ちゃぽん。 水音が風呂場に響く。 湯船に浸かっても足は出なかった。自宅の風呂では足を曲げて入っているというのに、この風呂ではそんな体勢になる必要がない。 檜風呂と呼ばれるだろう薫り高いそれは、皓弥の身体を湯で包み込んでは無駄な力を落としてくれた。 まだ暑い日が続く頃だが、湯に浸かり身体が温まると筋肉が弛緩して気持ちが良いのだ。 もっとも、筋肉より弛緩したがっていたのは頭だろうが。 『皓弥には刀がいるからね』 母はそう言った。確か中学生の頃だったと思う。 刀があるというのならば何故家には置かれていないのか、当時はおかしいと思っていた。 だが手元に置けない。そう帰って来た答えを素直に飲み込んでいた。 『私にはいなかったけど』 どうして母さんにはいないんだ? そう見上げてくる息子に、母は手に持っていたグラスを揺らした。 とろりとした琥珀色の液体がたゆたう中でカラン、と氷がぶつかった。 『巡り合わせが悪かったのね。こればっかりは仕方ない。私のせいじゃないし』 努力でどうなるものでもない。 母は切り捨てるように言った。 割り切っていることがよく伝わってきた。 『でも皓弥にはいる。だからそれを使いなさい。何より斬れる刀だから。あんたを守ってくれる』 へぇ、とその時は聞き流していた。 見たこともない刀を話をされても、実感などわいてこない。 『自分の身が砕けても。あの刀はそういう物だから』 まるで知り尽くしているかのような口振りだった。 持ったことがあるのかと聞くと『ない』と即答される。 『でも知ってる。とても近くで見ていたから。あれは……』 特別過ぎる、生きた刃物よ。 「生きた刃物って言うか……人間だろ」 母の言葉が蘇ってきては自分が置かれた立場を説明してくれる。けれど頭痛が増えるような気持ちになるばかりだ。 記憶を呼び戻すことを止め、皓弥はぐったりと縁に身体を預けた。 自分の身が砕けても、誰かを守る人間。 そんなものが本当に存在するのだろうか。 しかもそれだけ命をかけられたとしても、皓弥が返せるものなんてないのだ。守られるだけの存在でしかなくなるだろう。 「生き物として間違ってる」 刀がもし母が言うとおりのものであったとすれば、生物としては異常だ。 生きている限り自己防衛は本能に備わっているはずだ。 それが壊れているとしか思えない。 「……あー……」 なんでもっと詳しい情報を残してくれなかったんだ。といない母に文句を言っても仕方がない。 「持って帰るか、このままか」 自棄になってそう呟くけれど、那智の顔が思い浮かぶと途端に気が重くなった。 刀という人間。 あれが手に入る。 しかし所持したところで皓弥に扱えるものなのか。 犬猫ではないのだ。半分化け物だなんて言うけれど、どう足掻いても那智は人間だ。 「……もっと簡単な、手軽なもんはないのか」 そう呟きながら目を閉じる。 掌には那智から生まれてきた刀の柄の感触が鮮明に残っている。 馴染み、包み込むような安堵感をくれたあの刀。 もう他の物などいらない。 そう分かりながらも皓弥は溜息をついた。 「人間まではいらん」 紛う事なき本心は湯気に浮かんだ。 着替えはあらかじめちゃんと用意しておいた。 着慣れた服を纏ってから廊下を歩くとひたひたと音がした。 フローリングでは感じることのない微かな穏やかさがこの廊下にはあった。 タオルを首にぶら下げ時折髪を拭きながら、もう片方の手に握られている短刀の感触を確かめていた。 他人がいる場合では武器を必ず身につけていなければ落ち着かないのだ。 なのに馴染んだそれより、すでに那智の刀が懐かしく思える。 春奈に言われた部屋の襖を開けると、そこには刀の鞘が座っていた。 そして抜き身の刀も。 (これが同じものだって言うのか) 座っている男と、危ういほどに澄んだ刀身が同一であるなんて、とてもではないが頷けない。 漆黒の艶を帯びた半畳ほどの大きさをした足の短い卓が部屋の真ん中に置かれており、那智はその傍らでハードカバーの本を読んでいた。 本の表紙には『量子力学』と書かれている。 近くには救急箱が置かれていた。 「おかえり」 皓弥が部屋に入ると那智はすぐに顔を上げた。 「……学生?」 そのハードカバーは大学などで使う教材に見えた。 それに見た目の年齢からしても自分より上であるだろう。 「院生」 「理数系?」 「そう」 読んでいる本からして、学問の系統は明らかだ。 