壱




 
 月の無い夜だった。暗闇を照らすのは街灯の人工的な光だけ。
 カレンダーが八月を終えても、風は生ぬるい。それがまるで生き物のように頬を撫でては気味悪さを呼び寄せていた。
 視界が阻まれる暗がりは、得体の知れないものを見つけ出してしまいそうな恐怖を感じさせるものだ。
 そしてそれを増長させるかのように、周囲には車も人気もなかった。
 だというのに罵声と物音が、静寂を破っている。
「くそったれが!」
 青年はそんな罵声とともに短刀を振り回していた。
 亜麻色の髪は一つにくくられており、小さな尻尾のように見える。
 短刀を握る腕には獣に引っ掻かれたような傷があり、血が滲んでいた。
 犬か何かにやられたのかと、普通ならば思うところだ。けれど原因は今目の前にいた。
 襲いかかっている男らしき者が二人。
 らしき、というのはあまりにもその姿がいびつだったせいだ。
 顔は血管のようなどす黒い筋が幾つも浮き上がり、鼻梁を歪めていた。
 唇は耳の近くまで裂け、鋭い歯がむき出しになっている。まるで狂犬のようだ。
 人間と言うにはあまりにも異様であり、化け物にしか見えない。
「鞄飛ばしたからな、刀が取れねーし」
 青年は忌々しげに舌打ちをした。
 肩からかけていた鞄は、男たちに襲われた際に邪魔になって投げてしまったのだ。それが結果的に自分の首を絞める羽目になった。
 鞄の中には短刀よりも刀身の長い獲物が入っていたのだ。しかし取りに行く余裕などあるはずもなく、手に持っている刃物の短さに危機感と苛立ちを覚えていた。
 短い刃物であるならば相手の懐に入る必要がある。だが近付けばその分牙が届く可能性が高まる。
「つか、いきなり二人で出てくるか?ここはこんなのが多いのかよ」
 ふざけんなよ、と青年は吐き捨てる。
 こんなものたちが世の中にごろごろしているはずもないのだ。そんなに日本は剣呑な土地柄ではない。
 なのにいきなり二体も遭遇するなんて、運が悪い。
 化け物たちはじりじりと歩み寄っては荒い呼吸で「ぐ、ぐ」と妙な声を上げていた。
 濁った目の焦点は合っていない。
 いつどんな行動をしてもおかしくない状態だ。正気ではない相手ほど、戦いづらいものはない。
 青年は溜息を一つ付き「やるしかないか」と呟き地面を蹴った。
 防戦一方では数で負ける。まして行動が読めないのだ。ならば自分から仕掛けた方がまだましであると踏んだのだ。
 右側にいた男の胸に短刀を突きつけるが、身体を避けられ肩口に短刀が刺さる。
 一発で仕留めたかったのだが、そう上手くはいかない。
 低い悲鳴が耳障りだった。
 再び舌打ちをした時には、もう一人の男が青年の背に飛びかかる瞬間だった。
 予測していた状況に、冷静な視線で振り返り青年は身体をひねる。
 そして腕を男に差し出す。
 他に歯を立てられるよりずっとましだ。噛み付かれた瞬間に短刀で刺し殺す。
 そうすれば命までは奪われずになんとか済むだろう。怪我と命を秤に掛けた結果だ。
 しかし、ぐっと奥歯を噛んで激痛を待っていたのだが一向にそれが訪れることはなかった。
「……は…?」
 襲いかかってきた男の胸に生えた白銀の切っ先。
 それは青年も見慣れている物に思えた。
 そして視線を上げると化け物の背後に誰か立っている。
 新手かと思ったのだが、化け物とは違いおぞましい顔立ちをしているわけでもなければ、双眸には理性が宿っている。
「ぼーっとしてると喰われるんじゃないのか?そいつ、生きてるぞ」
 緊迫した異常事態であるはずなのに、その男は何処かのほほんとした声で言った。
 化け物を見ても怯まないらしい。いやそれを言うのならば後ろから化け物を刺したのだから、これらが何であるのか知っているのかも知れない。
 唖然としている青年の手を、男が掴んだ。
「っ」
 途端に繋いだ手から、大きな波が伝わってきた。
 痺れのような、炎を掴まされたような痛みが走る。
「ぃっ」
 痛い、と言おうとした。
 だが言葉にしようとすると、途端にひんやりとした冷たさを感じた。
 急激な変化。何が起こっているのかさっぱり分からない。だが男の手から流し込まれたものは鋭く怖いはずの感覚なのに、肌に馴染んでくる。
  (なんだ、これ……!)
