静まり返った夜道に聞こえるのは二人の足音だけだった。 人家もなく、街灯だけが立ち並んでいる。 夜も更けている。あまり住宅地とも言えない場所ではこんな時間になると人も通らないものだろう。 ここに来るまで心細さに萎縮していたものだが、一歩先を歩く人のおかげでは今は紛れている。 それでもこれからどうなるのだろうかという不安は募っていたが。 「荷物」 皓弥は抜き身の刀を持ちながら、もう片方を那智に差しだした。 その肩にぶら下げられているのは、皓弥の鞄なのだ。人に持って貰う物ではない。 「持つって」 「いい」 那智の返事に少しばかり驚いた。いい、と言うべきなのは自分であって那智ではないだろう。 「重いでしょ?」 「俺の荷物だ」 重かろうが軽かろうがそれは自分の荷物だ。 言い続けると那智は苦笑して、鞄を渡してくれた。 ずしりとした重みを肩に掛けて皓弥はほっとした。 中に入っているのはこれまで自分の命を守ってくれた脇差しが入っている。 この鞄をもし奪われれば途方に暮れてしまうところだった。 まだ那智を信用すると決めたわけではないのだ。 「この刀、本当に俺がもらっていいのか?」 握ったままの柄を見せて問いかける。 果たして人の掌から出てきた物に値段が付けられるかどうかは分からないけれど、もし付けられるのならばかなり高価な物だろう。 それをあっさりと人手に渡して良いものなのだろうか。 「皓弥以外が持つことは出来ないからな」 「どうして?」 まるで所有が初めから決まっていたように語っている。会ったばかりだというのに、この男はどうして何もかも決定されていたことのように話しているのだろうか。 「俺が許さない」 「なんで?」 「俺はそういう生き物だから。主以外に自分を委ねることなんて出来ない」 (全然、理解出来ないな) 那智の言っていることは謎だらけだ。 何から尋ねれば自分が納得出来る答えが返ってくるのか、もしくはそんなものは那智からは得られないのか判断しかねた。 「……あんたさ、本当に鬼喰ったの?」 あの化け物が鬼と言われるものであることは知っている。 人が欲望に囚われた末の、変わり果てた姿だ。 それを那智は喰ったなんて表現した。まるで食事であるかのように。 「喰った。鬼は大概全て喰える。よっぽどの変わり種になると喰えないのもあるけど」 やはり喰ったというのか。 あの鬼が灰になってしまったことも、那智が喰ったからだと。 刀を生み出すような者はやはり異様なのだ。 「……美味いのか?」 鬼に味があるのかどうか分からず、思わず口にすると那智はにやりと笑った。 「まあまあ」 その答えは味があるということなのだろう。好奇心が目を開けて皓弥の唇から出てくる。 「…何味……?」 皓弥の怖い物知りたさに那智が吹き出した。 「あははっ味!?変なこと聞くなぁ。ほんのり甘い、かな?」 「甘いの!?」 「味覚に当てはめれば。けどきっと皓弥が想像してるような味じゃない。人間の食事とは全く別の感覚が満たされるから」 意味ありげに告げられる。 人間の感覚しか持たない皓弥にとって、何が満たされるのかは想像することすら困難なものだった。 「人間の食事もすんの?」 見たところただの人間のようなのだが。中身は明確な違いがあるのだろうか。 ついつい観察するような目つきになってしまう。 「半分人間みたいなもんだから。ちゃんと年も取るし、食事しないと餓死する。睡眠も必要」 「でも、鬼を喰うんだろ?」 「そう。それも必要」 「喰わないとどうなるんだ?」 満たされているだろう何かがなくなれば、この男はどうなってしまうのだろうか。 胃袋に何もないように餓死するというのか。 「発狂する」 あまり聞かない単語だった。 だが那智は大したことではないと言うように軽く口にする。 「それって、蓮城の人はみんなそうなのか?」 「いや、今は俺とジジイだけ」 「ジジイって、あんたのお祖父さん?」 「そう。ジジイの娘が俺の母親。でも母親は刀じゃないんだ。だから鬼を喰う必要はない。