五




 
 寝付きが悪いと不機嫌になっていたのは誰だ
 不眠になっていると溜息混じりに呟いたのは、熟睡できないと人に愚痴っていたのは誰だ。
「あー…腹立つ……」
 目を開けるとそこは見慣れない部屋の中だった。
 自宅では感じることのない畳の匂いがしている。ずっと絨毯とフローリングの暮らしだというのに、畳の匂いに懐かしさを覚えるのは何故だろうか。
 障子越しにぼんやりとした朝日が入り込んでいる。
 どこかから小鳥の鳴き声まで聞こえて、まさに清々しい朝だ。
(……おかしい)
 昨夜は布団に横になってからの記憶が綺麗に途切れている。
 食事に睡眠薬でも入ってきたのではないかと思えるほど、寝付きが良かった。
 薬が入っていたなら、食後三時間も経つ前に効いてくるだろうが。
 それにしてもあっさりと意識を手放し過ぎだろう。自宅以外でこんなにも安らかに寝ることなんて未だかつてなかったことだ。
 理解不能だと思いながら皓弥は身体を起こす前に手探りで枕元を探った。
 堅い感触を握る。
 短刀を掴んだはずだった。いつだって枕元にあったのはそれだったから。
 だが掌にあったのは抜き身の刀の柄。
 何度見ても美しいという感想が消えない。
 しかしいい加減鞘に収めておかなければいけないだろう。
 いくらなんでもこのまま持ち歩くことは出来ない。
「……重くないんだな」
 初めて持った時はあまりにも手に馴染む柄にばかり囚われていたが、金属独特のずっしりとした重みがないことに今更気が付いた。
 妙な刀だ。
 そう思って苦笑した。
 人間の身体から生まれてきていること自体おかしいのだ。
 久しぶりに怠さのない寝起きに多少違和感があったが、起き上がった。
 ここのところ身体が重いというのが当たり前になっていた。
 洗面所の場所は知っていた。風呂に入る時に見えたからだ。
 勝手に歩き回って良いものかとは思うが、顔を洗いたい気持ちに勝るものはない。
 着替えを済まし、誰にも会わず顔を洗いって元の部屋に戻ると春奈に声をかけられた。
「おはようございます。朝ご飯にしましょうか」
 朝から春奈は穏やかな笑みを浮かべている。
 その名前のように一年中春のような人なのだろうか。
「おはようございます、あの……那智さんは」
 刀を持ち、そう尋ねる。
 始終刀を持ってしまうのはもう癖のようなものだが、いくらなんでも抜き身であるのは色々とまずい。
 鞘だというのならば納めて欲しいところだった。
「練習してます。皓弥君も見てみますか?お仕事をするならきっとお勉強になりますよ?」
「練習?」
 春奈はその説明をせず「こっちですよ〜」と歩き始めた。
 ふわりふわりと歩く後ろ姿は年齢どころか体重も感じさせない。
 果たして那智はこの刀をどうやって自分に納めるのか。掌から出したのならば掌に入れるのだろうか。
「皓弥君は、剣道とかやってました?」
 春奈は振り返っては不意の質問してきた。
「小学校から高校に入るまでは、やってました」
「学校でですか?」
「いえ、近くに教えてくれる人がいて」
 皓弥は剣道場の張り詰めた空気を思い出した。
 自分自身を緊張で捕らえ、息苦しさのない束縛に自制というものを学んだ。
 それはこの朝によく似ている。
 心地良い緊張感だ。
「それならなおさら見るとおもしろいかも知れません」
「剣道をやっているんですか?」
 初めて会った時に那智も刀を振るうようだったので、剣道を習っていてもおかしくない。
「竹刀を持っているというところは一緒ですね」
 それは奇妙な言い方だった。竹刀を持っていてもやっていることは剣道ではないというのか。
 疑問に思っていると春奈はとある戸の前で足を止めた。
 木目の鮮やかなそれは引き戸になっており、道場の入り口だと思われる。
「そっと入って下さいね」
 春奈は子どものように唇の前に人差し指を立てた。まるで悪戯を仕掛けようとしているかのようだ。
 そして戸に手をかけて静かに横へと滑らせる。
 朝日と風がそこから溢れてきた。
「足音を立てるのも、我慢ですよ」
 我慢出来るものでもないと思うのだが、と皓弥は心の中で突っ込んだ。
 春奈に続き、その空間に足を踏み入れる。
「………」
 肺を押し潰される感覚が一気に襲いかかってくる。
