弐




 
 黒のパンツスーツ姿で、荻野目は出されたコーヒーを口にした。
 肩で切りそろえられた髪、切れ長の目。伸びた姿勢。冬の寒さより厳しいものを感じさせる。
 夏でもだらけず、冬でも背中を丸めない。
 見習いたいくらいの自制心だ。
 気温の変化にあまり強くない皓弥は、紅茶片手に自分の情けなさを思う。
 荻野目といると、どうも不甲斐なさというものを感じる。
 母を失った時も荻野目は深く悲しみ、初めて取り乱す様を見たのだが、それも一時のことですぐに冷静さを取り戻していた。
 たぶん、表向きだけだろうが。
「異常な数で増えています」
 鴉のことについて相談するため、荻野目を家に呼んだのだ。調査員という仕事をしている彼女からいつも鬼を斬るという異様な仕事と情報をもらっている。
 今回は仕事というわけではないが、近所で異常な鴉が増えているため調べてくれと頼んでいたのだ。
 キッチン近くのテーブルで向かい合って座る。荻野目の前に皓弥。その隣が那智だった。
「みたいですね」
 今は窓の外に何もおらず平和なものだが、朝方などはやはり鳴き声などが聞こえてくる。
 鬱陶しい視線がたまに絡みついてきては、皓弥の神経を苛立たせた。
「周囲の鴉を呼んで来ては、鬼のようなものに変えているということでしょう」
 正常な鴉ではない、だが鬼にもなっていない。そんな鴉が増えていた。
 日々、変化させられているのだろう。
 いつか一帯の鴉全てが、異常な生物になるのではないかという危惧を抱かされる。
「誰が」
 インスタントではなく、ちゃんと豆からひいているコーヒーを飲みながら、那智が無表情で尋ねた。
 荻野目とこうして仕事の話をしている時の那智は、大概表情がなく、口調も冷たい。
 時折は気怠そうにしている。基本的にあまり意欲的ではない。
 金のため、と割り切っているのだろう。
「まだそこまでは。範囲が広い上に特定の誰かを狙っているというわけでもないようなのです」
「だが主格がいるはずだ。こんなものは自然発生しない」
 鬼に関しての事情をよく知っている二人の間で、皓弥が持っている足りない知識の中で疑問が首をもたげた。
「天然の鴉が、自分の仲間を増やしているってことは?」
「誰」と、まるで人間や、鬼のことを指しているようだが、元々異様な生物として命を持った鴉もいる。
 犬や猫、その他の動物だってそうだ。見た目は何ら変わりがないが、中身は鬼という、時には人間を喰い殺して生きている動物もいる。
「天然の鴉なら自らの同胞をこんなにも急激に、しかも大量に作らないよ。自分の食料が減るだけだ」
 那智の説明に、疑問が腑に落ちた。
 確かにそうだろう。まず第一に、自分の食料の確保を考えるはずだ。それならば、同じ生き物が大量にいても、不利になるだけだ。
「確かに」
 動物、鬼、というくくりではなく、生物として矛盾した行動になってしまう。
 では全く別のものが、鴉を増やしているということだ。
 それを叩かないことには、収拾がつかない。
 しかしそれが特定出来ていないということは、事態はこのまま継続される。
 憂鬱さが皓弥にのし掛かってきた。
 始終那智と一緒にいるということはともかく、頭上から視線を浴びせられていることは苦痛でしかない。
「被害としては、数人がついばまれたり、爪で引っ掻かれたりしています。一番酷いのは、目を潰された人でしょうか」
「恐怖ですね」
 皓弥が微かに眉を顰める。
 全く他人事ではない。
 聞いているだけで外出するのが嫌になりそうだ。
 だが、すでにここ一週間ほどあまり外に出ていないのだ。引きこもるのもいい加減嫌気がさしてきている。
 アウトドア派ではないとはいえ、陰鬱な気分になってくる。
「飛んでいる分、追いかけられないのでこちらにとっては不利です。それに頭上は無防備ですからね」
 視界に入らないので、どうしても注意し辛いところだ。
 荻野目はじっと皓弥を見ながら、まるで諭すように言っている。
 母親のようなところが少しだけ感じられて苦笑してしまう。
 反抗する気が萎えるのだ。
「というわけで、外出禁止で」
 那智は表情を緩めて、さらりと言った。
「マジかよ…」
 今までも十分外出禁止に近い有様だったのだ。
 これ以上どうしろと。
 うんざりする皓弥に追い打ちをかけるように、荻野目も頷いた。
「マジですよ。皓弥君の一人歩きなんて格好の餌食です」
 家にいて下さいね。と真剣に言われ、皓弥は「はぁ」と曖昧な返事を返すしかなかった。
 心配してくれているのだ。
 それは分かる。有り難いと思う。気にしてくれている人がいるということは、嬉しいことだと理解している。
 それにしても、だ。
(いつまで引きこもれって…?)