でもたまーに喰ってるらしいけど」 美味いんだろうな、やっぱり。と那智は皓弥にとって背筋がひやりとするようなことを言った。 「お祖父さんは刀?」 人を無機質の物のように言うのは抵抗があったのだが、那智がそう表現するので倣うしかなかった。 「そう」 「誰の?」 那智は皓弥を主だと言った。そのための刀だと。ならば刀というものには主がいるのではないか。 そう読んで尋ねたのだが那智は目を伏せ、微笑んだ。 見た者が見入ってしまうほど静かに。 「さあ?」 「知らないのか?」 曖昧な返事は誤魔化しているからだ。きっと知っているのだろうと思った。 けれど那智は「どうかな」と初めて言葉を濁した。 そしてそれ以上この件に関しては喋らないというように口を閉ざして歩き続けた。 「……半分人間ってことは、半分は何?」 皓弥は別の疑問を投げかける。 それも刀だと言うのだろうかと思ったのだが那智は驚くような答えを返してきた。 「化け物、だよ」 当然。という顔をする那智に、皓弥は一歩ほど距離を開けた。 反射的に身体が強張る。 「喰わないって、皓弥がただの人間じゃなくても」 那智の笑い声に、皓弥は歩くのを止め持っていた刀を構えた。 (こいつ、知ってる!) 知られたくないことをこの男は知っている。いや、感じ取ってしまったのかも知れない。 人間には分からないけれど、鬼には自分が特殊な生き物であると分かるらしい。 ならば那智も鬼の眷属なのか。違うと言っていたくせに。 「殺気立つなよー。言っただろ?俺は鬼喰いなんだから。人間は喰えないんだよ。美味そうとも思わないし。皓弥に危害を加えるわけがない」 那智は向けられた切っ先に動揺することもなく、ひらひらと手を振る。 足を止めようともしない。 「そんなの分からない」 信用してはいけない。あやしいものはすべからく疑ってかかり、警戒するべきだ。 それが皓弥が生きるために学んだことだ。 そしてそれが正しいものであることを経験してきた。 「だったら、どうやったら信用してくれる?俺の主になってくれる?俺を側に置いてくれる?」 突然歩く方向を変えて、戻って来た那智に距離を詰められた。 ぎょっとする間に眼前にやって来た人は皓弥が握っていた刀身を撫でる。 今すぐ斬りかかられても構わないと身体で伝えているようだ。 真摯な視線をぶつけられ、たじろぐ。 「皓弥」 すがるような目に、刀を持っていた手から動揺が広がる。 僅かに震えた刀を見下ろし、那智はふっと肩の力を抜くように表情を緩めた。 「俺、急かし過ぎ?」 那智が性急になっている理由は分からない。だがこうして強く求められたことのない皓弥にとっては、その行動は恐ろしさを感じるものだった。 敵か、その逆か分からない。それなのに迫ってくる思いは恐怖にしか変換されない。 「……かなり」 「だよなー」 那智は刀から手を離し、再び歩き始めた。 焦る己を落ち着かせようとしているのだろうか。 「分かってんだけどな。でも一端会ったらやっぱり駄目だ。嬉しいから」 照れた様子もなくそんなことを言い出す人間が信じられなくて、皓弥は気が抜けた。 「嬉しい…?」 何が、どこが嬉しいのか。 突然こんなところにやって来て、刀が欲しいなんて言い出すようなやつだ。身元だってはっきりしない初対面の人間相手に何が歓びになるのか。 「主に会えて嬉しくない刀なんていないよ」 「……全然何も知らない相手なのに?」 「何も知らなくても」 淡い光に照らされた中、那智は喜びを滲ませた声で言った。 演技だと思えなかった。 だがそれを本気だと思ってしまえば、今まで会ったどの人よりも那智はおかしな人だった。 人間性ならば掌から刀を出した時点で、ぶっちぎり変ではあるのだが。 「……側にいたいとか思うの?」 「思う。離れる気がすでにない」 ある程度覚悟して質問をしたのだがそれを軽く上回る返答だった。 (こいつやばい人じゃないのか?) つい視線を逸らしてしまう。那智に着いて行って大丈夫なのか心配になってくる。 しかしどこにも行く場所がなく、那智に従いながら周囲を見ていると長々と垣根が続いているようだった。 