八




 
  面倒だ、面倒だとは思いながら、引っ越しのことは頭の中に置いていた。
 エレベータなどに乗り込む際には、つい少年の姿を探してしまう。
 気にするくらいならもういっそ別の部屋を借りようか。と思った頃、何気なく郵便受けを見ると、少年の部屋の名前が空白になっていた。
 人の名前を覚えるのは得手ではないが、つい記憶していたのだ。
 それがなくなっており、管理人にそのことを尋ねた。
 すると引っ越しをしたらしい。
 あのことがあってから半月しか経っていない。まるで逃げるかのような引っ越しだ。
 現に怯えて逃げたのだろうが。
 こういう行動は早いようだ。
「かなり怯えてたからな」
 部屋に帰り、晩ご飯に支度をしている那智の背中に、そのことを報告した。
 那智の前で震えていた小柄な少年を思いだしては、気の毒に、と未だに思う。
 鬼などに遭わなければ、こんな人種に関わることもなかっただろう。
「良かったね」
 出刃包丁で魚の内臓を取りながら、那智が大して興味もなさそうだった。
 それにしても、料理人になるつもりもない男がこれだけ器用に魚をさばいているというのも面白い光景だ。
「始末する手間がはぶけて?」
 鬼になる前に始末しようか、と平然と言った那智を忘れてはいない。
 本気なのかどうかは計りかねるところだが、やれと言えばやりそうな雰囲気ではあった。
「そんなことより、京都に行く気はない?」
 ころりと那智は話題を変える。唐突な地名に、皓弥は「は?」と首を傾げた。
「なんで京都」
「ちょっとした挨拶だよ」
「誰に?」
 那智は内蔵を取り終わった魚を、深めのフライパンに入れた。
 煮魚にするらしい。
 切ったショウガも一緒に入れている。
「それはちょっと言えないなぁ」
 那智は手を洗い、それから冷蔵庫を開いた。
 他に何を作るつもりなのか、今日の献立は聞いていない。
「でも皓弥の役には立つと思う」
「何だよ」
「手がかりだよ」
「何の?」
「面喰いの」
 ひくり、と心臓がひきつった。
 その名前は皓弥の内側を逆撫でする。
 不快な思いがぽつりと浮かんできた。
「…いつ行くんだ」
 自然と低くなる声を、今更誤魔化す気はない。
 否応なく込み上げてくる苛立つを隠さなければいけない相手ではないからだ。
 睨み付けるような視線に気が付いたのか、那智は豆腐を片手に皓弥を振り返る。
「いつがいい?暖かくなってからにする?」
「大学の休みの間がいいんだが」
「そうだね。どうせならいい宿取って何泊かしようか」
 京都と言われて想像する寺が幾つかある。
 言ってみたいという漠然とした希望を持っていた場所だ。それがいきなり現実味を帯び始めた。
 面喰いに対して抱く嫌悪を押さえ付けようと、意識を別のところに持っていった。
 実際に面喰いと会うわけではないのだ。
 情報を得るだけにすぎない。
 それに今から殺気だっても疲れるだけだ。
「見たいところがあるんだが」
「いいよ。付き合いましょう。どんなトコ?」
「寺」
「渋いなぁ」
 那智は笑いながらまた背を向けて、包丁を握った。
 万能包丁だ。
 手の上で豆腐を切るらしい。
 皓弥にしてみれば、なんでわざわざ手の上で豆腐なんか切らなきゃいけないんだよ。と見るたびに思うのだが。
「他には?」
「神社」
「それ以外」
「…別に」
 京都には詳しくないので、それ以外のところと言われても急には出てこない。
「祇園とかは?座敷遊びがしたいとか思わないの」
「一見さんお断りだろうが」
「行けるなら行きたい?」
「いや、別に」
 舞妓芸妓は遠目からちらりと見るだけでいい。
 ああ、綺麗だな。という感想を抱くくらいで十分だ。
 座敷に上がってまで相手して欲しいとは思わない。
 堅苦しそうなイメージがある上に、人と接するのがあまり好きではないというのに、客になってまでわざわざ知らない人間と接するのは気が進まない。
 第一、座敷遊びなど、何をしているものなのか。
「成人男性としてそれはどうかと思うけど」
「美人はべらせて楽しむような趣味はねぇな。それ以前に座敷は知的なものだろう?格式のあるところは似合わない」
 あまり惹かれない皓弥に、那智は小さく笑ったようだった。
「俺だけいればいいって?」
「馬鹿かお前は」
 何をどうとればそんな考え方が出来るのだろう。
 突き抜けた思考はいつものことだが、やはり呆れてしまう。
「なら宿だけでもしっとりしたところにしようか」
「普通でいいだろ」
「温泉付きにしよう」
「は?なんで温泉なんだよ」
 京都に温泉メインで行く人など聞いたことがない。観光メインであり、温泉を気にする場所ではないだろう。
「もちろん部屋にちゃんとした風呂がついてて」
「なんで部屋にちゃんとした風呂なんかいるんだよ」
「浪漫でしょ」
「いかがわしい」
 シャワーなどがついている部屋ならともかく、那智の口振りからして、露天でもついていそうな部屋を取りそうだ。
 露天など、宿に一つついていれはいいほう。むしろ露天でなくても大きめの風呂が一つあれば良い。
 それをわざわざ風呂付きにするなど、余計なことを画策しているとしか思えなかった。
「普通の部屋でいい。普通で」
 京都に行ってまで風呂で何やかんやをやられたくはない。
 冷たく言い放つが、那智は諦める気はないらしい。
 機嫌良く、今度は油揚げを冷蔵庫から出してきた。
 みそ汁を作るらしい。
 平穏な時間に、皓弥はふと母親の背中を思い出した。
 彼女もこうして料理をしていた。
 鼻歌を歌いながら、みそ汁はきのこ類が多かった。椎茸やまいたけをいっぱい入れて、みそ汁がきのこばかりになってしまうこともあった。
 懐かしい味を、舌の奥が覚えている。
「…その人は、面喰いを知っているのか?」
 手かがりを持っているという者がどんな人柄なのか気になった。
 そして那智が今まで何故その人の元に行かなかったのか。
 理由が、あるのだろう。
「さあ?でもたぶん」
「曖昧だな。だから今まで行かなかったのか?」
「ああ」
「…同業者?」
 鬼を斬る者だから、面喰いを知っているのだろうか。
 そう思ったが那智は「違う」と否定した。
「行ってみれば分かる」
 話を聞くより、会った方が早い。ということなのだろうか。
 豆腐、油揚げ、ネギ、というオーソドックスなみそ汁が作られていくのを眺めながら、きのこが食べたい、と思った。
 だがみそ汁ではなく、別の調理で食べたい。
 失ったものと同じものを求めるのは空しいだけだと、分かり切っていた。
「明日は、しいたけの肉詰めがいい」
 食事にあまり関心がないというのに、珍しくリクエストをした皓弥に、那智は意外そうな顔をしてから機嫌良さそうに微笑を浮かべた。






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