサイズの鞘を取り出しながら歩いてきた少女は、ぶっきらぼうにそんな言葉をかけてきた。
「ああ」
 目を丸くした皓弥の隣で、気怠げに那智が答える。
「知り合いか?」
「ちょっとした」
 皓弥は那智の交流範囲など全く知らない。
 大学関係は当たり前として、仕事でどんな人と付き合いがあるのか、もしくはそんなものはないのか。そんなことすら分からない。
 鬼を斬ったこの場では、少女は仕事関係の人間なのだろう。
(若い)
 見たところ高校生だろう。
 こんな年でもあんな仕事するのか、と思っていると少女は鞘を刀の先に当てる。
(それは無理だろ!)
 十pほどの鞘で、少女の足ほどの長さがある刀身を収めようとしているのだ。
 どう見ても不可能だ。
 だが少女が刀身を鞘に収め始めると、するりと吸い込まれていくように刀身が収まっていく。
(その長さは何処に行ってんだ!?それはブラックホールか!)
 全力でツッコミを入れたい衝動を抑えている皓弥の前で、チンと鞘と鍔が軽い音を立てた。
 最終的に、少女の刀は手と同じくらいのサイズになってしまった。
「びっくりショー?」
 那智が皓弥ににやりと笑いかける。懐かしい単語でからかわれても、文句が出てこない。
(でたらめだな)
 那智といい、この少女といい。異様な仕事には妙な人間ばかり集まってくる。
「もしかして、主?」
 少女は皓弥を指さした。
 人を指すとは何だ、とやや気分を害する皓弥を気にせず少女は那智に問う。
「そう。主」
 那智はにっこりと答える。
「……いたんだ」
「いないと思っていたのか」
「信じてなかったわけじゃないけど、目にしてみると驚きね」
 まじまじと、珍獣のように眺められる。下から上までじっくりと。
 不躾にも程があるだろうと皓弥が眉を顰めるのも気にしないようだ。
「間違いないの」
「あるはずがない」
 断言する那智に、少女は呆れたような顔を見せる。
「何、そのだらけた顔」
「だらけてる?」
「殴りたくなるくらい」
「あ、そう?」
 那智はそれでもにこにことしている。
 すると少女は気味悪そうに一歩後ろに下がった。
「人格崩壊したの?別人みたいになってるじゃない。気持ち悪い」
 かなり引き気味の少女に、皓弥は那智を観察するが、いつもとあまり変わりはない。
 機嫌が良いな、という程度で人格崩壊を起こしたほどではないのだが。
「幸せですから」
「はぁ!?」
 何言ってんの。と少女の顔が言っている。
(そんなにおかしいか?)
 那智が幸せを語るのは、異常事態なのだろうか。
 皓弥はどうも首を傾げたくなる。
「まぁ、俺のことはいいよ。なんで春日がこんな所にいるわけ?」
 春日と呼ばれた少女は肩をすくめた。
「試験でね。この近くの大学に進学することにしたから」
「嘉林塚?」
 皓弥は自分が現在通っている大学の名前を挙げたが、春日は首を振った。
「あたしそんなに頭良くないし」
「実家にいなくていいのか。止める連中がいるだろ」
 春日は口元を歪めた。皮肉げな笑い方だ。
「今のトップはあたしよ。支配出来る人間なんてあそこにはいない」
「トップは行方不明だろうが。千堂家もこんなのばかりが刀を持っていたら苦労するだろうな」
「あんたのトコみたいに、小さい家には分からないでしょうよ。この面倒臭さが」
 突き放したような言い方をしながら春日は苦笑する。
 黙っていれば清楚な雰囲気があるのだが、口を開けば随分毒がきつい。
 なまじ美少女と言っても大袈裟ではない見た目のため、そのギャップはしばし混乱してしまうほどだ。
(てか、春日って名前なのか)
 話の筋からすると、少女の名前は千堂春日というのではないだろうか。すると那智はこの少女を名前で呼んだことになる。
(親しいのか?)
 ちらりと那智を見上げると、視線が「ん?」と尋ねるように向けられた。
「この辺りに住んでんの?」
 皓弥が喋る前に、春日はさっさと質問を繰り出す。
「泊める気はない」
「いらないわよ。ホテル取ってるし。もしこの辺に住んでるならここじゃないところに部屋を借りるの」
「ああ。すぐ近くだ。だからもっと遠い所に借りろ」
 那智は素っ気なく言い放つ。
 近寄るな、と言っているようなものだが春日は頷いて「そうする」と答えた。
 険悪ではないが、仲が良いとも思えない会話だ。
「仕事の範囲がかぶると、面倒でしょ」
 春日はそう告げると、二人のことなど気もせずに歩き出した。
 ひらひらと後ろ手に振って見せるのが、帰るという合図なのだろう。
 突然会って、そして突然去って行った。
「…誰だ?」
 小さくなっていく背中を指すと、那智は肩をすくめて見せる。
「千堂春日。女子高生だよ」
 聞いてるのはそういうことじゃない。というかそんなものは見たら分かる。
 だが皓弥が文句を言う前に那智は顔を寄せてくる。
 右手に柄を握っていることを思い出し、溜息をついた。
 重ねられた唇は、冷たい空気にさらされているのにふわりとあたたかい。
 馴染んだ感触だった。



 


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