自宅のマンションに戻ってきて、一階の郵便受けを見に行った。 那智はエレベータの近くで携帯電話で話をしている。 よく携帯電話が鳴る日だ。 郵便受けの中に入っているのはダイレクトメールばかりだ。 すぐさまゴミ箱に直行するそれを、とりあえずは一端手に取っていると、誰かが歩いてきた。 住人だろう。 パカリと郵便受けが開く音がした。 「あ」 驚いた声がした。 意外なものでも入っていたのだろうか。 気にしたつもりもないのに、視線が声のした方向に向かった。 横目で見たその人物には見覚えがあった。 (駐車場の…) 数日前に、那智が駐車場で鴉を鷲掴みしたところを目撃していた少年だ。しかも皓弥を見て目を見開いている。 どうやら驚きの声というのは、皓弥を見てあげられたものらしい。 顔を見あわせて、二人は固まった。 沈黙が流れ、どうにも気まずい空気になる。 お互い「同じマンションに住んでるなんて」と思っているはずだ。 (しらばっくれて、通り過ぎてやろうか) 十階以上あるマンションに住んでいる住人と、そんなに交流があるとは思えない。現にこの少年とも今初めて顔を会わせた。 まして、少年が手を掛けているところは二階の郵便受けだ。皓弥は八階。これだけ離れていればそうそう出会うこともないだろう。 「あの…」 気にしなかったことにして、さっさと立ち去ろうと思った途端、少年がおどおどした様子で声を掛けてきた。 だがその目は皓弥を直視するのを止めてしまった。 拳を握り、勇気を振り絞っているかのようだ。 人と接するのは、あまり得意ではないようだ。 必死さを思わせる姿に、通り過ぎようとした足が止まる。 「鴉、嫌いなんですか?」 初対面に近い人間に尋ねるには、随分妙な質問だった。 (那智が殺したからか…) 素手で始末しているところを見たから、鴉が嫌いでそうしたのだろうかと少年は思ったのだろう。 無理もない。鴉が鬼になりかけていたなど、少年は知らないのだから。 「……まぁ…」 元々あまりいい印象を鴉には持っていないのだが現状を見れば嫌い、嫌悪を抱いている、と言っても過言ではない。 鴉というより鬼が嫌いなのだが、一体化に近くなっているので致し方ない。 「そうですか…」 少年は肩を落として、俯いた。 全身から落胆の色が見えてくるようだった。心底残念そうだ。 (そんなに落ち込むことか?) まるで自分のことのように表情を曇らせる少年に、皓弥は内心首を傾げる。 何を考えているのかさっぱり分からない。 だが一つだけ察しがつくことがあった。 「鴉、好きなんですか?」 初めて言葉を交わすのなら、相手が年下、年上に関係なく皓弥は敬語を使う。 問い返され、少年は驚いたように目を丸くしたが、やたり視線は下のままだ。 「え…はい…友達、です」 ゆっくり、探るようにして少年は話す。 怯えているようだが、あんな場面を見てしまった以上仕方ないのだろうか。 「友達?」 「そうです、頭いいし…可愛いし…家に、遊びに来てくれます…」 ぼそぼそと少し聞き取りにくい喋り方なので、耳を澄まさなければいけない。 「鴉が?」 「餌とかあげてると…いつの間にか来るようになって…それで」 「へぇ…」 可愛いというところには同意出来ないが、餌付けすると通ってくるのは確かだろう。 知能が高いのも知っている。 ゴミ捨て場に捨てられた生ゴミの中身を判別して食べていることも、クルミなどを道路上に放置して車を轢いて割ってくれるのも待っている。というのも有名だ。 「懐くと、本当に可愛いんです」 一度も可愛いなどと思ったことがない皓弥が、怪訝そうな様子なのが分かったのか、少年は顔を上げて訴えるように主張した。 そんなものは個人の感性の問題だから、とさらりと流すのは許されないような勢いがある。 「そう…なんだ」 中学生くらいの少年をわざわざ冷たく突き放すこともないだろう、と曖昧に頷いた。 引き気味な皓弥に、少年がはっと気が付いたような顔をして、気まずそうにまた俯いた。 「ごめんなさい…」 もごもごと口の中で告げられた謝罪に「いや…」と皓弥も所在なく立ち尽くした。 「鴉が…貴方のところに行ってるみたいだから…鴉も懐いてるみたいだし……」 あれは懐いているわけではない。 喰いたがって寄ってきているだけだ。 懐いている生き物が、あんなぎらついた、飢えた目を向けてくるものか。 だが少年はそんなことは知らない。しかし苛立ちが生まれてきては、舌打ちしたい気持ちをぐっと抑えた。 「だから、俺に鴉が好きかって聞いたんだな」 「はい…」 全く見当はずれもいいところだ。 だが第三者から見ると、そんな風に取れるらしい。 「あんま動物とか好きじゃないから。まして鴉は」 「そう…ですか…」 鴉は特に、と強調されたことに少年は小さくなる。 これでは少年を責めているかのようだ。 しかしそれ以外にどう返して良いかなど分からない。 動物が好きじゃないことも、今は鴉が最も避けたい動物であることも確かだ。 扱いに困っていると、少年は皓弥を見ることなく「あの…じゃあ…」と言って背中を向けた。 どこかもやもやした感のあるやりとりだ。 引き留める理由も、気もないのでそのまま見送ったが、妙な罪悪感が残る。 何をしたわけでもないのに、苛んだかのような感覚だ。 「どうかした?」 