 訳が分からない。
 この男は何なのか。そしてこの感覚はどうなっているのか。
 混乱する頭で問い掛けようとした。
 だがその答えは不可思議なことに、見上げた瞳に映っていた。
「……刀」
 何故そう口走ったのか分からない。だが男の瞳を見ると自分の唇がそう言っていたのだ。
 呆然と口にした言葉にその男はにやりと笑った。
 そうだと、答えを与える顔だ。
「ああ」
 頷き、その男は手前に何かを引いた。
 化け物の身体から生えていた物の、柄だ。
 どす黒い鮮血を流して化け物が崩れていく。
 恐ろしい光景であるはずなのに青年はそんなもの目に入らないかのように、男に釘付けになっていた。
「名を」
 男は言った。
 漆黒の光彩に眩暈がする。
(こいつは誰だ。何だこれは)
 名と言われたところで知るはずがない。今まで会ったこともない相手だ。
 しかし男に名を求められた瞬間に身体の中で大きな熱が渦を巻いた。
 内側から何もかも奪い尽くしていくような、圧倒的な灼熱が湧いてくる。自分のどこにこんな熱量があったのか分からない。
 出口のない衝動にくらりと意識がさらわれる。
 しかし青年がそんな衝撃に抱かれている間にもう一体の化け物が痛みに慣れたのか、肩口を押さえながら立ち上がるのが見えた。
「来るぞ?」
 いいのか?そんな楽しげな声に繋いでいた手が焼けるような熱さを帯びた。
 懐かしい、恋しい。
 これがずっと、欲しかったのだ。
 自分の中からそんな感情が生まれてくる。泣きたくなるような切なさが青年を締め付けては涙腺を緩ませた。
 何が起こっているのだろうか。
 戸惑ったところで誰も答えはくれない。だが込み上げてくる涙と共に声はそれを呼んでいた。
「那智」
 ことり、と響きは夜に墜ちた。
 それに男が息を吸い込む。
「待ちわびた主」
 男は嬉々としてそう答えた。
 何処か古い言葉遣いで。
 応じられたことに青年は酷く腑に落ちたように感じた。それであるだろうと、何故か納得している。
 男は笑みを深めながら掌を合わせてきた。
「何…?」
 掌を押す、堅い感触がした。
 お互いの掌には何も握られていなかったというのに、一体何が出てきたというのか。
「引け」
 そう男が手を離すと、その掌から柄が生えていた。
 堅い感触は、柄の頭だったのだ。
「……びっくりショー?」
「すげーびっくりだな。けど驚くのは後にしてそれを引いてくれよ」
 夢でも見ているのかと、青年はつい間抜けな感想を口にする。  それに笑う男は元々持っていた己の刀を振り回した。
 起き上がった化け物が歯をむき出しにして襲ってきているのだ。
「その短刀より、遙かによく斬れる」
 断言された言葉に惹かれた。
 斬れる刀、それは今何より切望しているのだ。
 自分の身を守るために、自分の願いを叶えるために、それは必要なものだ。
 そして人の手から生えてくる刀という異常極まりないものについて、記憶の中にうっすらと情報があった。そういう人間がこの世にいるのだと。
 だからだろう、躊躇いは一瞬のことで、気が付けばその柄を握っていた。
「っ!?」
 ぐぃと柄が手に吸い付いたように感じた。
 だが気持ち悪さはなく、むしろ手に馴染む。
 まるで刀に見えない何かで手を包まれているかのようだ。
 勢い良く手前に引くと男の掌から刀身が姿を現した。
「斬れ!!」
 男の声に刀から視線を外す。
 すると目の前に爪があった。
 赤黒く鋭い爪だ。それで一度腕を切られている。
 とっさに柄を握っていた手を大きく横に振る。
 そこでようやく刀の切っ先を見た。
「腕からんなもん生えてくんのか!?」
 有り得ねぇだろ!と怒鳴りながら眼前にいた人を辞めた生き物を斜め掛けに斬った。
 吹き出る血が顔や服を染める。生臭い獣の匂いが降りかかってくる。
 吐き気を覚えながらも、倒れていく化け物に安堵の息を吐いた。
「生えてくるんだなぁ、それが」
 混乱から叫んだ台詞に男は長閑に答えていた。刀を手にしたまま。
「人間じゃないからさ」
「おまえ!!」
 人間ではないという返事に、青年はとっさに刀を男に向けた。
 そこに転がった死体と同じ生き物だというのか。もしそうであるのならば青年に安全はない。
 緊張を取り戻し、男を睨み付ける。
「俺は人なんか喰わないから。俺が喰うのはそれ」
 男は死体を指さした。
 しかしその反応は青年の疑問を増やしただけだった。
「これって……?」