 いくら大学が長期の休みに入っているからといって、こんなに家にいて何をしろというのだ。
 読みたい本など終わっている。家事は那智がやるから、することがない。
(テレビなんか、ここ何年も真面目に見てないってのに)
 まるで定年退職した老人の気分だった。
 正直途方に暮れる。
 明日からの生活を考えるだけで、溜息が出た。


「本気か?」
 荻野目が帰り、コーヒーカップを洗う那智の背中に投げかける。
「何が?」
「外出禁止って」
「本気、本気」
 今までも外出禁止に近い扱いだったのだが、改めて肯定されると呆れる。
 この男はどこまで過保護になれば気が済むのだろうか。
「俺は子どもか?」
「子どもとかそういう扱いじゃなくて、本当に危ないと思っているからだよ」
 コーヒーカップを洗い終わり、タオルで手を拭きながら那智が言う。
 冗談を言っている風でもないので、きっと本当なのだろうが、それにしても気が重い。
 日陰で生きる生物ではないのだが。
(拘束されていると思うと、よけいに一人で出歩きたくなるんだよな)
 人間のサガだろう。
 溜息をつくと、携帯が鳴った。
 テーブルの上に置いてあった携帯電話が踊り出す。バイブにしているため、けたたましい振動音だ。
 ガタガタ震えるそれは、那智の携帯だった。
「はい」
 那智が出た途端、携帯から悲鳴が聞こえてきた。
 近くにいる皓弥にまではっきり聞こえるほどの声量だ。
 顔をしかめて、那智が携帯を耳から遠ざけた。
『助けてくれ!』
 一瞬誰かが鬼にでも襲われているのだろうか、と皓弥は緊張した。
 それほど切迫した声に聞こえたのだ。
 鬼を狩る者としては非常に優秀な那智に、救助を求めることは自然なことだ。
 だが真剣に耳を傾けた皓弥の耳に入ってきた言葉は、予想もしていなかったものだった。
『いい結果が出ないんだよ!!』
「結果…?」
『測定しても上手くまとめられないし!』
 那智が嫌そうな顔で舌打ちをした。
(…測定ってゼミ?)
