七




 
 血の気を失った唇から、白い息をもれる。
 ひゅう、ひゅう、と呼吸が上手くて出来なくてもがいているかのようだ。
 実際、少年は緊張と恐怖でろくに息も吸えないのだろう。
「名前なんか…知りません…」
 観念したらしい、上擦った声で白状した。だがその答えに那智は苛立ったように目を眇めた。
「おまえなんかに名乗らねぇよ。どんな見た目だった」
 元々名前など聞くつもりはなかったらしい。だがそんなことは少年の知るところではない。きつい口調に、目尻に浮かんだ涙が膨らんだ。
「僕より少しだけ…年上みたいで…金髪の、男でした…」
「で、何をした」
「あの子に…鴉に、血を…」
「分け与えたか」
「指先をちょっと切って、そこから血を一滴だけ…。鴉が友達だって言ったら、ならもっと友達らしくしてあげるって言われたんです。話が出来ればもっと楽しいだろうって」
 堰を切ったように、少年は涙声で話し始めた。
「あの子がもっと友達を増やしてくれるって言ったんです。でも人を襲うなんて、そんなこと知らなかった」
 知らなかったんです…。と深く少年が俯いた。
「他に特徴は?」
 悔やんでいるような、怯えているような少年に那智は気を払うことなく質問を続ける。
「…京都の人みたいな…喋り方でした…」
 那智はその言葉に声なく唇を動かした。
 姐さんとこか。そう紡いだ気がして、皓弥は「姐さん?」と尋ねる。
 だが聞こえているくせに那智は答えない。
(誰だ)
 それらしい人の名前など、那智から聞いたことはない。
 話題に上らず、皓弥が知らないだけなのか。もしくは知られたくない者なのか。
 むしろ人なのかどうなのかすらあやしい。
 きっと話の流れからすれば、真っ当な人間ではない。
「それが分かればもういい」
 那智は憂鬱そうに髪を掻き上げてちらりと空を見た。
 あまり望んでいなかった情報のようだ。
「で、その友達っていうのはおまえが呼べば来るのか?会話が出来るくらい頭がいいなら、呼応くらい出来るだろ」
 それが何を意図するのか、分からないほど少年は愚鈍ではなかったらしい。
 必死になって頭を振っている。止めてくれ、と懇願しているのだ。
「こうも数が多いと、鬼がいるのは分かるが特定しづらい。飛んでるのに片っ端からやるのは面倒だ」
 那智は鬼とそうでない生き物を瞬時に見分けることが出来る。だが鬼なのか鴉なのかもう曖昧になってしまっているものばかりの中では、見分けにくいようだ。
 皓弥にもそれはなんとなく分かる。
 鴉全てが鬼に見える。しかし同時に鬼になりかけの中途半端な鴉にも思えるのだ。
 気配は混ざり、判別しづらい。
「結構人でなしだな」
 鴉を友達だと言っているのに、その鴉を始末するため呼び出せというのは。非情な要求だ。
 同情したいわけではないが、気が進まないのは確かだ。
「刀ですから」
 那智は「人じゃないし」と軽く流した。
 情なんかないよ。とさらりと口にしそうだ。あれだけ人に過保護な態度を取っているというのに、他の人間に対してはこれだけ冷淡になれるのが不思議だ。
「呼んだところで来るのか?身の危険を感じて来ないんじゃないか?」
 那智という捕食者がいることは、鴉だってよく分かっているだろう。
 それなのに懐いているらしい人間が呼んだところで、ちゃんとやってくるとは思えなかった。
 人の命令に従うより、保身に走るのが生物としては自然である気がする。
「そこは友情を信じて」
「白々しい」
(そんなもん信じてないくせに)
 那智の目は本気じゃない。
 呼んでやってくればいいが、別に来なくても不思議ではない。そんな様子だ。
 試しに呼ばせてみようか。というだけのことだ。
「おびき寄せるなら、俺が一人でいればいいんじゃないか?」
 鬼にとって美味そうな皓弥が、一人でぽつんと立っていれば鴉は群がってくるだろう。