 人間を辞めた生き物は、死ねば黒い粘り気のある液体になる。身体の形を保っていることは出来ないのだ。
 そして暗がりから出てくる小さな餓鬼に喰われていくのだ。
 餓鬼は暗がりのどんなところにでも潜んでいる。人ではないものを喰らい尽くして、世界から消して行くのだ。
 食物連鎖と言える仕組みなのだが、直視するにはあまりに気持ちの悪い、グロテスクな光景にいつもは目をそらしてその場を立ち去る。
 だが今は青年が見たことのない情景がそこにあった。
「…消えてく……」
 死体はさらさらと灰になっては、掻き消えた。
 僅かな風が全て攫っていくようだ。
 顔についた血を手で拭うが、それもどうやら死体と同じように消えたようだった。
「どうして…?」
 こんな現象に遭ったのは初めてだ。
 何故いつもと違う様子で化け物がいなくなっていくのか。
(なんで灰なんかに)
 惑う青年とは違い、男はあっさりとその答えを与えてくる。
「俺が喰った」
「おまえが?」
 人間ではないと言ったが、見た目は化け物とは思えない。ただの人間と全く変わらない容姿をしている。
 しかしまさか化け物を喰うというのか。
「蓮城」
「れんじょう?」
「俺の名前」
 まだ男のことを一つも飲み込めずにいると、唐突に名前を告げられる。
 蓮城と名乗った男は黒い髪に黒い服装をしていた。背は自分より高い。
 年齢は二十を少し過ぎたくらいだろうか。そう年は離れていない。
 持っている刀が街灯の光を反射し、それだけが明るさを持っていた。
「蓮城って……」
 脳裏に地図が蘇った。
 母親が書いたおおざっぱな地図。そこに大きく書かれた名前がまさに蓮城だった。
 行けずに迷っていた家だ。
「うち、探してるんだよな?」
 まるで心の中を読んだかのように、蓮城はそう問いかけてくる。
「なんで……」
「そこにおいてあった鞄の近くに、うちへの地図があったから」
 道端に転がされている鞄から少し離れたところに地図が置かれている。
 それを見て察したのだろう。
 喋りながら蓮城は無造作に刀を大きく振った。
 するとぐにゃりと刀は歪み、水のように形を変えて消えてしまった。
 硬質な、研ぎ澄まされた刀が上下に振っただけで形状を溶かすはずがない。けれど現実を覆すことが実際に目の前で起こったのだ。
「……び」
「びっくりショーにしてもいいけど、これで金儲けはしたくない感じかな」
 刀は水のように溶けたかと思うと、すぐに夜の中へと消えてしまった。
 何も持たない両手を蓮城はひらひらと振る。
 それで、ようやく確信した。
 こいつは本当に蓮城の家の者だと。
(本当に、いたのか)
 蓮城という名前は母親から聞いていた。
 それは刀を身体から生み出すことの出来る人間の名前であると。
「名前は?」
 尋ねられて口籠もった。
 正直に名乗るべきか迷うところだった。
 自分についての情報は取り扱いに充分注意しなければならない。自分はそういう存在である。
 そう教え込まれて生きてきた。だがここで蓮城に対して自分を秘密にしても意味がないだろう。どうせ会おうと思っていた相手だ。
 まして頼み事があるのならば、礼儀の面でも名乗った方が良いに決まっている。
「……真咲」
「名字は?」
「真実の真に、花が咲くの咲で真咲。それが名字」
 よく間違われることだった。
 女だったのならばともかく、男に生まれたために余計に「まさき」が下の名前だと勘違いしやすいのだろう。
 おかげで訂正するのも、字面を説明するのも慣れたものだった。
「そう。俺の名前なら下までもう知ってるだろう」
 下までと言われても先ほど聞いたのは名字だけだ。奇妙なことを言うものだと、つい怪訝そうな顔をしてしまったのだろう。
 蓮城は何を思ったのか真咲が持っている刀を指さした。
「那智って、この刀の名前だろ?」
 蓮城の掌から伝わってきた衝動と共に頭に浮かんだ言葉は『那智』だった。
 それが刀の名前なのだと、何故か確信出来た。
 根拠はないが、全身がそう訴えたのだ。
 それと蓮城の名前と繋がりがあるのだろうか。
「俺が刀。だから那智は俺だよ」
「あんたの一部ってわけじゃなく?」
「刀が俺。身体は鞘だ」
 あっさりと蓮城は言った。
 身体から生み出したものを、一部だと言うのならまだかろうじて理解が出来そうだったが。
 身体自体を鞘、刀の入れ物にしか過ぎないと言う。
 人間が正気で言うことではない。
(なんだ、こいつ……)
 おかしな人だと思うのだが、危険だという匂いは感じられなかった。
