畳の上に正座をして、足は短く、黒く艶のある座卓を前に皓弥は目を伏せた。 その視線の先には、薄緑の温かなお茶がある。丸い湯飲み茶碗を掌で包みながら、深い溜息をついた。 「俺は幼児か…」 木々のざわめきが微かに聞こえた。 風が吹いたのだろう。 そんな小さな音が襖の向こうから聞こえるほど、ここは静かだった。 お茶から上がる湯気。実に芳ばしいにおいだ。 それで気持ちは落ち着くが、癒されることはない。 那智に連れてこられた場所、ここは確かに安全だろう。 先代の刀、そして狩る力を持っている人が住んでいる家。蓮城本家なのだから。 「相手が悪いからですよ」 刀ではないものの、どうやら鬼を狩る力を持っているらしい人が、茶菓子を静かに皓弥の前に置いた。 微笑を浮かべるその女性は、一見三十歳前に見える。だが実際はそれより十以上年上、四十半ばくらいだろう。 二十三歳の那智を生んだ母親なのだから。 (いつ見ても驚異だ) 皓弥の母もぱっと見たところ三十手前にしか見えなかった四十過ぎだ。いつも姉弟に間違われていた。 それを知っているからこそ、まだ受け入れられるのだが。 他の人ならば疑いをなかなか払拭出来ないだろう。 「複数体だと、やっぱり分が悪いものですからね」 那智の母、春奈はそう言って急須を手に取り、自分の湯飲みにそそぐ。 細い手が急須の蓋を抑えるのが優雅だ。 「だからってわざわざここに連れてきますか?」 呆れ果てて、抵抗する気も起きなかった。 大学に行くため、那智は皓弥をここに連れてきたのだ。 鴉から遠ざけるためと、もし鴉が襲ってきても安全であると確信出来るのがここだったのだろう。 祖父と母。どれだけの力を持っているのか熟知しているからこそ、そうしたのだろうが。 連れてこられた皓弥は恥ずかしいやら情けないやらで、小さくなるしかなかった。 春奈も、先代刀の昇司も歓迎してくれたのだが、那智の過保護ぶりには笑っていた。 「ここなら安全ですから。父はもとより、私も刀の血を受け継いでいます」 「春奈さんも…鬼を喰ったりするんですか?」 刀は鬼を喰う。 だが刀ではない春奈はどうなのだろう。その血を受け継いではいるのなら、鬼を喰わねば発狂するのだろうか。 「食べますよ。さすがに刀を掌から生み出すことは出来ませんが」 「じゃあ、どうやって?」 那智は掌から生み出した刀で鬼を斬ることによって、喰っているらしい。 鬼は斬られると灰になって消えていく。あれは喰ったために起こる現象のようだ。 だがそれがないとなら、どうやって喰うのだろう。 「人と同じように、刀などで斬ります。素手でもいいんですが、手が痛くて」 春奈は微笑みながら、手の甲をさすった。 刀は全身が凶器だという。触れれば、触れた箇所から鬼を喰い殺す。それと似ているのだろう。 那智に顔立ちは似ているが、数十倍穏やかな春菜がそうして鬼を喰っているというのは、どうも信じがたいところがある。 「ちょっと想像付きません」 「そうですか?結構危ない人なんですよ、私」 柔和な笑みを見せられ、どこが危ないのだろうかと思ってしまう。 こうして向かい合っていると、春奈はふと笑みを深くした。 それは那智が時折見せるものと似ていた。 異なるのは、その瞳には穏和なものしかないというところだろうか。 那智がその笑みを見せる時は、優しさと甘さが綯い交ぜになっている。 そして睦言を囁くのだ。 (いらんことを思い出してしまうな) 人前で思い出したくないような記憶が浮上してきそうで、皓弥はまた湯飲みの中身に視線を落とした。 「那智が貴方をここに連れて来たのはね、安全を考えたせいもあるけど、前々から私がお願いしてたからだと思いますよ」 「お願い?」 「皓弥君に会いたいって」 目を春奈に戻すと、そこには懐かしそうな眼差しがあった。 「ずっと気になってました。美鈴さんのお子さんはどんな子なのかしらって。で、いざ一度会ったら、時々すごく気になってしまって、会いたくなる」 「そうなんですか?」 「迷惑かも知れないけどそうなんです」 「俺は、迷惑だなんて思いません」 春奈の視線は優しいから、皓弥は居心地がいいと思うことはあっても、不快を感じたことはない。 人に警戒を抱くのが自然なことになってしまっている皓弥にとって、絶対に安心出来る、この人は鬼にはならない、と思える相手は少なかった。 その分、一度信頼を置けばそれを覆すことはまずない。 「そう?でも那智は渋ってね。きっと君を誰にも見せたくないのね」 「あいつは…」 過保護で独占欲も強い男だ。 鬱陶しいと言えばそうなのだが、このごろは慣れてきていた。 気恥ずかしさは消えないが。 「ごめんね。でも嬉しいのよ。あの子、今まで何かに執着することがなかったから」 「そうなんですか?」 「執着どころか、何かに関心持つことも少なくて。きっと色んなことがどうでも良かったんだと思うけど」 「どうでもいいって…そんな風に見えないんですけど」 元々人に感心の薄い皓弥に比べれば、よほど周囲に気が付く男だと思っていた。 だがよく思い出してみれば、それは皓弥に関連していることが多い。 (俺が世界の中心か…?) 笑い話に出来そうだが、那智に聞けば真剣に肯定する気がした。 「皓弥君がいるから。だからあの子は今色んなものに関心を持って、周りを見ているの。