 その中にきっと鬼もいるはずだ。
 至近距離に来れば、鬼の判別がもしかすると付くかも知れない。
「大量にね」
 だが数が半端ではない。と那智に言われてしまう。
「対処しきれないな。だがお前がいると現状はこのままだぞ。どうせならお前がいる状態で鴉をおびき寄せられたらいいんだがな」
 二人がかりなら、やってくる鴉にもなんとか出来るかも知れない。
 しかし、遠巻きにしている鴉をどうやってここまでおびき出すか。
 考え込み、皓弥は自らの身体に流れる血を思い出した。
「この血一滴でも落とせば、来るんじゃないか?」
 甘いにおいがするという、その血があれば那智がいてもやってくるかも知れない。
 狂気に目を眩ませて。
 しかし皓弥の提案に、那智は顔をしかめた。
「皓弥を傷付けるくらいなら、そこの人間をバラす方法を選ぶ」
 殺すだけでなく解体まで言い出す那智に、皓弥は苦笑した。
「お前は怖いな。本気なところが」
「肉があれば寄ってくるだろう」
 公道で早朝に交わす会話ではない。
 スプラッタな内容に皓弥が肩をすくめる。清々しい朝日がそろそろ顔を出してくる頃だ、空も藍色から水色、金へと色を変えようとしている。
 そんな中、眠気を殺してホラーをやりたいわけではない。
「立ちながら気失ってんじゃないか?」
 一言も発しなくなった少年は、硬直しているのか動かない。
 いつの間にか顔は上げられているが、視線は斜め上を見ていて、何を思っているのか無表情だ。
「正気に戻そうか」
「ほっとけよ。それよりあれだろ」
 これ以上少年を追い詰めることもないだろう、と皓弥は話を鴉に戻した。
「呼ばせてみようか」
「俺は畜生と人間の間に信頼関係があるとは思ってない」
「トラウマ抱えてそうな台詞だね」
 那智は笑うが、皓弥にとっては仕方ないだろと言うしかない観念だ。
 犬、猫、鳥、ごくありふれた生き物たちは昔から皓弥を狙っていたのだ。
 彼らの爪や牙に襲われたことは一度や二度ではない。
 傷を負ったことも、命が危うかったことだってある。
 今なら冷静に斬れるが、子どもの頃はパニックに陥っていたものだ。
 自然と動物嫌いにもなる。
「トラウマだらけだ」
 苦々しい思い出がよみがえってくるのを抑えながら、少年を見やると何やら微かに首を振っている。
(何だ?)
 一体何を否定しているというのだろう。何か考え事でもしているのか、そのわりに瞳は一点を見つめて、ぼんやりとしている様子もない。
 震える唇が、言葉を作るのを見て皓弥はその視線を追って振り返った。
「駄目だよ」そう、唇が告げたのだ。斜め上にあるものに対して。
「マサ」
 振り返ったところにはランプのような形をした街灯が立っていた。そのてっぺんに鴉がとまっている。他の鴉より一回りほど大きな個体だ。
 機械音が濁ったような声は、そこから聞こえてきていた。
「マサ」もう一度声がした。今度ははっきりとそのくちばしが動いたのを見た。
 人とは口内の構造も声帯も違うためか、その性質は随分聞き取りにくい。
 マサ、とは少年の名前だろうか。
 那智はその鴉を見ると、コートの内側に手を入れた。
 そして黒い物体を取り出す。
「逃げろ!」
 少年が叫ぶ。
 その声量の大きさにも驚いたが、それよりも驚愕だったのは那智が手に持っていたものだった。
 拳銃だ。
 オートマチック製のそれは、鴉に銃口を向けた。
 片手で構え、那智はすぐさま引き金を引く。ピシュと空気を切るような音がしたかと思うと、飛び立とうと広げられた漆黒の翼を打ち抜いたのだろう、鴉がバランスを崩したようにくにゃりと傾いた。
 それでも墜落はせず、いびつな姿勢で飛ぼうと懸命に翼を動かす。
「止めて!!」
 再び引き金を引こうとする那智に、少年はしがみつこうとした。だがタイミングは遅く、二発目は鴉のもう片方の翼の付け根を貫いた。