同時に自分には到底理解出来ない部類であることも分かる。 「俺には関係のない分野だな」 とすんと皓弥が腰を下ろすと、那智は救急箱を持って隣に座り直した。 「皓弥は何学部?」 「日文」 数字と向かい合うことは子どもの頃から向いていなかったのだ。なので大学に入る時に数学や物理というものからは遠ざかった。 しかしこれには那智の方が苦笑した。 「あー、俺駄目だ、そっち系。作者の心境を答えなさいとか言われても俺にはさっぱり分からないから」 那智は救急箱から薬らしきものを取り出した。そして指に出し、皓弥の腕に塗る。 丁寧に触れてくれることは見ていてはっきりと分かったのだが、それでもやはり痛い。 「大学に入ってから、そんな質問受けたことない」 文学の勉強、と言われると作者の心情を答えろなんて問題が出ると思っている人がいる。高校生や中学生の時にそんなテスト内容があったせいだろう。 「なら普段何勉強してんの?」 「文章の深読み」 作者の生い立ちから環境から経済状況から時代背景から、どうやってそれが生まれ作られたのか、探り出すのだ。 しかもそれが正しいかどうかの判定は誰も出来ない。 ざっくりとした皓弥の説明に、那智は声を上げて笑った。 「面白い?」 「たぶん」 「曖昧?」 興味が湧けば面白い。湧かなければ面白くない。 全て対象によるとしか言えない。 皓弥は答えに迷いながら自分の腕に巻かれていく包帯に、ぽつりと口を開いた。 「俺の母には刀がなかったのに、なんで俺にはあるんだよ」 何故自分だけなのか。 それは母を失った時からずっと心にわだかまりのようにして漂っている。 もし母にそれがあったのならば、死なずに済んだかも知れないと考えてしまうのだ。 「前の主が死んで、次に生まれた真咲の人間が皓弥だから。皓弥の母親が生まれた時には前の主が健在だったんだろ」 それは主は同じ時間に二人存在出来ない、ということなのだろう。 「主がいると、次の主は生まれないのか?」 「そう。そして刀は主一人につき一本だけ生まれる。主、刀の対はこの世には常に一つだけ」 「どうして、そう決まっているんだ?」 真咲の人間は一人だけ生きているわけではない。何人も複数生存している可能性が多分にあるのに。彼らの全てが守られることがないのどうしてなのか。 「さぁ?それは神様にでも聞かなきゃ分からないなぁ」 神様という見えない、感じられない観念的なものを口にされ皓弥は目を逸らした。 「あんたは神様を信じてるのか?」 すがりついても何もしてくれない。泣き叫んでも届かない。 そんな存在を有り得ると信じる強さも脆さも、皓弥は持っていない。 「神様?何ソレって感じ」 包帯を巻き終わり、那智は皓弥の腕から手を離した。 「皓弥は信じるの?ソレ」 「いや」 皓弥は緩く首を振った。そして虚空を睨み付けた。 「いらない」 そんなものに頼るつもりはない。不明なものに何を頼るというのか。そんな気持ちがあるのならば自分を叱咤した方が性に合っている。 那智はその言葉に吹き出すようにまた笑い出した。 「うん。いいね、いらないってこと。確かにいらない」 那智は気に入ったらしい、飲み込むと双眸を細めて同意している。 それは祈ることではなく戦うことを選ぶ者に見えた。 「生まれる前から決められているんだな。刀になることに」 「そうだね」 「嫌じゃないのか?誰かの刀になることがあらかじめ決められてるなんて」 自分であったのならば、嫌だ。 誰かのために自分の人生があらかじめ決められているなんて。誰かのために生きなければならないなんて、窮屈だ。 自分の命を自分のために使うことが出来ないというのは。かなり酷い束縛なのではないだろうか。 まして武士の主従関係などでもない。現代の、一般人に対して命を捧げる羽目になるなんて悲劇だろう。 「全然」 那智は皓弥の心配とは違い、あっけらかんと否定してくる。 「なんで?主って言ってもさっきまで見たこともない、全く知らない人間だろ?そんなのを守らなきゃいけないって、俺なら嫌だ」 「まぁ、子どもの頃は嫌だったかも知れないけど。でも大人になるにつれてそれが幸せだと思ってた」 「なんで?」 逆ではないだろうか。 子どもの頃はまだ限られた情報の世界にいるからともかく、様々なことを知るにつれて欲が増えるのではないか。 やりたいことをやりたいようにする。自分の望みを叶えたい、好きにしたいと思うものではないのか。 「守るものがある。必要としてくれる人がいる。