一メートル四方ほどの、白い布の上に正座をしていた。 ハサミが髪を切るしゃき、しゃきという音がはっきり聞こえてくる。 細い指が時折髪を梳く。 人に触れられるのが嫌いな皓弥だが、春奈の指に不快感は込み上げなかった。 少しだけ、母親の手つきに似ている気がしたかも知れない。 「さらさらで綺麗な髪」 「はあ」 「羨ましがられるでしょう?」 「いえ、そんなことは…」 皓弥の周囲に女性と言えば荻野目くらいしかいない。 だが荻野目は人の髪を羨ましがるような女性ではない上に、彼女の髪もまっすぐで艶やかなのだ。 (ああ、でも春日は羨ましいって言ってた気がする) 自分の髪もさらさらして、艶もあるというのに人の髪を羨ましいと思うなんて、女は欲張りなんだな、と思った記憶がある。 「手入れはしてる?」 「してません」 即答した。 那智の買ってくるシャンプーを使っているだけだ。たまにトリートメントを強制されている。 どうして髪にいちいちそんな気を使う必要が…と思うのだが、やらなければうるさいのでたまに渋々やっている。 「それで艶があるなんて本当に綺麗な髪ですよ。切るのが勿体ないくらい」 春奈は手を止めた。 後ろは振り返れないので分からないが、きっとまじまじと髪を眺めているのだろう。 勿体ないと言われても、すでに切り始めているのだからバランスの取れた髪型にして欲しいのだが。 止められると困る、と思いながら皓弥はじっとしていた。 すると「入ってもいいか?」という声がかけられた。 低く、悠然とした声だ。 「どうぞ」 春奈の返事を聞き、開かれた襖の向こうには和装の男が立っていた。 青磁色の着物をきっちり着こなし人は、皓弥を見て目元を和らげた。 厳しい容貌が一気に柔らかなものに変わった。 那智に似ている。 五十ほどに見える、白髪混じりの昇司は那智の三十年後に見えた。 刀という同じ生き物だからか、それとも祖父だからか、とてもよく似ているその人の微笑が皓弥にとっては非常に印象的だった。 「髪を切っているのか?」 「そうなの。これじゃ長いんですって」 昇司を見上げると、落ち着いた眼差しが返ってくる。 祖父母というものに一人も会ったことがない皓弥にとって、老人の域に達した人から穏和な目で見られるのはどうも慣れない。 だが視線を逸らす気にはなれず、見つめ合った状態になってしまう。 「どこまで切るんだ?」 「肩に、付くくらいで」 母より随分短くなるが、どうせ髪などすぐに伸びる。 空しいことに。 「そうか」 昇司はその目を、白い布の上で散らばる短い髪に落とした。 「勿体ない気がするな」 何気なく言った一言が、皓弥にとっては意外に感じられた。 男の長髪など、気にくわないと一蹴してしまいそうな人なのに。 「でしょう?」 春奈も同意を得たことに、気をよくして声を弾ませた。 「男の髪ですよ?」 二人して惜しがるのも妙な話だ。 放って置いても勝手に伸びる髪を、皓弥はいちいち惜しまない。むしろ伸びてこなければ手間がかからなくていいのに、と思うくらいだ。 それを人に勿体ないと言われ続けると、なんだかむず痒い。 「綺麗な髪だ。伸ばし続けてもいいだろうに」 昇司は皓弥の近くに座り、布に落ちている髪を一本摘んだ。 節のある大きな手は少し乾燥しているように見えた。だが実年齢の七十には到底見えない手だ。 首や手は年齢を誤魔化せないと聞いていたが、この人達にはそれすら通用しないらしい。 「男が髪なんか伸ばすなって、言う人かと思ってました」 素直なことを口にすると、昇司は口元を緩めた。 「他の男ならそう言っただろう」 「ならどうしてですか?」 「君の髪は綺麗だ」 真面目に言われ、皓弥はどう反応していいものか、迷ったあげくに「はあ」とまた気の抜けた声で答えた。 「あいにく髪が綺麗な男というのは君の他に知らんのでね」 そう言いながらも、他の男が長髪ならその美醜に関わらず「切れ」と言い出しそうなのだが。 その考えは、那智の言動が頭の中でちらつくからだろうか。 (俺に対する態度まで、祖父と孫で似てるなんてことはないよな) 似てるのは顔だけで十分だと思う。 その上甘やかし上手なところまで似ていると、皓弥としても居心地が良いのか悪いのか分からなくなってくる。 