壱




 
  寝返りを打った。
 意識は眠りからゆっくりと浮上してくる。
 次第にはっきりとしてくる感覚のおかげで、妙な気配を感じ始めた。
 視線だ。
 不躾なほど、あからさまな視線。
 じっと見つめ続けている。勘違いだろうかと思い、目を開けてみるが、やはり肌に刺さるような視線がある。
 那智だろうか、ふとそんなことを思ったがあの男は皓弥に視線を感じさせない。
 どうしても特殊な体質のため視線というものには過敏なのだが、那智に関してだけは、不思議なほど気にならないのだ。
 だから顔を上げて目が合うと驚いてしまう。
 どうして見てたんだ?と聞いてしまうほどだ。
 那智の視線を感じる時は物言いだけな時だけだ。つまり、視線を強く投げかけるのはわざと、という場合しかない。
 それにしても、もっと柔らかな、じゃれつくような視線を送ってくる。
 こんなに突き刺すような、鋭いものではない。
「…ちっ」
 鬱陶しい視線に身体を起こした。
 案の定、那智の姿がない。
 同じベッドで寝ている男は、大体皓弥より早くに起きている。
 那智が早起きというより、低血圧で寝起きが最悪な皓弥が遅いのだ。
(…気持ち悪い)
 起きあがっても、視線は消えない。
 一体どこから、誰が見ているというのだ。
 監視カメラなどがあるはずがない。あったとしても、昨日は全く気が付かなかったのだ。今朝になってどうしてこんなにもはっきり、気色悪いほどに感じるのか。
 周囲に目を配り、視線の元を探る。
 寝る前と何も変わりない室内だ。
 時計は午前九時前を指している。曇りなのか、時間にしては薄暗い。
 そう思って窓に目をやると、視線の正体が分かった。
(鴉…)
 窓の外で数匹の鴉が飛んでいる。
 この部屋は八階なので止まる場所がないだろう、飛びながら窓の近くをうろうろしている。
 どうしてこんな行動をとっているのだろうか。餌など窓に置いてあるはずもないというのに。
 ぎらついた小さな目は、鬼のようだ。
 だが鬼そのものではないように感じせられる。
(なんだ…?)
 しかし、何の変哲もない鴉がこんなことをするだろうか。
 動物の異常行動が最近取り沙汰されているらしいが、それなのだろうか。
(おかしい…)
 違和感がぬぐえない。鬼じゃない、でも普通の鴉でもない、一体これは何だ。
 よく見ると、近くのマンションの屋上などにも鴉がとまっている。
 曇りで日の射さない空模様の中、その光景は異様でもあった。
(…嫌な感じだ)
 皓弥は窓に背を向けて、部屋を出た。
 すると視線は薄らいだのだが、リビングに出るとまた感じるようになる。
 家の中でも視線を受けているというのは、かなり不快だ。
 テーブルの上に湯気のたつコーヒーが置かれているというのに、人の姿がない。
 那智はどうやらどこかに行っているようだ。
 おそらく自室だろう。
(腹減ったな…)
 朝食をいつも逃しているのだが、今日は朝のような昼のような、曖昧な食事がとれそうだ。
 きっと那智が軽いものを用意してくれるだろう。
 まるで家政婦のようによく働く那智は、皓弥の世話をやくのが楽しいらしい。何かにつけて動いてくれる。
 慣れると快適なのだが。慣れるまでは何とも居心地が悪かった。
 自分のことは自分で何でもやる。という育て方をされたせいだろう。
(…こっちに来たのか…?)
 リビングの窓を見ると、鴉が一羽飛んでいる。
 黒い羽が力強く羽ばたいては、窓の端から端へと飛んで視界から消える。そしてまた端から現れた。
 何がしたいのかさっぱり分からない。
 仕舞いにはベランダの手すりに細い足を付けて、とまってしまった。
 近くで目が合うと、心臓がびくりと跳ねる。
 不快感が一気に腹の奥から込み上げた。
 ガチャ、ばたん。ドアの閉じる音がしてすぐにリビングへと那智が入ってきた。
 すると途端に鴉が飛んでいく。
「おはよう」
 那智が皓弥に声をかける。
 窓の外には、もう黒い翼はいない。
(逃げた?)
 刀として鬼を喰う那智を見て逃げるということは、やはりあの鴉は鬼なのだろうか。
「皓弥?なんかあったの?まだ眠い?寝る?」
 窓を見て、じっと立ち尽くす皓弥に那智は怪訝そうだった。
「…鴉…」
 寝起きは一切喋らない皓弥が、単語とは言えすぐに喋ったことに那智は少しばかり珍しいという顔をした。
 いつもなら首を振る、頷く、程度の意思表示しかしないのだ。
「ああ。鴉か。妙だろう。普通じゃない、だが鬼でもない。今朝になってこの辺りをうろついてるようだ。元々最近鴉なんかはちらついてたけど」
 確かに、鴉なら最近増えてきた。
 ゴミを荒らされて困るという声も、たまに聞こえてきた。
 だがその鴉は、あんなにいびつな視線を持っていなかったはずだ。
(急に変わった…?)