 鴉はそのまま、翼を羽ばたかせることなく地面に叩きつけられる。
 しがみついてきた少年を那智はするりとかわした。
 バランスを崩して、少年は前屈みになり膝を折ってアスファルトに手を付いた。
「おまえはマフィアか」
 まさかこんなところで拳銃を見るとは思っていなかった。
 だが那智なら持っていてもおかしくない気がする。
 刀だけなく銃まで持ち始めると、歩く凶器も現実味が深まるところだ。
「本物じゃないよ。玉もプラスチックだ」
「お前が持ったら本物にしか見えない」
 偽物だと言われても説得力がない。日本は世界で最も銃の規制が厳しいので、そう易々と手に入るはずはないのだが。
「偽物だって。今回のためにゼミのやつから借りたんだよ。この前わざわざ手伝ってやったし」
「お前のゼミって変人多そうだな」
「まぁね」
「筆頭お前だろ」
「失礼な。俺は普通の部類だよ」
「嘘だ。俺が保証する」
 そんなやりとりをしながらも、那智はコートの内ポケットに銃を仕舞い、それがまた違和感がないので怖いところだ、掌を合わせた。
 刀の柄が、生まれてくる。
「止めて下さい!お願いだから!」
 鴉に駆け寄り、覆い被さるようにして少年が訴える。涙を零すが那智は刀の柄を握った。
 掌から生まれるそれは、引き抜くと氷のように透き通った美しい刀身を現す。
 研ぎ澄まされた、光を放つ刀。
 皓弥の背中にぞくりとしたものが走る。
 綺麗だと心揺らされると同時に、身体の芯が一瞬凍える。
「…聞いてやりたいのは山々だけど、次に殺されるのは俺だ。だからこのままにはしておけない」
 黙ってまま鴉を始末するだろう那智に代わって、皓弥がそう告げる。
「言い聞かせるから!人を襲っちゃいけないって!」
「鬼は人の言うことなんて聞かない」
「そんなことない!今だってこの子は!」
「いつかおまえも喰われるぞ」
 今はまだ鴉は少年の言うことを聞くかも知れない。だが血に濡れれば、肉の味を覚えれば、きっと少年の言葉を忘れてしまう。
 狂気に染まった鬼に、感情も思考もないのだ。
「いいんだ!僕はいいから!」
「よくないだろ」
 殺されてもいいと言う少年に、皓弥は呆れながら深く息を吐く。
「いいよ!僕がいなくなって悲しむ人もいないから!僕は必要とされてないから!」
 自棄になっている。大切なものが壊れていくのが恐ろしくて、自暴になっている。
 子ども特有の悲鳴に、皓弥は微かな苛立ちを覚えた。
 周囲を見えた上で叫んでいるのか。
 おまえは一人で生きているのか。そんな陳腐な台詞が浮かんでくる。
「おまえは必要としてんの?人から必要とされようって、してんの」
 声が尖るのが自分でも分かる。
 だが一度発した言葉は次から次へと溢れてくる。
 少年は何を言われたのか分からないかのように、皓弥を見上げた。
「誰かいなくなったらおまえは悲しいか?困るか?苦しいか?もしそんな人間がいるならそいつに聞きに行けよ。死んでもいいかって。それから言うんだな、その台詞」
 甘えにしか聞こえない子どもの叫びを、皓弥は冷たく切り離した。
 もし求める人が誰もいなければ、死んでもいいと誰もが口にすれば。
 その悲鳴を受け入れよう。
 冷静な眼差しで少年を見下ろす。
 今日か、明日か、もしくはずっと側にいられるのか。そうして怯え続ける生活を二十年続けてきた皓弥にとって、少年の言葉はあまりにも稚拙に聞こえたのだ。
 死んでもいい。そんな台詞が吐ける甘さは、殺される恐怖を味わったことのない人間が口にする。
(その甘さに嫉妬してるのかもな…)
 自分にはなかった甘えだ。
 八つ当たりのように思えて、深く息を吸って自分を落ち着かせる。冷えた空気が身体の熱を僅かに下げる。
「お前の友達を奪うことは悪いと思う。だが、鬼に何かを望んだことが間違いだ。その金髪の野郎、見たら人とは違うって分かっただろ?」