それが確定されているから。そんなに嬉しいことは無い」 那智は心底そう思っているように、ゆっくりと丁寧に告げる。 染み込んでくる様な声音に卑怯だと、そう言ってしまいそうだった。 この男が言う「人」とは、自分なのだ。 貴方と言い換えられるようなものだった。 そんなに嬉しそうに微笑まれると、無下に否定することが出来そうもない。 「それが俺でも?」 大したところもない平凡な大学生。しかも同性だ。 良いところなんて我ながら見付からない。 見た目も中身も誇れる部分がこれといってなかった。情けないことにそれが皓弥の自己評価であり、おそらく周りも似たようなことを言うだろう。 「皓弥だから余計に嬉しい」 「あんた、俺の何を知ってんの?」 皓弥だからと言われ、つい癇癪のようなことを言ってしまう。後々こんな人だと思わなかったなんて恨み言を貰っても受け付けられない。 「何も」 「ならなんで嬉しい、だなんてことが言えるんだよ」 「側にいると嬉しいから」 は……?と声を零してしまいそうになった。 なんて感覚的な、朧気な答えだろうか。 もし明確な理由があったとすれば、間違いだと言うなり、言い返すなり、丸め込むなり出来ただろう。 しかしこんなことを言われればどうしようもない。 「意味が分からない」 皓弥は肩を落として諦めるようにそう呟いた。 初めから相手は自分の予測を軽く超えてくる。 「まぁ、そういう生き物だってことだけ知っててもらえれば十分だから」 (十分って言われても) よく分からない生き物を持って行けと昇司には言われているのだ。 分からないまま所持するなんて危険過ぎるだろう。 流せる問題ではない。 「あんた、本当に俺と一緒に来んの?一人で今まで仕事してきたんだろ?ならこれからも一人のほうがいいんじゃないのかよ。俺なんか一度だってまともにそういう仕事したことないのに」 「皓弥がこの仕事をするって言うならなおさら一緒にいなきゃな。危ないから」 足手纏いは欲しくないだろう。そう暗に告げるのだが那智はよどみない。 お手上げだった。 過保護にもほどがある発言だ。 親に言われるならばともかく、二時間ほど前に会ったばかりの人間に言われると言い返す言葉すら思い付かない。 「あんたは俺の親か何かか」 「刀だけど?」 「それはもう聞いたって……」 そういうことじゃないんだと解説した方がいいのか。もう投げ出してしまった方がいいのか。 会話がちゃんと成り立っていない。 げんなりしているといつの間にか那智は包帯を巻き終えていた。 「きつい?」 「いや」 ちゃんと血が通っていくのが分かる、かと言って包帯は崩れるようでもない。 綺麗に手当してくれたらしい。自分でやるより遙かに具合がよい。 「皓弥って」 那智は腕から皓弥へと視線を移した。 「人に触れられるの嫌いなタイプじゃない?」 「そうだけど……」 一体どこで察したのかは分からないけれど、那智の言ったことは事実だった。 たとえ手であっても、さして親しくない人に突然握られると一瞬で気分が悪くなる。 まして頭など撫でられた日には、払いのけるだろう。 出来るだけ肌は接触したくない。体質から来る警戒心でそうなっているのだろう。 「そっか」 那智は妙に嬉しそうだった。 合ったままの目まで和らぐ。 皓弥は多少居心地の悪さを感じ、視線を逸らしてから気が付いた。 触れられるのが嫌だと言ったのに、那智に腕を掴まれていること。 そして手当されることを拒否せずに受け入れていたことを。 「いい加減離せ」 ぶっきらぼうに皓弥が言うと那智は手をすぐに離した。 からかうかと思ったので少しの拍子抜けを感じたのだが。消えない笑みに居心地の悪さは大きくなる一方だ。 「なんだよ」 「何も〜」 言いたいことがあるのならいっそ言えば良いのだ。けれど那智は上機嫌でそんなことを言っただけだった。 救急箱を那智が片づけていると、襖の向こうから声がかけられた。 「失礼します」 すっと襖を開けて春奈はお盆を運んできた。 人が増えたことに正直ほっとした。 那智との会話をこれ以上どう続けていいのか迷っていたのだ。 「御飯ですよ〜」 両手を限界まで広げてようやく端を掴むことの出来る大きさのお盆には様々な料理が乗っていた。 「ありあわせで作ったので、こんなものしか出来なかったんですけど」 のほほんと言いながら春奈は卓の上に皿を置いていく。 「ありあわせ……?」 