六




 
 結局、鴉をどうするのかという結論を棚に上げたまま、その日はベッドについた。
 大人しく睡眠に浸っていたのだが、ふと近くで動く気配を感じて目を覚ました。
 那智が起きあがったのだろう。
 二人で寝ていると、相手が寝返りをうったり、起きあがったりすると目を覚ましてしまうということがある。
 だが那智は気遣って起きているらしく、滅多に皓弥が目を覚ますことはない。
 しかし今朝は違ったらしい。
 音を立てて上半身をさっと起こすなど、苛立ったような感さえある。
 どうしたのだろうとうっすら目を開けると、案の定那智は窓を睨み付けていた。
 肉食獣を思わせる、鋭い眼差しが見ているものは何なのか。
 視線を辿らなくとも分かる。遠くから鴉の鳴き声がするからだ。
「うるさいな」
 耳障りなのか、那智は冷淡な声でそう吐き捨て、ベッドから下りた。
 黒無地のパジャマを着て髪を掻き上げる男は、見慣れない表情を浮かべる。
 感情のこもっていない、ただ機械的なものだけがそこにはあった。
 鬼と対峙している時に那智はよくその表情を見せる。
 目の前にいる鬼をただ斬るだけの刀。目障りだから、仕事だから、食事だから、そんなことすら窺わせない。
 寝起きに見ると、背筋が凍えてぶるりと震える。
 本能が危険だと告げた。
(怖い男だな…)
 那智がその気になれば、きっと皓弥などこの瞬間にでも殺されている。
 それなのに、その腕は真綿のように柔らかなのだ。
 見上げてくる視線に気が付いたのか、那智は皓弥を見下ろした。
 すると途端に表情が戻ってきた。
 刀が、人に戻る。
「斬ってくる」
 氷を張るのではないかと思われるほど冷たかった声まで、今は人肌程度に感じられる。
 スイッチで人格が切り替わっているのではないかと思わされる。
「皓弥はそのまま寝てていいよ」
 低血圧で、朝が弱い皓弥を気遣っているのだろう。
 寝起きは喋りもしないのだ。動くはずがないと判断したようだ。
「…でも」
 ぽつりと呟く。喉に張り付くようで、声が上手く出せない。
 寝起きはこれが一番嫌なのだ。
 眠っていたため喉の調子が万全でなく、ちゃんと声が出てこない。はっきり発音したいのに、こもってしまうのが癇に障るのだ。
 不快感が気怠さに混じって生まれてくる。眠りたい、と身体は言っているのだが、頭の芯は冴えていた。
「これは仕事じゃない。ただ目障りだから始末してくるんだよ」
 皓弥が請け負った仕事に責任感を感じていることを、那智は知っていた。
 受けた以上、金をもらうのならばちゃんと鬼を始末する。自らの手で終わらせるということだ。
 力の差からして那智が仕事を遂行したほうがずっと能率も、成功の確率も高く安全だ。しかし、安穏と人に守られて生きていくことを、皓弥は良しとしない。
 自分の仕事は、自分で決着を付ける。それを那智も尊重してくれているわけだが。
 今回は仕事として請け負っているわけではない。ただ近所でこんなことがあって、迷惑しているというだけの話だ。
(でもおまえ一人だと、あの少年まで始末しそうじゃないか…)
 今少年が何処で何をしているのかは知らない。
 自宅で眠っているという可能性が一番高いだろう。ちらっと見た時計はまだ午前六時前を指しているのだから。
 道理で外が暗いわけか、と納得しながら皓弥はじっと那智を見上げる。
「…置いてくのか」
 意外な台詞だったのだろう。那智が瞬きをした。
 無理もない。寝起きで喋っている上に、自分から出掛けようとしているみたいなことを言い出したのだ。
 冬場は特に冬眠するんじゃないかと思われるほど、ベッドに籠もりたがるというのに。
「一緒に行っても危険なだけだ。俺は器用だけど、腕は二本しかないからね」
 複数の鴉が一斉に襲ってきた場合、対応に限りがある。と那智は暗に言った。
 それはそうだろう。
 いくら那智でも、一気に十羽も襲ってくれば、困るだろう。
(…たぶん…困る…だろうな)
 しかし実際にどう困るのか、と考えても想像が付かない。
 那智が苦戦しているところを未だ見たことがないのだ。
(でも俺にも腕があるってことを、忘れてないか?)