 何のために。
 考えても、寝起きの頭は酷く鈍い。
「何か食べる?トースト?」
 とりあえず腹を満たさなければ頭も動かない。
 トーストと言われて頷くと、すぐに食パンがトースターに入れられる。その間ポットに入っていたお湯で紅茶が入れられる。
「鬼じゃないけど、用心することにこしたことはないから」
 紅茶を渡され、皓弥は頷く。
 何に対しても、用心することは必要だ。
 この身体を喰い殺したいと思っている者はどこにいるのか分からないのだから。
「今日の買い出しは何時から?」
 トーストにバターを塗りながら、那智はころりと話題を変えた。
 朝から重苦しい話ばかりする気はないのだろう。
「どっか行きたいところある?クッションが欲しいとか言ってなかったっけ?」
 那智は問い掛けてはいるものの、皓弥の返事を期待してはいない。
 一人で喋り続ける。
 寝る前にベッドヘッドに寄りかかって本などを読むことが多いのだが、背もたれにクッションか何かが欲しいと言っていたのを覚えていたらしい。
 肉があまり付かないせいか、堅いものに背を預けていると、骨が当たって痛いのだ。
「どーせならドーナツ座布団も買う?俺はそんなへましないけど、理性がぶち切れる時が今後あるかも知れないし。どうせなら低反発がいいか」
 上機嫌で朝から妙なことを言い出す那智を、皓弥が冷ややかな目で睨み付ける。
 バターの塗られたトーストを差し出されても受け取ることなく、こつんと紅茶をテーブルに置いた。
「……嘘です。ごめんなさい」
 氷点下を思わせる視線に苛まれ、那智は小さく謝罪を口にした。
 寝起きの皓弥にそんな冗談を口にして、相手してもらえると思うほうが間違いだ。
 まして昨夜は抱き合ったばかりで、少々腰が怠かったのだ。
 やぶ蛇である。


 午前中に買い出しをすましてしまおうと、車で出掛けていた。
 曇り空は切れ間が出来、日光がさすようになってきていた。
 昼間は暖かくなりそうだ。
 広い駐車場から空を見上げると、鳥が飛んでいる。
 随分高くを飛んでいるため種類は分からないが、鴉でないことを願った。朝から気持ちの悪い鴉を見ているため、しばらく目にしたくない。
 助手席のドアに手を掛けると、エンジンを切った那智に「そのまま座ってて」と制止をかけられた。
 何事かと思っていると運転席を出た那智は、そのまま助手席に回ってくる。
 壁から一台分空けた場所に止めてあるため周囲からは見えないだろうが、男にエスコートされるのかと思うと頭痛がする。
(こいつは俺を女扱いしたいのか…?)
 時々真剣に、俺の性別が分かるか?と尋ねたくなる。
 丁寧に扱われていることに腹は立たないのだが、複雑だ。
 ここまでする必要はないだろう、とよく思う。
(皓弥だから、って言われておしまいなんだろうけどな)
 こんな悩みは、那智ならすぐに笑って終わらせてしまう。
「何のつもりだ」
 案の定助手席のドアを開けたのは那智で、皓弥が下りてくるのを恭しく待っている。
「安全のために」
「何の安全だ」
 冗談半分でやっているくせに、と呆れながらも皓弥が大人しく車から下りると頭上から何かが降ってきた。
 黒い影。
 それは急スピードで皓弥に向かって下りてくる。
 風を切る微かな音に気が付き、上を向くと黒いくちばしが見えた。
「は?」
 一声もらす時には、その鋭い先が皓弥の目に襲いかかってくるところだった。
 とっさに顔を背けて目を閉じると、グェ、と鈍い音がした。
「こういう安全のために」
「…鴉…?」
 襲いかかってきた影を、那智は鷲掴みにした。
 首を掴むと力を入れたのだろう。グとまた潰れた音がして首が妙な具合に曲がる。へし折ったのだ。
 くちばしの端からだらりと舌が垂れる。
 びくびく、と黒い身体は痙攣を起こす。目は濁り、皓弥は嫌悪に眉を寄せた。
 元々あまりいい印象を抱いていない動物なのだが、こうして見るとさらに気味が悪い。
 動かなくなったことを確認してから、那智はその場に鴉を捨てる。
 駐車場の端で本当に良かった。
 これがど真ん中であったなら、人の注目を浴びているところだ。
「食い意地を張って、自滅したな」
 那智は冷たく吐き捨てた。
 鴉は痙攣を止めると、どろりとしたジェル状の液体に変わった。
 それは、鬼が消える前の現象だ。
 那智ではない、ただの刀などで切るとそうなる。
 しかし那智が殺すと灰に変化してしまうはずなのだ。
「なんで?鬼なんだろう?」
 いつもと具合が違うことに、皓弥が怪訝な顔をする。
「なりそこないだろう」
 那智は黒いジェル状のものが次第に消えていくのを確認した後、ちらりと横を見た。
 その先を皓弥が追うと、そこには一人の少年が立ち尽くしていた。
