参




 
「何故、刀の主が真咲になったんですか?別に利害関係の一致だけなら刀なんて渡さなくても」
 那智はお茶を三つ並べた後、皓弥の隣に座った。
 そして救急箱の中から消毒薬を取り出している。それを気にしながらも皓弥は話を続けた。
「刀は蓮城にとって己そのもの。それを差し出すことによって君たちの信頼と愛情を得たいと願った。それに、この刀より斬れる物は他にはない。真咲を守るために最も安心出来る物だ」
 まるで求愛行動のようではないか。
 我が身を差し出すなど、正気の沙汰とは思えない。
「…それほど、好ましいのですか?って、自分でやるからいい!」
 消毒薬で濡らしたコットンを傷口に当てられ、皓弥は肩を跳ね上がらせた。
 自分でやれと、途中から渡してくれるのかと思っていたのだが。いきなり手当をされて悲鳴に近い抗議を投げる。
 それに腕から痛みが走っては皓弥の眉を寄せさせた。
「片手じゃやりにくいだろ?やらせてくれって」
 やりにくいことはやりにくい。だからといって他人に任せるのも気が引けるのだ。
 出来ればお断りしたい、と悩んでいると昇司が微かに笑った。
「君の世話が出来るのが嬉しいんだろう。下僕だと思ってくれればいい」
(下僕って……)
 生まれてこの方下僕を持ちたいと思ったことはない。そんなことを望む者がいると思ったこともない。
 しかし那智は昇司の台詞を否定せず、手当を続行していた。
「惚れた方が負けということだ」
 昇司の言葉に、那智は「そうだ」と言うように笑った。
 惚れた、などということは自分に向けられたことのないものだ。からかわれているのは分かるのだが、どう反応していいのか困る。
「刀が欲しい、ということは。君は美鈴さんの跡を継ぐつもりなのか?」
「一応、その形になります」
 常人には決して言えない。信用しても貰えないような仕事を母は行っていた。皓弥はそれを引き継ぐつもりだった。
「美鈴さんは承知した…はすがないか」
 昇司は溜息混じりに告げた。もし母が生きていたのならばどうしただろうか、想像出来るのだろう。
「母は死にました。仕事中に殺されました」
 皓弥は初めて他人に真実を語った。
 他の人にはずっと事故だと言い続けていたのだ。
 信じてもらえるはずがないことだからだ。だからずっと嘘をつき続けた。
 そしてそのことに慣れてしまったのだろう。
 真実を告げたというのに舌先が震えるようだった。
 強張る皓弥の声に対して昇司は刀を見下ろし「そうか」と言った。それは酷く重々しく、沈黙を呼び寄せてはしばらくじっと、皓弥の刀を見下ろしていた。
 深く陰った瞳の色がそこにあり、悼んでくれているのだろうとは感じられた。
 母を悼んでくれている人がいる。そう思うだけで皓弥は恋しさと掻き立てられる。失いたくない人を失ってしまったのだと突き付けられる。
「復讐のためか」
 昇司は静寂を背負ったまま、唸るようにそう尋ねてきた。
「……いえ。母はいつかこうなるだろうと俺に言っていました。覚悟してくれ、とも。だから俺は」
 諦めていた。皓弥はそう乾いた声で口にした。
 何度も何度も繰り返し自分に言い聞かせたことだ。毎日それは皓弥の中を巡っては泣き叫ぶ声を押し殺してきた。
 しかし刀から目を上げた昇司は問い掛ける。
 それは本音か。と。
「刀を求めたのは、母を殺すような鬼がいるからです。俺は母に技量はまだ及びません。そいつに会えばすぐに喰われるでしょう。だからせめて刀だけでも良いものをと」
 刀を求める理由をつらつらと並べ立てる。それはここに来るまでに用意していたものだ。
 だが昇司の視線に含まれている問いから逃げる気持ちも少なからずあった。
「化け物に関わるような仕事をすれば、その鬼に出会う確立も上がる。化け物から遠ざかり、平穏な生活を送った方が身のためだろう」
「金が必要です。あの仕事なら生活に困らないだけの金が入るでしょう。父は俺が物心付く前に死に、母は月に一、二度しかあの仕事をしませんでしたが生活が困窮したことは一度もありません」
 この年で金を欲しがるというのは、少し前までの自分ならば有り得なかっただろう。物欲が強いとは、自分でも思えない性格だった。
 けれど一人きりで生きていかなければならない、と現実を見つめた際にはまず確保するのは金だと思った。
 多ければ多い方が良いと。
 だがそれもまた作り出した言い訳の一つにしか過ぎない。
「危険だからだ。表沙汰に出来ないことばかりを扱っているから多額の金が入る。美鈴さんが亡くなったのなら、保険金があるだろう」
「葬儀、墓の関係でだいぶ減りましたし、あの金にはあまり手を着けたくありません」
「何故」
 まだ追求される。どこまで迫られるのか。