通話を終えたらしい那智が郵便受けまでやってきた。なかなか帰ってこない皓弥を不思議に思ったのだろう。 「鴉が好きかって聞かれた」 「誰に?」 「二階に住んでる人」 「変なこと聞くんだな」 那智も同じようなことを思ったらしい。 鴉に困っている。迷惑している。という世間話なら日常的なやりとりなのだが。 その質問はやはり那智にしても異色だと感じるもののようだ。 「聞いたその人は、好きらしい。餌付けまでしてるって」 「近所に知られたらいい顔をされないな」 大抵の人間が顔をしかめるだろう。 「頭いいから懐くと可愛いらしいぞ」 「記憶力がまずいいらしいね。自分の巣を壊した人間を記憶しては、そいつが近付くたびに攻撃する。変装してもすぐに見破るらしい。他にも鴉を使った実験などによると、動物の中でもかなりの上位に食い込む頭の良さらしい」 二人は淡々と鴉の話をしながら、エレベータに乗り込んだ。 「それは厄介な相手だな」 感情のさして籠もっていない声で、皓弥が言った。 普段元々は人間だった相手を斬っているのだ、鴉くらい、という意識がある。 「さっき荻野目から連絡があった」 どうやら、那智がさっき携帯で話をしていた相手は荻野目だったようだ。 「なんて?」 「異常行動をとっている鴉については、リーダー格を一匹置いて、それを中心に集団で行動しているらしい」 「珍しくないんじゃないか?」 わざわざ改まって言うような情報なのだろうか。 皓弥のよく見ている鴉の生態のままであるようなのだが、那智は口角を少し上げた。 「鴉はリーダーを持たない生き物だ」 「そうなのか?」 「力関係はあっても、集団行動をとらない動物らしい。それがリーダー格を持って行動している。そいつが、鬼だ」 エレベータに乗ると、いつも重力に逆らって浮上していく微かな違和感を感じる。 機械が大きく作動している機動音が狭い空間で震える。 「鴉と鬼との中間、ではなく?」 「鬼だよ」 この周囲に飛んでいる鴉はどれも中途半端な存在だが、その中に一匹だけ完全に鬼へと成り果てた鴉がいるようだ。 「それが、他の鴉を妙な生き物として増やしてるのか」 「らしい。そしてその鬼と接触している人間がいる」 「ただの人間?」 「しかも少年」 チン、と軽い音を立ててエレベータの扉が開いた。 だが皓弥はすぐに出て行かず、耳に入ってきた情報に微かに目を見開く。 「少年って…中学生くらいの?」 那智はエレベータからマンションの廊下に出て、立ち止まったままの皓弥を振り返った。 「心当たりでも?」 「さっき下で会ったのが中学生くらいの少年で、そいつが」 エレベータが閉まる前に皓弥はゆっくり歩き出した。 「鴉は好きかって聞いてきたやつ?」 「すげー気弱そうなやつだったぞ」 人を襲う鴉に接触しているようには到底見えない少年だった。 皓弥と目を合わせるのも避けているようで、始終俯いていた。あれが鴉相手だと態度が全然違うのだろうか。 「実際にどんな人間なのかは不明だね」 皓弥の感想に、那智はあくまでも冷静だった。 足音がよく響く廊下を、部屋に向かいながら二人は小声で喋っていた。 あまり人に聞かれて都合の良いものではない。 「でも人間なんだろ?そいつは喰われないのか?」 人間を襲うのなら、その少年だって例外ではないだろう。 「どんな関係かはまだ分からないらしいから、何とも言えない。ただその鴉は天然でないことだけは確定した」 「天然じゃないってことは、誰かが…どこかの鬼が鴉を鬼に変えたってことか」 「だろうね」 「自分のペットだったならともかく、鴉なんか鬼にしても自分の食い扶持が減るだけなんじゃないのか?」 分からない連中ばかりだ。 皓弥がぼそっと愚痴を言う。 鬼の考えていることなど理解出来ない。そう言い切れば良いのだろうが、非常に苛立たしいことに鬼と人との思考に大差はない。 だからこそ、余計に意図が掴めないことに落ち着かなくなる。 「今から乗り込んでみようか」 部屋の前に辿り着くと、那智が鍵を開ける。だが中には入らず、そこで止まった。 「皓弥が会ったっていう少年に」 「人違いならどうする」 あくまでも一部の情報が一致しただけで、顔を見たわけでも、他の詳細なデータがあるわけでもない。 それだというのに、二階にあるらしい部屋にまで押し掛けて、あの鴉について聞くのはどうも軽率だ。 「その可能性もあるけど、鴉が集まる場所の中心がマンション付近らしい」 「最悪だな」 皓弥はあからさまに顔をしかめた。中心地ということは、最も危険なところに住んでいるということだ。はた迷惑この上ない。 「おそらくその少年だろう」 「だとしても、違った場合がまずいだろ」 皓弥が行け、と言えば那智はすぐにでも少年に会いに行きそうだ。 だが早すぎる判断を、皓弥は渋る。 「とりあえずそのリーダーを潰せばいいんだろ?」 「そうだね。他は放って置いても正気には戻る」 だが、と那智は一言付け加えた。 「始末するにしても、飛んでるから捕まえられない」 「確かに」 皓弥は考え込むが、いい案など早々に浮かんでくるものではない。 諦めて肩をすくめ、那智の隣をするりと抜けた。 玄関に立っていても仕方ない。 部屋の中に入ると、那智も一時保留することにしたらしい「ヅラ買ってくれば良かった」と気の抜けるようなことを呟いた。 次 |