「シャギーもちゃんと入れておきましょう」 春奈は今まで切っていた物とは違う、別のハサミを手にした。 色々種類があるのか、などと皓弥には思えたのだが、使い道によって刃の種類があるらしい。 「あの、そんな手間かけなくていいですから」 「何言ってるの!ちゃんと切らなきゃ、せっかくこんなに」 「男の髪にそんな何度も綺麗なんて言わなくていいですから」 もう二人の口から綺麗な髪だと言われるのが気恥ずかしくなってきて、皓弥は先に制した。 すると春菜は不思議そうな声で「どうしてですか?」と尋ねてくる。 本気で首を傾げているのだろうから、返答に困ってしまう。 「なんか、喜んでいいのか、何なんだか分からなくなるんで」 「綺麗なことは喜んでいいんですよ?男も女も関係なし。私は本気でそう思って喜んでいますから」 「喜んでいるんですか?」 人の髪が綺麗で、どうして春奈が喜ぶのか。 分からずにいると、春奈の笑う気配がした。 「だって、綺麗なものって見ていて嬉しくなりませんか?」 大袈裟だ。 そんなに綺麗な髪を持った覚えはない。 反論する気も萎えてしまうような言葉に、皓弥は苦笑した。 春奈は丁寧な手つきで髪を梳いては、シャギー用のハサミで髪を整えていく。 伸びるまま放置していた髪が、手早く切られていった。 前髪を切る段階になって、春菜が皓弥の前に回ってきた。 「目を伏せていて下さいね」 そう言われ、皓弥はまぶたを下ろした。 まぶたや頬の上に髪が落ちていくのが分かる。 それを柔らかな指が払ってくれた。 「もういいですよ」 目を開けると、春奈がにっこりと笑っていた。 「鏡見ます?」 B5サイズほどの鏡を手渡され、覗き込む。 そこには懐かしい姿が映し出されていた。 肩に触れる長さになった髪は、かなりすかれてボリュームがなくなっている。 もともと真っ直ぐな髪なので膨らんでいる感じはなかったが、それがさらにすっきりした。 「上手いですね」 正直短くなれば、多少違和感があってもいいかと思っていただけに、予想以上に整えられた髪が驚きだった。 美容師の専門学校でも行っていたのだろうかと思わされる。 「でしょう?これでも素人なんですよ」 「本当に?」 「そうそう。美容師の友達にコツは教えて貰ったけど。これなら安心して任せられるでしょ?いつでも言って下さいね」 皓弥の肩にかかっている髪を払いながら春奈が自慢げに言う。 「すっきりしたな」 昇司も短くなった髪を眺めては満足そうだ。 勿体ないとは言っていたが、切ったら切ったで気に入るらしい。 「もっと切ったほうが鬱陶しくないんですが」 それでも母親との類似がなくなってしまう、と口ごもる皓弥に昇司は「いや」と微笑む。 「これはこれで良い」 何をしてもそう言ってくれそうな気がして、皓弥はくすぐったくなった。 まるで自分の祖父のようだ。 肉親は母親しか知らないのだが、もしいるとすればこんな風なのだろうか。 人の家族だというのに、少しだけ近く感じられる。 きっと春奈も昇司も皓弥を受け入れようとしてくれているからだろう。 「ありがとうございます」 春菜だけでなく、昇司にもそう伝える。 すると二人とも小さく笑い返してくれた。 穏やかな空気の中、車の排気音が聞こえてきた。 聞き慣れた音だ。 「帰ってきたな」 那智の帰宅に、昇司が立ち上がる。 姿勢を乱すことなく、すっと立ち上がる姿は年を感じさせない。 襖を開けては、那智を迎えに行ったようだった。 「早い…」 予想では後一、二時間は帰って来ないものだと思っていたのだが。 皓弥は首を傾げる。 「急いだんでしょうね」 春奈はのほほんとしていながら、ハサミや櫛などを片付けていた。 「なんでまた」 安全な場所だと、那智が確信して連れてきたところだ。 そこに皓弥がいるというのに、一体急ぐ必要がどこにあるというのか。 「気に掛かるからでしょうね」 「あいつが連れて来たのに」 心配性というか、身勝手というべきか。 とにかく呆れることだけは確かだった。 あのアホ、と呟くと遠くから話し声が聞こえてきた。 「早かったな、半日戻らなくとも良かったというのに」 「これでも時間がかかったほうだ」 昇司と那智の声だ。 