 鋭い眼光の前で皓弥は秘め事を抱えたまま、最も自分にとって有利な方向を模索する。
「……母のために使いたいので」
「美鈴さんは君のために使ってもらいたいと願っている。そうは思わないかね?安全に暮らして欲しいと」
 皓弥は頷いた。
 母ならばそう願う。安全を、何の不安もなく暮らしていける日常を一番欲しがっていたのだ。
 だが皓弥はあえて緩く首を振り直した。
「そう思っていただろうことは分かっています。でも、もう俺は一人ですから。一人で生きていきたい。大学の学費のためにもあの仕事が必要です。バイトをしても金額は知れています。それに俺は大学で学びたいことが多くありますから、バイトで時間を取られるのが正直嫌です」
 学校という仕組みが面白いと感じたのは大学に入ってからだ。
 それまで強制される勉学に嫌気が差していた。けれど大学では欲しいものを自分で選んで吸収出来る。
 好奇心に貪欲でいられるのだ。それが皓弥にとっては心地良かった。
 しかし真っ当なバイトをしない原因がそれで納得されるのかどうかは断定出来ないだろう。
「うちが学費や生活費を全て払おうか。そうすれば君は仕事をせずに勉学に勤しむことが出来る」
「俺は、たかが二十ですが成人しています。他人に養ってもらおうという気にはなれません。自分で稼ぐことが出来る内は自力で生きていきたいんです」
 強がりだと思われるだろう。だが皓弥は思っていたことをそのままぶつけた。
 昇司が、世間そのものであるかのように。
 揺るぐことも、飲まれることも、望まない。
 ここで立ち、自分の力で歩ける。そう宣言した。
「そうか」
 昇司は笑みを浮かべた。
 祖父というものに皓弥は会ったことがなかった。生まれた時にはとうに亡くなっていたからだ。
 だがきっと優しい目をして子孫を見つめるものなのだろうと思っていた。
 それが今まさに自分に向けられることが不思議だった。
「嬉しそうに笑うな、気味が悪い」
 昇司は不意に自分の孫を見て顔をしかめた。
 気味が悪いと罵られても那智はただ嬉しそうだった。
「自衛のためだと言うのなら、なおさらそいつを持っていくのがいい。側にいる限り何があっても君を守るだろう」
 信じるべき根拠は相変わらず何一つ提示されず、皓弥は「はぁ」と曖昧な返事をする。
 持って行けと言われても人間の形をして意識もしっかりあるというのに。物のように扱えるはずもない。
「美鈴さんは、何処から仕事をもらっていた?」
「荻野目さんからだと思います……母は俺が仕事について詳しく知ることを嫌がっていたのでよくは分からないのですが」
 あの仕事が危険極まりないことを知っていただけに、母は息子にそれに関わることを良しとしなかった。なので出来るだけ隠していた。
 それが息子のためであると思っていたのだ。
「荻野目か。あそこはうちを嫌っている組織だが、荻野目自体は使える人物のようだし、引き抜くか」
「化け物退治に化け物の手など借りるかって言った組織にいるやつだろ?こっちに来るのか?」
「上昇志向があるならな」
 祖父と孫は、皓弥の分からない話を繰り広げ始めた。
 驚いたことに荻野目を知っているらしい。その業界では有名な人なのだろうか。
「組織って?」
 ものすごく基本的な質問だと思いながら、皓弥は尋ねた。そこを聞かなければ一切のことが理解出来ないからだ。
「化け物退治の組織。荻野目が所属している所は、人間が化け物を退治することを誇りとしてる所でな。俺みたいな化け物の手なんて借りるのはおぞましいそうだ」
 那智は皮肉げな笑みを浮かべた。
「へぇ……」
 知らなかったと皓弥は呟いたが、それを言うならば何も知らなかったの方が正しい。自分が見ることの出来ない世界で母は戦っていたのだ。
「荻野目ごとこっちに移れば楽だろう。共に仕事が出来るから」
「へ?」
 皓弥は今耳にしたことを理解する前に、妙な声を上げていた。
「そうだな。あの組織に忠誠を誓っている部類の人間とも見えなかった。こちらのほうが居心地が良いかも知れぬな」
 昇司も何やら頷いている。
 話がとんとん拍子に進行しているのだが。皓弥はそのどの部分に組み込まれているのだろうか。とんでもない事態へと変化してはいないだろうか。
「あの……共に仕事って」
「皓弥と俺が一緒に仕事」
 那智はにっこりと笑った。どうもこの男がにこやかに笑うと驚愕させられることを言っている気がする。
「なんで!?」
「始めのほうは一緒に仕事しなきゃ、段取りとか仕組みとか分からないだろ?それに主がいるなら主と共にいるのが刀だ」
 疑問の声が上げられていることが不可思議であるかのように、平然と那智は喋っている…
「今までは一人でやってきたんだろ!?」
「皓弥がいなかったから」
(おまえの世界は俺が中心か!)