 黒いコートを着ている小柄な少年だ。肩を丸めて、頼りなげな雰囲気だった。
 表情は驚愕が張り付いている。おそらく那智がやったことを見ていたのだろう。
(まずいな)
 見られた。
 現実にあってはならないことを、目撃された。  だが長年こういう現象に関わってくると、何度かそういう気まずい機会に出会う。そういう時に取る行動は一つだ。
「行くか」
 皓弥は何事もなかったかのように、歩き出す。
 クッションと、何故か座布団を購入するのだ。
 どうせなら冬用のスリッパも欲しいところだ。少し汚れてきている。
 那智も平然と隣に並んだ。中学生くらいに見える少年の横をするりと抜けた。
「あ」という声を聞いた気がするが、振り返ることはない。どうせここで一度通りすがっただけの関係だ。二度と会うこともないだろう。
 お互い忘れてしまえばいい。
 鴉だったジェル状のものはもう消えている。物質が消えてしまった以上、目の前で起こったことを証明する方法がない。
 放って置いても、こちらに実害はないはずだ。
「で、なりそこないって?」
 少年のことなどすぐに意識の外に追い出し、話を元に戻した。
「鴉と鬼の狭間なんだろう。まだ鬼には成り果てていない。でも鴉でもない」
 いびつであることは間違いないが、動物であることをまだ捨ててないようだ。
 曖昧な境界に立っているのだろう。
「今朝、家の近くにいたやつと同じじゃないか?」
「だろうね」
「なんでこんなもんが増えたんだ?」
 今まで、鬼と野良犬やら野良猫に襲われたことならある。だがどれも一匹、二匹の単位だ。
 今の鴉のような何十羽という集団ではない。
 春日と初めて会った時、野良犬に囲まれたがあれと似たような状態なのだろうか。
 ということは。
(意図的なものか)
 あの時は野良犬の中にリーダー的存在がいた。それが野良犬たちを支配していたわけだが。
「どっかの馬鹿が増やしてるんだろうさ」
 那智が冷淡に言い放つ。
 気怠そうな口調からして、すでに嫌気がさしている。
「やっぱりか。どこの馬鹿だ。迷惑この上ない」
 鬼が増えるなど、皓弥にとっては非常に迷惑だ。命の危険にさらされる可能性がぐっと増える。襲われて命は無事でも、怪我をした時点で他の鬼も呼び寄せてしまうかも知れないのだ。
 この血のにおいは、鬼にとってはひどく甘美なものらしい。
「歩きにくくなるな」
 周囲を警戒しながら歩くのはいつもなのだが、今よりも神経を使うことになるだろう。特に頭上なんて、普段意識していない場所を見ることになる。
 首が痛くなりそうだ。
「外出禁止」
「は!?」
「俺と一緒じゃないと外出しちゃ駄目だよ?」
 那智は気怠そうな表情を止め、真面目な顔で皓弥にそう言った。子どもに言い聞かせるような内容だが、至って真剣だ。
「過保護過ぎるだろ!?」
 この男は刀というもので、主である皓弥を一番大切にしている。それは実感させられている事実だ。
 日常生活の中でも、那智は皓弥を甘やかし、包み込み、守ろうとする。人に守られることを良しとしない皓弥からしてみれば、ありがた迷惑な時も多々あるのだが、それに助けられているのが実状だった。
 だから文句を言いつつも、那智を拒絶することはない。
 それにしても、だ。
 ぴったり張り付かれて、守られて「うん」と言えるはずがない。
 まるで公園で遊び始めたばかりの子どものような扱いだ。
「相手はたかが鴉。でも複数だ。一気に襲いかかってこられたら対処の仕様がないだろ?」
 正論に、皓弥は怒鳴る勢いをぐっと抑えた。
 複数の鬼と対峙することに、慣れていないのだ。相手が多い場合は逃げろと、小さな頃から教え込まれている。
「建物に逃げ込むとか…」
「逃げ込む建物があればいい。だがない場合もあるだろ?皓弥は複数相手の戦いに慣れてないみたいだから無茶はしないほうがいい」
「なんで慣れてないって」
「春日の手伝いしてる時、相当苦戦してたから」
 よく見ているものだ。
 関心してしまうが、那智のこういうところは皓弥にとってはなかなかに手強いところだ。見られたくないこと、知られたくないこともよく見てしまうのだから。
「俺がいれば寄って来ないんだから」
 そう言われ、皓弥は上を見上げた。
 電柱などに鴉が数羽止まっている。遠巻きにこちらを見ているような気がした。
「本来動物は気配に敏感だ。自分が喰われる側だってことくらいすぐに分かるよ」
 捕食者はそう言って、微かに笑った。
 鬼を喰う、刀という者の気配は、どうやら空の住人にもはっきりと伝わっているらしい。
 つくづく、自分にとって便利な男なのだと思わされた。



 


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