一人は機嫌が良さそうだが、もう一人は不機嫌この上なく、地を這っているような声だ。 もちろん、苛立っているのが那智である。 「半日なんて冗談じゃねぇ」 皓弥といる時よりずっと荒々しい言葉遣いになっている。だがそれは昇司を嫌っているわけではなく、むしろ自分と近い者に対する親近感によるところから来ているものだ。 昇司といる時の那智はとてもくつろいでいるように見えるから、分かる。 「何なら、皓弥君は当分うちに泊めるか。そのほうが安全だろう」 え、と皓弥が驚きの声を上げる。 そんなことは聞いていない。 いくらここが安全でも、たかが鴉相手にそこまでする必要があるのだろうか。 過保護過ぎるのは昇司も同じということなのだろうか。 (お願いですから、そんなところまで似てないで下さい!) 居心地が良くても、所詮は人の家。自宅が一番楽に決まっている。 ちょっと待ってくれ、と制止をかけたくなった皓弥を後押しするように、那智の不愉快そうな声がした。 「ああ?いらねぇよ。第一寒いっての」 「寒いならお前一人で帰ればいいだろうが」 「ふざけんなクソジジイ。寒いのは皓弥だ、寒がりなんだよ」 (そんなことは言わなくていい!!) 確かに皓弥は寒いのが苦手だ。だがそれ以上に暑さに弱い。 というか、そんなことより先に、人の体感温度を気にして話をしないで欲しい。 「寒がりなんですか?」 春奈の無邪気な質問に、皓弥はとうとう撃沈してしまった。 「…はい」と答える声も力が抜けきっている。 「こんな底冷えするところに長期泊めら」 れるわけないだろ、、とでも言いたかったのだろう。 だが襖を開けた那智は、そこで止まった。 皓弥を見ては目を見開いている。 「も…ったいない!」 「三人して言うことは一緒か!!」 驚くのは分かる、だがどうしてそうも同じ台詞を吐くのか。 血が繋がっているというとは恐ろしい。 「なんで切ったんだよ」 皓弥が立ち上がるとはらはらと布の上に落ちる髪を見て、那智はかなり残念そうだった。 人の髪などどうでもいい、という感覚は皓弥だけのものなのだろうか、と疑問を抱くほどだ。 「長かったから」 「じゃあなんで俺に切らしてくれなかったの」 不満そうな目で、那智は春奈によって片付けられていく布を眺めている。 その役目は俺だったのに、とでも言う出すのではないかと思われた。 「春奈さんが切ってくれるって言ってくれたから、それならって流れで切ったんだよ。別に切ろうなんてことさっきまで思ってなかったし」 なりゆきでのことだ。 すぐにでも切りたい!などと思っていたわけではない。 あー、そろそろ切らなきゃな、という程度だったのだ。 「ずるい」 不服この上ないという目を春奈に向けて、那智は舌打ちをした。 大学に行かなければ良かった。 そうありありと顔に書いてある。 「役得よ」 ハサミをしゃきしゃきと動かしながら、春奈は笑う。 「やられたなクソガキ」 不機嫌な那智を挟んで、二人はにこにこと楽しげだった。 仲の良い家族に見える。人とじゃれ合うという那智はそう見られるものではない。 新鮮な光景を皓弥はただ眺めていた。 他人、という気持ちを強く感じた。 「くっそ…次は絶対俺がやるから」 少し離れた場所から傍観していた皓弥を引き入れるかのように、那智に声を掛けられる。 だが春奈が隣で「あら」と瞬きをした。 「那智は人の髪を切ったことなんてないでしょ?」 「やれば出来る!」 「うっわ、信用出来ねー」 家事は器用にこなしているが、それと髪を切ることはまた別だ。 一度もやったことがない那智に切ってもらうより、春奈に切ってもらったほうがいい。上手いということは今実証されたのだから。 「俺が器用なの知ってるだろ?なんなら帰りにヅラ買って証明しようか?」 那智の目は本気だった。 ヅラの二、三個は平気で購入しそうだ。 「なんでそこまでこだわるんだよ」 「だってせっかく綺麗な髪なんだから、俺が切りたい」 那智の口からもその言葉を聞いて、皓弥は溜息をついた。 「また綺麗とか言うし」 この家族は人を誉め殺しにしたいのだろうか。 髪なんかどうでもいいと言い切ってしまうのが申し訳ないほど誉められて、皓弥は多少の居心地の悪さに苦笑を浮かべた。 次 |