先ほどからずっとこの光景が続いている。 手入れがされているので誰かの家のようだ。 「まぁ、無理だけど」 あ、常識とか理性はあるようだ。と皓弥はほっと息を吐いた。 離れずにいるなんて到底無理な話なのだ。 家族でもないのだから、一緒にいることが許せる時間なんて限られている。 少なくとも皓弥にとっては他人は脅威なのだ。 それにしてもどうしてこんな、知らない男に告白された少女のような心境を味わっているのだろう。 「あんた、変人だな」 「人間じゃないからねぇ。ってことで、これがうち」 那智が立ち止まった所にあったのは、門だった。 高さはさほどではないのだが、頑丈そうな造りをしている。 蓮城、という表札が黒い石に白字で彫られていた。 表札を見たその目で皓弥は思わず自分が来た道を振り返る。 延々と続いている垣根の途切れを探し、かなり先に小さく見える曲がり角を指さした。 「……庭?」 「庭」 「デカっ!!」 この垣根の長さ分の庭を持っているなんてどんな家なのだ。 手入れするだけでも大変そうな広さなのだろう。 (金持ち……) 物価や土地がどれだけの値段なのかは分からないけれど。庶民とは決して言えない類の人種であることは察せられる。 遅い驚きを口にしている皓弥に笑いながら、那智は門を開いた。 真っ正面にあるのは屋敷のような日本家屋だった。古めかしい雰囲気はあるものの、きっちりと整えられているのだろう。風化しているという印象は全くない。 それどころか整えられた庭や玄関へと続く石畳の道、それに寄り添う灯籠などは美しくこまめに管理されているようだった。 正面からは見えないけれど、流れる水音が微かに聞こえてくる。 おそらく池などがあるのだろう。 「……税金すごそうだな」 「すっげー所帯じみた感想をどうも」 那智が面白そうに笑っているのだが、皓弥などマンション暮らしでずっと平均的中流家庭の生活をしていたのだ。 身の丈を知っているので羨ましいとは思わずに、別の部分が気になった。 「税金対策どうしてんだ…」 「それはまあ色々とね」 曖昧なことを言いながら那智は玄関へと歩いていく。 格子がはめられた玄関の前に誰か立っていた。 濃紺の和服を着た、男。 近寄るにつれ、それが老人であることに気が付いた。 ぴん、と背筋を張って立っているため遠目では年など分からなかったのだ。 「なんだよジジイ。そんな所に突っ立って」 「黙れガキ。帰ってきてただいまの一つも言えんのか」 白髪まじりの老人は乱暴な言葉を那智に投げた。 落ち着いた感じからは想像していなかった類の言葉だったので、皓弥は呆気にとられて硬直した。 「皓弥。これがさっき言ってた刀のジジイだ」 硬直している所に紹介され皓弥は慌てて頭を下げた。 「あ……あの、真咲と申します。夜分遅くに失礼致します。実はこちらにお願いがありまして」 何をどう説明したものか、考えてここまで来た。相手がどんな態度に出るかも想像していたのだ。けれどそれが全て吹っ飛ばされるほど様々な出来事に襲われたせいで、上手く言葉が出てこない。 その上片手に抜き身の刀を持っていることを思い出し、一気に血の気が引いた。 これでは妖しい人間以前の問題で銃刀法違反の犯罪者だ。 那智が異常人間だったため、警戒の意志も込めて握っていたのだが。 ここまで持ち続けるつもりはなかった。 「刀だね。だがそれはもう君の手に入ったようだ」 随分穏やかな声音だった。そして何もかも腑に落ちたような言い方をしている。 不思議に思って頭を上げると優しげに微笑む顔があった。 慈愛を滲ませた目に、そっと肩を撫でられた気がした。 背負っているものや、追い詰められてきたような緊張がやんわりとほどかれていく。 身構えている必要なんてないのだと囁かれたかのようだった。 「雪嗣に、美鈴さんによく似ている」 「母を、御存知で」 その二つの名前は皓弥の身内の名前だった。まさか知っているとは思わず、目を丸くしてしまう。 老人は驚きを前にして頷いた。 (……もしかしてこの人は、こうなることが分かっていたのかも知れない) もしくは母親がこの人に事前に言っていた可能性もある。 自分の息子がいつかここに刀を取りに来るかも知れないと。 皓弥はあまりにもスムーズに動き始めた事態に「落ち着け」と自身に告げた。 ここからが勝負だ。 刀をより自分の都合の良い条件で譲ってもらうため。 今から始まるであろう駆け引きに、冷静さを取り戻さなければいけない。 「上がりなさい」 老人は背を向けた。そして玄関から中へと入っていく。 「茶の用意をしろ」 「へいへい」 老人の声に那智は気怠そうに家へと歩き出す。 皓弥も後に続くように足を踏み入れると神社かそれに類似している建物を訪れたかのような雰囲気に迎えられた。 光源は明るく、所々生活感のある家具が置かれていることがそれを否定していた。 けれど随分美しく、また年代物の和屋敷であることは間違いないだろう。 「真咲君、こちらへ」 老人は背を丸めることもなく凛とした足取りで廊下を進む。磨かれた板目がとても艶やかに電灯を反射していた。 とある一室の襖を開けると、中は十畳ほどの部屋だった。 床の間に壷が置かれている。花が控えめに顔を出していた。それ以外には何もなく、さっぱりとした印象を受ける。 部屋の隅にあった座布団を二つ、老人は部屋の中央に置いた。 「座りなさい」 張った背筋を崩すことなく正座した老人の前に、皓弥は頭を軽く下げて同じように正座した。 鞄を肩から下ろすと、どさと重い音を立てる。 二人の間にある距離は二歩ほどで、皓弥は刀をそこに置いた。 光に照られされ澄んだ色味の刃。しかし見方のよっては波紋が脈打つように輝いているようにも感じられた。 「蓮城家にようこそ。儂がこの家の主、昇司という名の者です」 「真咲皓弥です」 面と向かって言葉を交わすと、昇司の持っている空気に皓弥は緊張をじわりじわりと感じた。 威嚇されているわけでも、責められているわけでもない。 ただ話をしているだけだ。 しかし圧倒される。 まるで生き物としての重みが全く違うのだと言われているかのようだった。 「あの……俺はこの刀の主だと言われたのですが」 理解出来ないことをまずは昇司に投げかける。混乱するばかりで一向に納得も出来ないことだ。 「那智がそう言うのなら、そうでしょう」 「本当に、それでよろしいのですか?」 那智がそう言うのならばという曖昧な事柄で持ち主を決めても良いものか。そんなあっさりと譲渡できるものではないだろうに。 「良いも何も、刀がそう言うのなら主は君一人だ」 皓弥の戸惑いとは違い、昇司には揺らぎというものが欠片もない。悠然としており、こんなことを言っている皓弥の方が奇妙であるかのような錯覚まで生まれてくる。 「間違いということはないのですか?」 おまえが主だ。 そう告げてくる人は皆強固な自信を持っているように見えた。 その根拠は一つも明かされていないというのに、確信を持っているのだ。 「刀というものは自分の親を間違えることはあっても、主を間違えることはないのだよ」 昇司は至極当然であるかのように微笑んでいる。 「絶対、ですか?」 「保証しよう」 もしかして何かの間違いでは、などという危惧はこの人々には存在しないのだろうか。何もかも見えているとでも言うのか。 疑い、戸惑いながら生きてきた皓弥には昇司の強さが信じられないものにしか思えない。 「本当に、頂いてよろしいのですか?」 「君以外使うことの出来ない刀だ」 問いかけても返ってくるのは誰も同じこと。ならば素直に受け取ってしまった方が良いのだろう。それが自分にとっても都合の良いことなのだから。 「……それで、鞘は…?」 皓弥は恐る恐るというように尋ねた。 出来ればちゃんとしたものがある、と言ってもらいたかった。 那智は自分だなんてとんでもないことを言ったのだが、それは冗談であったのだと吹き飛ばして欲しかった。 だが老人はこの意図を読みとったのだろう。 にっこりと笑みを深くして「那智本体だ」と答えた。 