君がいるから」 「はあ…」 「ありがとう」 春奈はにっこりと笑った。 「母親としては、やっぱり嬉しいです。那智は人とは違うからって分かってても、ああして生き生きとしているのを見ているのは、すごく嬉しい」 外見だけを見れば、母親とは信じられないような人だが、そうして微笑んでいると母親なのだと知らされる。 我が子が大切で、慈しみたいと願っている優しさが溢れている。 「俺は、何も…」 感謝されても皓弥は何もしていない。ただ自分のために那智に会いに行き、自分の保身のために刀を欲しがったのだ。それを思えば、感謝するのはむしろこちらのほうだった。 「いいえ。生きていてくれただけで十分。そして貴方を生んでくれた美鈴さんにも、すごく感謝してます」 春奈は持っていた湯飲みを置き、まじまじと皓弥を見た。 「本当にこうしていると美鈴ちゃんにそっくり」 さん付けがちゃん付けに変わり、懐かしむ春奈に苦笑する。 「よく言われます。母とは、親しかったんですか?」 「昔ここで一緒に暮らしてましたよ。ほんの三年ほどだけど」 「そうなんですか?」 初耳だった。 母は自分の過去をあまり語ってはくれなかったのだ。 どこで生まれ、どこに住んでいたのか、と聞いた時に蓮城の名も、それらしいことも一切聞いていない。 「母はあまり昔のことを教えてくれなくて」 「そう」 春奈が少し寂しげな微笑を浮かべた。 母は、この人が好きではなかったのだろうか。 こんなにも優しげな人なのに。 「髪を伸ばしているのは、どうしてですか?」 皓弥と話をする人の大半が聞いてくることを、春奈も問い掛けてきた。 そのたび適当なことを言って流してきた。 本当のことなど、とてもではないが言えなかったからだ。 だが春奈なら本当の意図を聞いても信じてくれるだろう。止められるかも知れないが。 「願掛け、みたいなもので…」 「美鈴さんの仇をとることですか?」 「…いえ、あの……」 仇をとる。そう言われれば、少しだけ抵抗があった。 確かにその気持ちは強い、血を吐くような思いで願っている。しかし、ただ母が死んだ、殺されただけならもう少しだけ、この痛みは小さかっただろう。 皓弥を最も突き動かすのは、同じ顔をした鬼が生きている。ということだ。 「母が、何に殺されたのか、御存知ですか?」 那智には話している。だが春奈の耳まで入っているかどうかは知らなかった。 だが、春奈は表情を少しだけ冷やした。 「面喰いでしょう?申し訳有りませんが、調べさせて頂きました。あの人が亡くなった理由を、私も知りたかった」 「いえ…」 調べられた。ということに動揺はしなかった。 無理もない。興味を示すのが自然だ。 それにこの人たちであるなら、このくらいのことを調べるのは容易なのだろう。 「それで、どうして髪を?」 「母は、長い髪でした。同じ顔、同じ髪なら、面喰いが何処で何をしているのか、少しでも情報が集まるんじゃないかと思って。似た人間がいたってなったら、人から話聞き易くなるし、印象にも残るかなって…」 微かな期待だった。泡より儚い。 だがそんな儚いものでも抱いてしまうほど、皓弥は切望しているのだ。 面喰いを殺すということを。 春奈の表情は暗い。止められるな、と皓弥が思うほどだ。 「面喰いを始末したいの?」 「存在していると思うだけで、吐き気がします」 いまこの瞬間でも、皓弥は指先が何を握ろうとして強張った。 刀の柄が、掌に吸い付くような那智の刀が欲しい。 目の前に鬼はいないというのに、面喰いのことを思い出すたびにそう感じる。 本音を告げると、春奈は頷いた。 「確かに。それで、君の手で始末を付けたいと」 「はい」 強く答えると、春奈は黙った。 口を閉ざし、柔らかだった眼差しは厳しいものになる。 試されているようなその視線に、皓弥の中に緊張が少しずつ広がっていった。 「私は勧められない」 「分かっています」 「でも君は変わらない」 「はい」 真っ向からぶつけるような視線を投げてくる春奈に、目をそらすことなくはっきり告げた。 曲げられないのだ。これだけはどうしても諦められない。 那智に言えば激怒しそうだが、死ぬことがあっても構わないとすら思っている。 それだけ、許せないのだ。 あの存在が。 「…きっと、那智もその目に弱いんでしょうね」 春奈は力を抜くようにして、ふっと微笑んだ。 仕方なさそうな笑い方だ。 「髪は、その長さがいいの?」 「え?はぁ…母もこれくらいだったんですけど…でもこのままほっとくと長くなるなぁって」 肩胛骨くらいまで伸びた髪は、いつも一つにくくっている。 母もこれくらいか、もう少し長いくらいの長さだった。 しかしこのままだと、母に似せるためには切らなければ、と思っていたところだった。 「切ってあげましょうか」 「え?」 「こう見えても上手いんですよ?那智の髪も昔は切ってましたし」 春奈は突然上機嫌になった。腰を浮かせて、今にもハサミを持って来そうだ。 「いいんですか?」 上手いかどうかは知らないが、後ろの髪を数センチ切るくらいなら、大抵の人間はちゃんと出来るだろう。 知らない人間に金を出して切ってもらうより、春奈に切ってもらったほうが不快感もない。 「もちろん」 嬉しそうに頷いた春奈に、皓弥は「お願いします」と軽く頭を下げた。 次 |