 一気に脱力して、あほらしくなった。
 あんなに切羽詰まったように言わなくてもいいだろうが、と思いたくなる。
 本人にとっては死活問題なのかも知れないが、実際に殺す、殺されるという状況を何度も迎えている身としては肩をすくめたくなる。
「知るか」
 那智も似たような思いなのか、冷たく言い放った。
 大学での那智はどんな様子なのかは知らないが、電話などで話しているところを観察していると素っ気ない言い方をしている。
『人手も足りてないんだよ!蓮城が来れば百人力だ!』
「百人力って、お前は年寄りか」
『じーちゃんだから、頭も身体もぼろぼろなんだよ!だからさぁ!』
 相当ぎりぎりのようだ。
 携帯で話をしている相手以外に、涙声のような悲鳴が微かに聞こえている。
 一体このゼミは何をしているのか。
 理系とは関係のない皓弥には、想像も付かない世界だ。
「行けよ」
 懇願しているような携帯の相手に、次第に気の毒になってきた。
 男泣きでもしてそうだ。
 促されたことに、那智は心底不機嫌そうな目を向けてきた。
「学生の本分は勉強だろ。院まで行ってるんだから、ちゃんと研究してこいよ」
 皓弥は控えめな声でそう言った。
 他意はない。大学に遊びに行っているわけではないのだ。
 専門的な分野の勉強を楽しいと思っている皓弥にとって、大学は勉学のための場だ。
 高い金払ってんのに元取らずにいられるか、という意識も少しある。
「お前、研究は嫌いじゃないんだろ?」
 理系って面白い?と文系の素朴な疑問に那智は簡潔に答えた。
 やってると面白いよ。ハマる。と微かな笑みを付けて言っていた。
 自分のことに関して語っている時に那智が笑うのが珍しくて、はっきり覚えている。
「…後でかけ直す」
 不機嫌さはそのままで低く告げ、那智は携帯を切った。向こうでは『え!?蓮城っ!!おま』という会話の途中まで聞こえたのだが、那智は最後まで聞く気はなかったらしい。
「俺に張り付いてないで、大学くらい行けよ」
 那智が行くのを渋っている理由が、自分にあることくらい明白だ。
 案の定、携帯片手に那智は苦笑する。
「不安なんだよ」
 弱音だ。
 何も怖くない。いつもそんな顔をしてるくせに、ふとした瞬間にそんな弱さを見せる。
 皓弥だけが弱みなのだと言うように。
 それは少し重みがある。ずしりとそれを感じると、同時に抱き締められているような気分になる。
 抱き込まれて、耳元で囁かれているような錯覚だ。
 大切だ。必要だ。そう、教えられている。
「だったら家に引きこもってるから」
 分かった、おまえの気持ちは分かったから、と動揺しそうになる自分を落ち着かせながら皓弥は言う。
(俺も大概甘いな…)
 なんで同居人を大学に行かせるのに、こんな約束までするのか。
 考えると疲れてしまう。
「黙って出ていかない。だから行って来いよ」
 鴉のせいで、ただ那智が大学に行くというだけのことが大事になっている。
 しかもこんな問答を真面目にしなければいけない。
 バカップルのようで、頭痛がしそうだった。
 本来の自分には全く似合わないものだ。
 しかし、約束しても那智は頷かない。
  「鴉が窓に衝突しないとも限らない」
「は?」
「堅い物をくわえた鴉が何度も、何匹も窓に激突して硝子を破ろうとするかも知れない。もしそうなったらどうする?」
「正気か?」
 現実に起こるとは思えないことを真剣な顔で話す那智に、さすがにこれはまずいんじゃないかと皓弥が眉を寄せる。
 変人だ、変人だとは思っていたが、ここまでくると危険な領域だ。
「相手は動物じゃない。鬼だ。そして皓弥には、そこまでさせるだけの魅力がある」
 喰うために、何をしでかすか分からない。
 そう那智が語る。
 どうやら正気らしい。内容も一応納得が出来るものだ。
(心配しすぎだけどな)
 この過保護は「過敏になり過ぎ」というレベルすれすれだ。
 呆れ果てるには十分だが。
「だから行かないって?いい加減にしろよ」
「皓弥は行けと?」
「学生の本分はそうだと思っているが」
 どうしても駄目だというのなら、那智の好きにすればいいのだが。心配性はどこまでいくのか、こっちが心配になりそうだ。
 那智は少し考えた後、諦めたように深く息を吐いた。
「じゃあ…ここじゃないところで俺が帰るまで待っててくれる?」
「ここじゃないとこ?」
 突然の提案を口にしながら那智はあまり気が進まない様子だった。
「ここよりずっと安全なところだよ」



 


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