 皓弥などは遠くからでもあまりの禍々しさに気配で察知が出来るものだが、通常の人間でも何かしらの違和感があるものだと聞いたことがある。
 少年は力無く頷いた。
「危険だと思われるものに耳を傾けるなよ。じゃないと…」
 皓弥は言いよどんだ。
 死ぬぞ。と簡単に言えば、さらに少年を追い詰める気がしたのだ。
 友達を失う人に、これ以上の痛みを与えてどうする。もう十分だろう、という気持ちになる。
「もういいかな」
 黙って話を聞いていた那智が、声を挟んだ。
 皓弥が何と答えるべきか迷っていると、那智は刀を持っていない方の手で、少年の肩を掴む。
 鴉に覆い被さっていた小柄な身体は、いともあっさり後ろへと退き倒された。
 まるで投げるかのようだ。
「あ…」
 悲鳴を上げる間もなく、那智の刀は鴉を真上から刺した。すでに息が途絶える直前だった鬼は、びくりと痙攣を起こしたかと思うとすぐにその羽を灰へと変化させ始めた。
「あぁ…あ…」
 幻であるかのように、鴉の身体が灰へと果て、眩しい朝日に溶け消える。
 光に焼かれているかのようだった。
 少年は鴉の身体を持ち上げるが、その指から砂のように鴉が零れる。
「鬼だから、死体も残らない」
 それが鴉が鬼といういびつな存在であった証だった。
 皓弥がそう教えている言葉も届かないのだろう、見開いた少年の目には涙も浮かんでこない。
 見ている光景に、ついていけないようだ。
「後味最悪だ…」
 舌打ちをしながら、皓弥は苦々しく呟いた。
「相手が子どもだから?」
 那智が気怠そうに刀を振る。くにゃりと形を歪めた刀は、そのまま霞みのように存在を消してしまった。
「罵詈雑言吐いてくれると、斬りやすい。放置しやすい」
「なるほど」
 襲ってきたのなら、罵ってくれたのなら、こちらも冷静になれるのだ。
 だがこうも情を訴えられると、無下に斬るのが少しだけ後ろめたい。
 見過ごすわけにはいかないので、何を言われても斬ることに変わりはないのだが。
 アスファルトに座り込み、嗚咽を零し始めた少年から目をそらし、皓弥はマンションの入り口へと足を向けた。
 立ち尽くしていても仕方がない。
 もう鬼は斬ったのだ。
「…あの子、鬼になったりしないのか?」
 鬼に変じるための手段が、鬼と接触することらしい。
 あの鴉が鬼らしき者に血をもらったのと同じように、人でも鬼と出会えば、同じように成り果ててしまう可能性が出てくるようだ。
 本人の元々の素質のようなものも関係あるだろうが、あの少年は鬼と関わりすぎた。
 そして友達を失った今、悲しみのどん底に落ちている。それを元に鬼へと変わってしまうのでないだろうか。
「なるかもね」
 皓弥の疑問に、那智はさらりと答えた。
 関心がなさそうだ。
「そうなったら真っ先に狙われるのは俺だな」
 鴉を奪った人間でもあり、この血は魅力的だ。
 あの少年が鬼になれば、まず皓弥を殺しに来るだろう。
「なんなら、鬼になる前に始末しておこうか」
 マンションの入り口を通っている際、那智が何でもないことのように口にした。
「殺人になるぞ。人間斬っても灰にはならないだろ」
「まあね」
「近所っていうのが、面倒だな」
 これで土地が離れているのなら、まだしも。
 少年はこのマンションに住んでいるのだ。
 エレベータのボタンをボタンを押し、開いたドアに乗り込みながら気分は沈んでいった。
「引っ越す?」
 那智は気軽に言う。だが大学などの関係があるためやはりこの近くということになりそうだ。
 それ以前に、荷物を纏めるのが面倒だ。
 皓弥は整理整頓というのが得意ではない。
 考えるだけに憂鬱だった。



 


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