 肌に刺さるような空気。同じ部屋にいるというだけで、見えない何かに牙を向けられているようだった。
 中では那智と昇司が向かい合って竹刀を構えていた。
 二人とも袴姿の稽古着だ。
 睨み合い、微動だにしない。
 隣にいるはずの春奈の存在も掴み取れないほど、二人が放っている威圧感に飲まれる。
(一体何だ、この雰囲気は)
 横に視線を送りたくとも動くことは許されなかった。
 チチチッ、と鳴き声と共に羽音がした。道場に接している庭にいた小鳥が飛び立ったのだろう。
 水が少しずつ流れている音もする。
 ほんの十数歩先にある庭は平穏な様子だというのに、ここには殺気が満ちている。
 隔絶された世界であるかのように見えない壁が作られているのだ。
 呼吸が呆気なく乱れていくのが自覚出来た。
 落ち着け、と自分に言い聞かせても指先から冷えていく。
 怖い。逃げたい。
 ここにいたくない。
 殺される。
 恐怖に捕らわれた心がずっとそう声を上げていた。
 あの二人の目はまさに刃物で、それを向けられれば容易に手足が切り落とされるだろう。
 そして竹刀が動いた瞬間。
 この首は斬られているのだ。
 柄を握る手が強張った。しかし腕を上げることも出来ない。
 鼓動がうるさく、耳の奥で反響している。
 窓からざわりとひときは大きく風が吹き頬を撫でた。それがまるで見えない者の手のように感じ、ぞくりと走った恐怖に膝がかくんと折れた。
 そこで初めて膝が笑っていたことに気が付いた。
「皓弥」
 那智はこちらの動きを肌で察したのか、昇司と向かい合うのを止めた。
 目が合うと、無機質だったそれは途端に色彩を帯びた。
「ぁ……」
 思わずほっと脱力したが、立ち上がる気力はなかった。
「馬鹿者」
 昇司が顔をしかめて竹刀で那智の頭を軽く打つ。
 真剣に試合していたというのに放棄されたことに苛立っているのだろう。
「った、何すんだジジイ」
 文句を言いながらも那智はそれ以上構える気はないと宣言するように竹刀を放り投げた。
 からんと床に竹刀が落ちる。雑な扱いだ。
「途中で投げ出すな」
 そう言った昇司は竹刀を那智に投げつけた。
 しかしながら那智には当たらず、まるで初めから狙っていたかのようにすでに転がっていた竹刀の横に着地している。
「ジジイも投げてんだろ」
「途中ではない」
「あっそ」
 ガキですかあんたは、と言いながら那智は皓弥に足を向けた。
 足音もなく、近寄ってきたそれに安堵の息を吐いた。
「あてられた?」
 それは皓弥の状態の正しく表していた。
 ただその場にいたというだけで威圧され、恐怖に沈みそうだったのだから。
「……一体なんなんだ、あんた」
 人間が持ち得る空気だとは思えなかった。
 どれほどの力を持った人であっても、肌に突き刺さる殺気を出せるとは思えない。まして本当に殺し合っているわけではない、稽古なのだ。
 なのにあれだけの圧倒的な空気など出せるはずがない。
「化け物、かな」
 那智はにやりと笑う。
 そこに皮肉な色はない。
「少なくても人間ではない」
「だろうな」
 皓弥は俯いて、首を振った。
 身体の奥はまだ恐ろしさに震えている。
 深く吐いた呼吸は強張っており、まともに肺に酸素が送られている気がしない。
「……あんたが俺を殺そうと思ったら、一瞬だな」
 こんなにも強く自分の無力さを感じたのは初めだった。
 指一本動かすことなく死を察したのも。
 どんな鬼が来ても逃げることを諦めたことなんてなかったのだ。だが那智が相手では硬直して終わりだろう。
「俺は皓弥を殺さない」
 真面目に那智は否定してくる。誓いのような言い方にこの男は自分に対してどれほど強い思いを持っているのだろうかと考えてしまう。
 だが問いかける勇気はなかった。
「実力の問題だ。あんたの気持ちを抜きにして考えたら、俺は身動きも取れずに死ぬだろ?」
「ああ、それなら」
 本当に一瞬だろうなぁ。と那智はのほほんと言った。
 二人が竹刀を構えているのを見なければ、皓弥はそれを屈辱だと受け取っただろう。
 見くびるな、と怒鳴るところだ。
 だが見てしまった以上、納得するしかない。
「なるほど……なぁ」
 皓弥は乾いた笑いが込み上げてくるのを止められなかった。