 優しさと穏やかさしか感じ取れないせいだろうか。
「名前は?」
 正体を探ろうとして思考が纏まらない真咲に蓮城は問い掛けを重ねた。
「皓弥」
 下の名前を知ったところで何になるのか疑問ではあったのだが、素直に答えると蓮城は噛み締めるように頷いた。
「ん。皓弥は刀を探してうちに来たんだろ?」
「なんでいきなり名前で呼ぶ」
 意図を読まれた動揺を押し殺し、皓弥がそう言うと蓮城は「だって」と歩き出した。
「いい名前じゃん。それと、うちに来るならそれしかないだろうと思って」
 皓弥を振り返ることなく喋りながら先に行ってしまう。立ち止まって置いて行かれても困るので、迷いながらも後に続いた。
「どうしてそんなことが言える」
「うちには、皓弥にしか扱えない刀があるから」
「あるのか!?」
 切望しているのはまさに刀だった。
 化け物を斬るために有効な手段。まして自分だけの刀があるのならば、手に入れたい。
 それはとても特別なものであると母親は語っていたからだ。
「ある」
「どれだ!?」
 蓮城はどこに行くのかと思っていると皓弥の鞄に向かっているようだった。
 そして軽々と皓弥の鞄に手を掛けた。
「それ、欲しい?」
 鞄を持ち上げる蓮城の手を制する前に、刀を指さされ皓弥は立ち止まった。
 示されるまま自分が持っている刀へと視線を下げる。
 刀身はまるで雪光のようだった。
 曇りも、穢れもない。誰も触れたことのない一面の雪。そこに一筋の光が差し込んでいるような刃だ。
 目が奪われる美しさだった。
 刀に対して美醜を感じたことなどなかったというのに。これは間違いなく美麗だった。
「……」
 答えかねて、皓弥は眉を寄せた。
 本音を言えば、欲しい。喉から手が出るほどに。
 ここで奪われるくらいなら、抱き締めて逃げ出したいほどだった。
「あげる」
 蓮城は肩に鞄を掛け、あっさりと言った。
 この執着を感じ取ったかのようだ。
「その刀は生まれた時から皓弥のものだし」
「俺の……?」
「そう。皓弥のために生まれ、存在している。皓弥が主だ」
 主ということは持ち主ということだろう。
 しかし皓弥はこの刀を見たのは先ほどが初めて。ましてこんなものが存在していることすら知らなかったのだ。それなのに持ち主であるはずもない。
 けれど蓮城は、掌からこれを出した者は皓弥だと断言している。
「なんで……?」
 どうしてそんなことが分かる。と皓弥は訝しげな視線を送る。
「俺がそう感じたから。見た瞬間こいつだと思った。そして掌に触れて皓弥は名前を呼んだ、刀を抜いた。そんなことが出来るのは主だけだ」
「主……」
 胸を張り、力強く蓮城は告げた。
 自分が感じたことが全てであると誇りを持っているように見えた。
 しかしそれを言われている皓弥には何の実感も、情報もない。
「ずっと待っていた。皓弥だけを」
「刀が?」
「俺という刀が」
 手に中にある刀なのか、それとも蓮城という男なのか。皓弥にとってそれは別々のものにしか思えない。だが蓮城は頑なにそれを一つだと表す。
「二十三年間、ずっと皓弥だけを待っていた」
 蓮城は嬉しそうに微笑んだ。
 喜色が柔らかく滲む表情に、皓弥は呆然と立ち尽くした。
 どうしてそんな顔を自分に向けてくるのだろうか。
 まして自分を刀だと言い、ずっと待っていたなんて言うのだ。
 すでに理解の範疇を飛び越えた。
「………えっと…」
 混乱し始めている頭をなんとか落ち着かせようとするが、上手くいかない。
(現実か?これ)
 自分の人生は波乱に満ちている。不条理をはらんでいるとは思っていた。だがこんなにも突拍子もない、混沌とした生き方だっただろうか。
「うち来る?」
「え?」
「俺、説明上手くないんだよね。そういうのはジジイの方が上手い。それに手当もしたい」
 腕にある傷を見られ、皓弥は「ああ」とようやく小さな痛みを覚えた。
 衝撃的なことが次々に襲ってくるので、こんな怪我など忘れていた。
「おいで、皓弥」
 蓮城は嬉しそうに名前を呼んだ。
 おまえが主だという割に、子どもに対して呼びかけているような慈しみがあった。
 勝手に歩き出した背中に、皓弥は「……意味わからん」と呟いて顔をしかめたが、ここにいてもどうにもならない。
 抜き身の刀を握りしめ、従うしかなかった。



 


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