 ついそう叫びたい衝動にかられる。
 出会ったばかりではないか、何故こんなにも全て情熱的に縛り付けようと、いや縛り付けられようとしているのだ。
「まぁ、試しにしばらくはやってみるといい。その方が色々安全だ。これは腐っても刀、君の役に立つだろう」
「腐ってねーよジジイ」
「くそガキが何を言う」
「ジジイのほうがとっくに腐ってんじゃねーの?七十近く生きてんだから」
 祖父と孫の応酬の中で七十という年を聞き、皓弥は改めて昇司を見た。
 五十くらいにしか見えない。髪の毛には白い物が随分混ざっているけれど、顔立ちやら正座している姿は生気の溢れている。
 艶すら持っている老人は、その視線を感じてふっと微笑んだ。
「君が那智を受け取るということを前提として話をしているが、良かったのかな?」
「あ、いや……あの」
 良かったのかと言われても、刀自体は欲しいが那智本体を貰うわけにはいかない。
 鞘がこれしか無いと言われて、途方に暮れている真っ最中なのだ。
 しかしどう伝えて良いものか。素直に言えば気分を害してしまいそうだ。
「嫌ならそう言ってくれ。那智はこちらで処分しよう」
「処分かよ」
 昇司の冷たい一言にも那智は昇司にだけ文句を言っている。自分の意見を露わにしない皓弥には笑みを向けるばかりだ。
「そう言われましても。俺はここに刀だけを頂きに来ましたので、人まで付いてくると思ってなくて」
 すぐには答えられない。と皓弥は言葉を濁す。
「尤もだな。答えは急がんよ。そこのガキは今か今かと待ちわびているようだが」
「うっさい」
 皓弥が刀に視線を落とし口を閉ざすと、再び沈黙が流れた。
 呼吸する音まで響くような空間。しかし威圧巻や違和感などはなく、皓弥はさしたる居心地の悪さもなく座っていた。
 二人の空気がそれを許してくれているのだろう。
 受け入れてくれているのだ。
 それが有り難いとは思うけれど、身の振り方に迷っていると遠くから微かな足音がした。
「失礼致します。お風呂の準備が整いました」
 すっと静かに襖が開けられた。
 女性が一人、開けられた廊下に膝を突いている。
 那智にとてもよく似た、だがずっと柔らかな顔立ちをした人だった。
 年は二十後半から三十手前といったところだ。
「皓弥君、泊まっていきなさい」
「いえ、泊まるところはちゃんと取ってまして」
 笑顔で宿泊を勧められたのだが皓弥はすでに宿を取っている。自分が暮らしている場所からも遠く、まして刀の交渉をするのならば日帰りは無理だと判断したからだ。
「何処に?」
 問われて予約した一つの旅館の名前を挙げると、その場に居た皓弥以外の三人が「遠いなぁ」という顔をした。
 土地勘のない皓弥はその表情に不安を覚えた。
「どれくらいですか?」
「歩くと一時間かかるだろうな。タクシーもこの辺は通らないし、バスもない」
 那智の答えに皓弥は内心、げっと呻いた。
 一時間も歩くなんて勘弁して欲しい。人通りのない道だと思ったけれど、タクシーもバスもないのか。
(そういえばここに来るまで車もなかったな)
 人通りがないのは夜だからと思っていたけれど、車すら一度も通らなかった。
「部屋にお布団敷いておきますね。御飯も食べますか?」
 女性は恐らく那智の姉だろう、ふんわりとした声でそう尋ねた。
「いえ、お構いなく」
 至れり尽くせりと言えるような待遇に皓弥が恐縮すると、くすくすと小さく笑う。
「嫌いなものがあったら教えて下さいね。お風呂から出る頃には出来上がっているように作ります。和食で良いですか?」
「あの、本当にいいですから。そこまでして頂くわけには」
 歓迎されても困る。
 いきなり刀をくれと言いに来た無礼者なのだ。事前に連絡もしていない、連絡方法が分からなかったので仕方ないのだが、そんな状態なのに世話を焼かれるなんて居たたまれない。
「那智の主ですもの、おもてなしさせて下さい」
 そう言って静かに女性は腰を上げる。
 主というのはもう決定事項なのだろうか。
「あの、蓮城さん!」