 皓弥にも那智と同じく、二本の腕があり、それは刀を握ることを知っている。
 斬ることを知っているのだ。
 それを軽んじられているような気がして、少しだけ心がざわついた。
 那智にしてみれば、そんなものは話にもならないレベルなのかも知れないが、それにしても、皓弥はこの腕で自分を守っているのだ。
「部屋に置いてると…まずいんじゃないのか?」
 那智が皓弥を実家に連れていった理由をわざわざ引き出した。
 一人だけ安全な場所に置いて、さっさと始末してしまう。という那智の姿勢が今は受け入れられないのだ。
 機嫌が悪いのかも知れない。
「そうは言ったけどね」
 那智が苦笑した。
「もし硝子が割れたら、どうする?」
 ようやく声がまともに出せるようになって、皓弥は平常の調子を戻しつつあった。
 睡魔はもう残っていない。身体はまだ眠りから完全には抜けていないが、起きあがればわりとすぐに目覚めるだろう。
「…つまり、来たいって?」
 那智はまた髪を掻き上げた。
 呆れたような雰囲気だが、とげとげしさはない。
「別に」
 ここに置いていくのか。と言ったわりに、皓弥は素っ気なく返した。
 行きたい。と言えばいいのだろうが、ここ何日も那智に張り付かれて「鬱陶しい」と公言してきたというのに今更そんな言葉を言う気にはなれなかった。
「せめて来たいってくらい、言ってくれてもいいと思うんだけど」
 皓弥の我が儘に、那智が苦笑を深めた。
「お前が、ここに俺を一人置いても安心だって言うなら…構わない」
 ふぁ、とあくびをして皓弥はうつぶせになった。
 肘を立てて、短くなった髪を後ろへと払う。
 ちらりと横目で那智を見ると、深く息を吐いていた。
 気紛れな猫に振り回されている人間のようだ。
「それとも、たかが鴉でも苦戦するのか?俺とお前二人で」
 けしかけるような台詞に、那智は苦笑を好戦的な笑みへと変えた。
 自信に満ちた双眸が、皓弥を映す。
「するわけないだろう」
 断言しながら、那智は気位の高い気紛れ猫に降参した。


 空の端から光が零れているような、そんな薄暗い朝だった。
 薄い藍色を広げたような世界の中で、二人は並んで歩いていた。
 吐く息は白く、指先は凍えている。手袋でもすれば良かっただろうが、そうすれば刀が握りにくい。
 あの柄には素手で直接触れたいのだ。鼓動を確かめるかのように。
 鴉の鳴き声が降ってくる。幾つもの視線が痛いほどに刺さってくる。
 那智が隣にいるせいか、鴉は遠巻きに飛んでいるだけだった。
 喰わせろ。という声まで聞こえてきそうで、不快だ。
 マンションの裏手、ゴミを収集するスペースの前に一人の少年が立っていた。
 コートを着込み、頭上を見上げている。
 何を見ているのかは、考えなくても分かる。空にいるものは鴉だけだ。
 月などとうに沈んでしまっている。
 黒い羽が一枚、皓弥の目の前に落ちてきた。
 那智の手がそれを握っては、灰に変えてしまった。
 ちらりと横目で見ると、見下すような視線を少年に向けている。機嫌は非常に悪そうだ。
「何を待っているのかな」
 しかし声をかける段階になって那智は微笑を浮かべた。
 白々しい笑顔だ。目が全く笑っていない。むしろ氷河のように冷たく凍っている。
「あ…」
 少年は二人を振り返ると、目を見開いた。
 きっと皓弥に対して身構えたのだろう。
「鴉?」
「あの…」
 問い掛ける那智に戸惑いを色濃く見せながら、少年は視線を逸らす。
 怯えているのは明らかだった。
 拳を握り、目を彷徨わせている。逃げたい、そんな顔をしていた。
「今度は喰い殺してくるかもな。昨日は人を車の前まで追い詰めて轢き殺させたらしいな」
 びくりと大袈裟なほどに少年の肩が揺れた。
「おぞましい光景に、通行人は近寄ることも出なかった」
 畏縮する少年を前に、那智は静かに、穏やかささえある声音で語っていく。
 だがその作りだした穏和さが、鋭い眼差しによって威圧感を増す。
「何をさせるつもりだ」
 微笑は崩れない。
 それなのに黒い双眸は射殺そうとしているように少年を見下ろした。
「僕…何も…」
 少年の右足が僅かに後ろへと下がった。
 だが逃げ出すほどの勇気はないのだろう。足はすぐに止まってしまった。
「何もしてない?それなのに鴉が人を襲い始めるのか?」
「そんなこと…」
 責められ、少年が眉を寄せた。不当だと言いたげではある。だが言葉を続けることはなく、口ごもる。
「そんなことは知らない?だがあれが特殊なことくらい分かっているだろう」
 那智は頭上を顎で指す、微笑も消えてしまった。
 残っているのは、不快感も露わな男だ。圧倒的な存在感と高圧的な姿勢でこの空気を制している。