「……他にちゃんとした鞘は…」 すがる目をした皓弥に、昇司は「残念ながら」と言う。 「その刀は生き物に近いものだ。本体から長く切り離されると消えてしまう」 刀が生き物だなんておかしなことを語っている。だが那智の掌から刀が生えていた場面を見てしまったため、有り得ると感じた。 「生き物……では鞘を作ってそこに納めていても駄目ということですか?」 「駄目だ。刀を持つということは那智を連れるということになる」 あれを連れて歩けって言うんですか?そりゃ殺生ですよ。何が悲しくてよく分からない男と一緒に行動しなきゃならんのですか。 喉元まで出かかった言葉を皓弥はかろうじて飲み込む。 昇司の孫である、と思ってのことだ。 「君は、美鈴さんから蓮城のことは聞いているか?」 突然母親のことを訊かれ、皓弥は首を振った。母は詳しいことは何も教えてはくれなかったのだ。 「あ、いえ……そこに行けば他のどんな刀より斬れる、俺だけの刀があるとだけ」 「そうか。今まで使っていた刀は?」 皓弥は短刀と、鞄にくくりつけていた脇差しを抜き身の刀の側に置いた。 己の身を守ってくれていた大切な武器だ。けれど那智から生えてきた刀を並べてしまえばどこか頼りなく見えた。 昇司は皓弥が出した二本を見て、目を細めた。 「君は自分の血については知っているか?」 昇司が口にしたことは、皓弥にとっては痛いことだった。 出来るだけ知られたくない、秘めていたいことだ。 けれどきっと昇司は知っているのだろう。母や祖父を知っているのならば、まして鬼を斬る刀を持っている、こちら側の者なのだ。 「一応……」 「生け贄だったことも?」 「知っています」 いつ聞いても苦々しい単語だと思う。 『真咲の先祖は、化け物への供物にされていた一族だった』 母は皓弥にそう語った。 鬼、化け物の類にとって真咲の血は美味いそうだ。他のどの人間よりも先に求められる。それを知った人間は真咲の者を供物として捧げることでそ他大勢の命を救ってきた。 だが真咲の者は黙って喰われることはなかった。 魅力的な血を持つと同時に、妖を狩る力もそれに秘めていた。 戦い続けていたのだ。ずっと。 「真咲の血は鬼を惹きつける。蓮城はそれに目を付けたのだよ。鬼を喰らうにはとても都合の良い人間だと。そして真咲も、鬼を喰らう蓮城と共にいることで身が安全になった」 「利害が一致したんですね」 「そう。それがいつしか蓮城が真咲に身を捧げることになった。恐らく、惹かれたのだろう。儂らも鬼の一部を持っているからな」 蓮城の半分は化け物。那智はそう言っていた。 異形である部分が真咲の匂いに酔ったのかも知れない。 「……では、蓮城の人はいつか真咲を喰らうのでは…?」 互いの利益が一致したとしても、化け物を喰らうより真咲を喰らう方が美味いと知れば。蓮城はこちらに牙を剥くはずだ。 「蓮城の半分は人だ。人間など喰えぬ。鬼のほうがよほど美味いだろうさ。それに喰ってしまえば鬼は寄って来なくなる」 誘蛾灯が無くなれば餌が来なくなる。だから喰らうのは損なのだろう。だがそんな理性的な思案など、欲望は断ち切ってしまうと皓弥は知っていた。 「でも惹かれると」 「保護欲を掻き立てられる。守らねばと思わされるのだよ、君たちには。きっと長い時間をかけて蓮城と真咲はそういう形をとるように変化したのだろう。お互いのために」 保護欲、という言葉に皓弥は呆気にとられた。 真咲の血が流れているというだけで保護欲を抱くというのか。それではまるで動物の本能か何かのようだ。 人間にそんな本能が組み込まれているなんて知らない。それとも蓮城という生き物だけが持つ特性だとでも言うのか。 にわかには信じがたい話をしている最中に襖がざっ、と勢い良く開かれた。 那智がお盆と救急箱と書かれた白い箱を手にしている。 「襖を足で開けるな、馬鹿者が」 「両手塞がってんだよ」 ガラの悪い那智を見て、皓弥は一抹の不安を覚えた。 (こんな男に保護欲をもたれても……) 自分のためになることか、疑問だった。 次 |