 制止しようとした声をかけ、皓弥ははたと気が付いた。
 三人ともの視線を一気に集中させたことに。
 ここには蓮城という名前の人しかいないのだ。
「あー……」
 しまった、という顔する皓弥に女性は「春奈です」と言った。
「おなか空いてませんか?」
「そうじゃなくて……てか空いてますけど」
 もうどれだけ遠慮しても押し切られる気がして皓弥は開き直った。
 すると春奈は微笑んだ。先ほどよりずっと優しげだ。
「たくさん作りますからね」
 そう言うと「失礼します」と言い残して去っていった。
(たくさん作られても……)
 今度は完食しないと失礼だろうなという重圧がのし掛かってくる。
「ご迷惑じゃないでしょうか?」
 皓弥は昇司に訊くが、帰ってくる言葉は「迷惑なはずがない」というものだった。
 知り合ったばかりの人だというのに、蓮城の人間は旧知であるかのように扱ってくる。
 人を見たら距離を置いて警戒しなければならない。そうして生きてきた皓弥にとっては困惑するばかりだ。
「……皓弥君」
 昇司は何やら畳に置かれた刀をじっと見つめていた。
「これを返してもらってもいいか?」
 昇司は唐突にそう言って脇差しに触れた。
 鞘をそっと、愛おしげに撫でる。まるで誰かの髪を撫でているようだ。
 黒く塗られた柄と鞘。
 それは一見何の装飾も施されていない、ただ漆黒だけであるかのように見える。
 しかし光の加減により、鞘には銀が浮かび上がってくるのだ。
 鞘の先端から中程にかけて流れるように銀の雪が降り注ぎ、二輪の椿に積もっていく。
 冴えた光景が刻まれていた。
「無理にとは言わないが」
「あ……はぁ…刀を頂けるなら…。でもそれは母の物でして」
 母が仕事にずっと使っていたものだ。遺品に近い。出来れば母のためにも残していたいのだが。昇司の瞳が寂しげで、何かの思い入れを感じさせて言い出せなかった。
「昔、儂が雪嗣にやったものなのだよ。この短刀は美鈴さんに」
「え?」
 やったと言われ皓弥は改めて脇差しを見る。
 ずっと我が家に伝わっている物か何かだと思っていた。だからこそ鬼が斬れるのだと。しかし実際は鬼を喰らう家が作り出したからなのだろう。
「雪嗣がいなくなった時、自動的にこれが美鈴さんに、短刀が君の物になったのだろうな」
「何故、祖父にこれを?」
 この人は祖父にどれたけの関わりがあるのか。しかし祖父を知っていたとしても母は何も言わなかった。
 蓮城というあまりに特殊な人間たちと関係があるのならば少しは皓弥に零していても良いようなものだが。
「あれが儂の主だったからだ。少しの間だったがな」
 昇司は脇差しを手に取った。
 懐かしむような、焦がれるような瞳だ。どうしてだかは分からないが、見ているだけで呼吸が止まるような感情が深さがある。
「主……」
 祖父もそうだったというのか。
 しかし見たこともない祖父に自分の状況を伝えて、相談するわけにもいない。それ以前に真咲と蓮城がしっかり関わりを持っていたのかと思う。半信半疑だったのだ。
 自分の知らない情報ばかり与えられ、次第に情報を整理することに時間が掛かり始めた。
 正直訳が分からないと言って一端投げ出したくなっている。
「まだこれが必要ならば、君の元に置いておきなさい」
「いえ、それは」
 昇司は畳に置き戻そうとしたが、皓弥がそれを止めた。
「お返しします。俺にはこれの方が手に馴染んでいますし」
 皓弥は短刀を手に取った。
 本当は脇差しもあるほうが安心出来るのだが。そんな身の保身を忘れさせるほど、昇司の瞳に宿った思いは深かった。
 事情を何一つ知らないのに、切なさを感じさせられるほどだった。
 きっと祖父との間に思いがあったのだろう。
「…有り難う」
 昇司は静かな声音で告げると、脇差しを膝に置いた。その重みに深い息を吐き目を閉じた。
 そこから声が聞こえてくるかのように。



 


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