 目の前で鬼を斬る母を何度も見た。それは母の強さを息子に知らしめるに十分な光景ばかりだった。
 だから鬼を軽く斬り捨てていた彼女が殺されたなど、信じられなかった。
 しかし今、現実に直面したのだ。
 母より、自分などよりもっと強い生き物がいるのだと、思い知らされた。
(道理で殺されるわけだ)
「俺も死ぬな」
 仕事をするなら、そう遠くないうちにそれは訪れる。
 はぁ、と深く息を吐く。絶望は訪れなかった。覚悟なら腐るほどしている。
 死ぬ危険というのは生まれた時から常に寄り添ってきた。だから今更でもある。
「力が欲しくない?」
 甘く誘いをかけるその声に皓弥は顔を上げた。
 微かに笑む那智は抗いがたいほど柔らかな色の瞳をしていた。
「俺が欲しくない?この刀に背中を預けたいと思わない?」
 ぐらり、と意識が揺れた。
 この男は自分を知っている、そう感じた。
 守られたいとは思わない。庇護なんてされたくない。
 だが無防備になる背中を安心して任せられる存在は切望していた。
 たった一人で生きていく意志を持った時から、それに反するように求めていた。
 鬼相手でも引けを取らない、むしろあっさりと凌駕するであろう那智はまさに理想だった。
 本来なら頼み込んででも手に入れるはずだ。
 それが今、目の前で返事を待っていてくれる。
 手を伸ばして、皓弥の返事を求めてくれている。
「俺が欲しい?」
 皓弥は目を閉じた。
 しなやかな糸のようなものが四肢に絡みつく。
 心地良い拘束。
 退けられるはずがない。無下に出来るはずがない。
 こくり、と機械仕掛けの人形のように頷いた。
 すると間近で「良かった」という声が吐息で聞こえた。
 本当ならばそれを呟くのは皓弥であるはずなのに。どこまでも奇妙な男だと、そう心の中で呟いた。



「俺が貰うけど、でもこんなの持って歩けないから。あんたにとりあえず返す」
 それじゃ御飯にしましょうね。そう春奈が言うと四人はだらだらと廊下を歩いていた。
 春奈と昇司が前を歩いている。
 皓弥は相変わらず抜き身の刀を持ったままであり、そろそろ持っているのが当然であるという錯覚に陥りそうになっていた。
 だがそんなことが許されるのはこの家にいる時だけだ。
 なので那智に柄を差し出した。
「どうやって中に収めんの?」
 出した時のように掌に埋めるのだろうか。
 それとも那智が自分の刀を収めた時は軽く上下に振ると水のようにぐにゃりと溶けて、掻き消えた。
 そのようにするのだろうか。
 皓弥が尋ねると那智は何やら意地悪く笑った。
「聞きたい?」
「ああ?まぁ」
 なんだその笑いは、と思いつつ手招きされたので顔を寄せた。
 納め方が分からないのならば簡単に出してくれと言えないだろう。
 せっかく鋭利な刀があるのだからちゃんと使いたい。 「簡単なんだけど」
 那智は愉快そうにくいと唇を寄せてきた。何の躊躇いもない、ごく自然な行為であるかのような仕草だった。
 驚いている間もなく、ふわりとあたたかいものが皓弥の唇に重ねられる。
「これでこの刀は収まる。皓弥が主だから俺が手に持ってても収められないんだよねぇ」
 皓弥は表情を硬直させたまま、数秒を過ごし瞬きをした。
 そしてさっきまで握っていた刀がなくなっていることを、手を開いたり閉じたりすることで確認する。
 幻であったかのように影も形もない。
「舌入れる必要はないから、そのあたりは大丈夫」
 にこにことご機嫌の那智を、皓弥は目で殺すようにきつく睨み付けた。
 針金のような視線を受けても刀は動じない。
「おまえ、最悪っ」
 唸り声のような言葉が口から零れてくる。しかしその口にはまだ那智の感触が残っているのが忌々しい。
「ん?」
「んな手間かかる刀なんざいるか!!他の出して来い!」
「やー、これ以上斬れて機能的な素晴らしい刀はないなぁ」
「低機能過ぎだこのボケが!!」
 蹴りを繰り出す皓弥をすらりと避けて那智は「あは」とわざとらしく笑った。
「すっかり仲良しですね」
 それを眺めてほやんと笑う春奈に、昇司は何やら違う気がするが、と呟いた。



 


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