十品近い数に皓弥はまじまじとそれらを見つめる。 そのどれもが美味しそうな匂いを漂わせている。 しかし突然の来客にいきなりこれだけの品を作れるなんて、冷蔵庫にはどれだけの食材があったのだろう。 「お口に合うといいんですけど」 「あの……こんなに食べられないんですけど」 育ち盛りと言われても皓弥は元々胃袋が大きくない。こんなに並べられても全て平らげるのは無理だ。 有り難いとは思いながらも出来ないことは出来ない。 「俺もついでに食うから大丈夫だって」 ついでどころか半分以上食べて欲しいのだが。それは望みすぎだろうか。 「それにしても、こんなに……すみません」 皓弥が軽く頭を下げると春奈は手をひらひらと振った。 「いいえー。息子の主なんですもの。おもてなしさせて下さい」 「息子?」 春奈の口から似合わない単語が聞こえてきた。 「息子」 那智は自分を指さして見せる。 三十代にすらあまり見えない春奈を見て、皓弥は「は…ぁ」と間の抜けた声を上げた。 「お姉さんかと……」 「よく言われるんですよー。でも那智を生んだのは私なんです」 お恥ずかしい。と春奈は笑う。 不肖の息子が恥ずかしいのか、年を間違われるのが恥ずかしいのか分からない。 「そう、ですか」 「大概の方は嘘だと思われるんですけどねぇ〜」 「や、俺の母も見た目は若いままだったんで。十歳くらい平気でサバ読めたし。春奈さんみたいに」 嘘だと思いたいところだが、それを言うのならば自分の母親も年が不明に近かった。 皓弥が高校生になるまでは親子にしか見えなかったものだが。高校生になってからは姉弟と言われてもおかしくない光景だったらしい。人からたまに間違われていた。 「親戚ですものねぇ」 ぽやんと当然のように微笑む春奈に、皓弥は今度こそ驚いて硬直した。 「し、んせき?」 「そうですよ〜。血の繋がりは薄いかも知れませんが。なんせ主と刀は仲がいいですら。結婚したところも多くあるみたいで」 もうこれ以上の情報は止めてくれ、と皓弥は項垂れた。 知らないことを一気に教え過ぎなのだ、この家にいる人々は。 (親戚ってなんだ!?うちに親戚なんていないって母さんは言ってたぞ!?刀で親戚で、一体どうなってんだよ!) 「皓弥君?どうされたんですか?」 「何でもないです。ちょっと、自分の知らないことばかりだったもので」 せめて情報は小出しにして欲しい。後々衝撃的な事実をぶちまけられてもそれはそれで困るのか。 「きっと美鈴さんはこの家から遠い所で生きて欲しかったんでしょうね」 知らないことだらけの皓弥を見て、春奈はそう母の気持ちをくみ取ったらしい。 何故なのか、皓弥は顔を上げて無言で春奈に問うた。 それを受け春奈が浮かべていた穏和な微笑みは少しばかり陰る。 「誰だって子どもには穏やかに過ごして欲しいものです。自分がいる内はなおさら、我が身を張って守る代わりに」 いつまでも大きな、あったかい母の背中が蘇る。 命に代えてでも。 それを母は誓っていたかのようだった。皓弥を全力で守ってくれた。 だが母はもういない。 「ここに来れば、穏やかではいられないんですか?」 「はい」 春奈は笑んだまま肯定する。 しかし全ては遅いのだ。もう始まってしまった。 「でも母はもういません。そして俺はここに来てしまった」 引き返すところはどこにもない。突き進むしか残っていない。 自分の口で紡いだ言葉はそのまま我が身に刺さっていく。追い詰められた弱者であるのだと思い知るしかない。 「はい。あ、どうぞ召し上がって下さい」 沈んでいく雰囲気を溶かすように、春奈は明るい声で料理を勧めてくれる。 目の前に置かれた箸を取り、皓弥は吸い物に手を着けた。 始めは薄いと感じた味は、次第に口内を豊かな香りで満たしてくれた。 「美味しいです」 身体に染み入るような美味に喜びを滲ませて告げると春奈は「ありがとうございます」とまるで少女のような笑顔を浮かべた。 「……ここに来なければ、俺は穏やかでいられたでしょうか?」 もし一人で我が身を守れると思っていたのならば。ここに訪れずに必死に暮らしていたとすれば。 平穏は寄り添ってくれただろうか。 「皓弥君一人では、穏やかな生活というものは送れないでしょう」 予想出来る言葉だった。 こくんと吸い物を喉に流すと微かな苦みを感じた。 那智がすぐ隣に座り、同じように皿に手を着け始める。 男の存在に意識が奪われない自分を、皓弥はどう認めていいのか分からなかった。 次 |