「あの子は特別だけど…でも、人を殺してるだなんて…そんな」
 嘘だ。
 皓弥はその表情に、そう直感した。
 俯いてはっきりとした顔は見えない。しかし後ろめたさを隠しているのは揺れた瞳孔に見えた。
 人を殺しているなんて、信じたくない。それが本音だろう。
「世間で騒がれているが、そんなことは関係ない?だが人語を話す鴉などすでに鴉ではない。鬼として成長しているということだ」
「人語?」
 皓弥一人が不可解な声を上げた。
 少年は目を丸くしてからすぐに唇を噛んだ。
 知られた。そんな衝撃を受けたような反応だ。
「あの鴉は人語を話すそうだよ」
 那智は口調を和らげて、そっと皓弥に囁いた。
 想像すると、ぞっとするものがある。あのくちばしから人の言葉が放たれるというのは、どうも異質過ぎる。
「あれは化け物だ」
 那智は何の感情もこもっていない様子で断言した。
 事実をそのまま述べた、というような態度に少年が首を振る。
「あの子は…そんなんじゃ…友達だよ…」
 力強く首を振るのだが、声はどうしても弱々しい。
「友達か。まぁ、いいんじゃないか、鬼だろうが、鴉だろうが、友達になれば。だが場所か悪い。こんなところであんなものを増殖されると目障りで仕方ない」
 投げやりに那智は言葉を放る。少年がどう思おうが知ったことではない、というのがありありと分かった。
「だが狙った相手が最悪だ。俺の主を欲しがるなんてな」
「主…?」
 聞き慣れない単語なのだろう。少年が訝しげな少しだけ顔を上げた。
 そして、皓弥と目が合う。
 察しが付いたのだろう、少年は「え…」と一声もらしたようだった。
 何も知らないような少年に、皓弥は溜息をつく。
 好かれているわけではないと、ようやく理解してくれただろう。
「俺は鴉に好かれていたわけじゃない。獲物として狙われてたんだよ」
「そんな…」
「あの目を見れば分かるだろ。好意的とは到底思えない」
 こうして少年と話しをしている間も、ぎらぎらと飢餓を丸出しにした目がこちらを見ている。
 気味が悪い。一瞬でも気を抜けば、あの鋭い爪とくちばしが襲ってくるだろう。
「でも、あの子は一度だって僕を襲ったり」
「おまえはいつから鴉を飼っている」
 鴉を庇おうとする少年の言葉を阻むようにして、那智が問い掛ける。
 出鼻をくじかれ、少年はちらに身体を小さくした。
「…半年くらい、前から…」
「ここ数十日で何かあっただろう。何に会った」
 那智は確信しているようだった。
 何かに会っただろう、と。そしてそれはきっと、鬼だ。
「それは…」
 少年はまた一歩後ろに下がった。
 勘弁して下さい。そんな顔をしているが、那智が許すはずもない。
 隣にいる皓弥にまで、威圧が伝わってきているほどだ。決して逃さないだろう。
「言えよ」
「秘密…なんです」
 泣き出すのではないかと思われるほど歪んだ顔で、絞り出された声。
 これが精一杯の抵抗なのだろう。
 那智は片方の口角を上げた。
 意地の悪い、嗜虐的な笑みだ。
 向けられた少年の顔には絶望が広がった。無理もない、皓弥でも目の前で見れば胃が縮んでしまうことだろう。
「どうやったら吐いてくれる?まず何から失いたい?」
「失いたいって…」
「指、耳、腕、足の順番でいこうか」
 少年が顔色を失った。
 随分バイオレンスな脅迫だ。
 しかし容易に頭の中で描ける拷問ではある。今すぐ、那智の指が動けば実行されることだ。生々しさに震え始める子どもを見て、皓弥は何度目かの溜息をついた。
「悪人丸出しだな」
 気の進まない展開だ。
 性根の腐った大人相手にやるならともかく、こんな気の弱そうな子どもにやるのにあまりにも悲惨だ。
 精神的な圧力は相当なものだろう。
「仕方ないよ。これは重要なんだ。どこのやつが出てきてるのか、場合によっては困ることになる」
 どうやら那智の中では、何かしらの思案があるらしい。
 この男の考えていることなど、皓弥には理解は元より予測も出来ないことばかりだ。
 肩をすくめて黙っておくのが良さそうだ。
(あいつが気の毒になってくるよ)
 見つかった相手が悪かった。としか言いようがないだろう。
 鴉が好きで、その鴉が人を襲っていたためにこうなったわけだが。直接的に少年が悪いかどうかなどまだ分からないというのに、こんな目に遭うとは。
 不運、とでも言うべきか。
「で、どこから失いたい?」
 冷ややかに問う那智に、少年は目尻に涙を溜めた。
 泣かれると、本当に気が滅入る。
 空を飛ぶ鴉を睨み付けて、罵声を浴びせたい気分だった。



 


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