六




 
 斎木は那智の足の下で咳き込んでいる。
 前屈みになりたいだろうが、那智に抑えつけられているためそれが出来ない。
「殺した方がいいかな」
 那智は、それも選択肢の一つだと真剣に思案しているように見えた。
 ぞくりとするほど冷静で、背筋が凍る。
「那智…!」
 制止をかけられるなんて、思い上がりだったのかも知れない。
 怒りにかられたこの男を止められるなんて、皓弥では力不足なのかも知れない。
 けれどここで血を流させるなんて、黙っていられるはずもない。
 皓弥は己を奮い立たせて、那智を非難する。
 すると那智はこちらを振り返って一つ溜息をついた。
「彼女のように?」
 那智に踏みつけられていた斎木が睨み付けながらそう言った。歪な笑みを浮かべている。
 今まで斎木はよく微笑を浮かべていた。けれどそのどれもが作り物のようで、感情をそのまま表しているとは思えなかった。
 けれど今、その唇にある嘲笑は斎木の思いを如実に出しているように感じられた。
 それがおまえの本性だ。
 そう斎木が嗤っている。
 那智はそんな斎木を見下ろしても、何も言わなかった。
 何も思うことがない。そんな様子だ。
 そして興味を失ったように足を退けると、そのまま皓弥の前までやってくる。
「皓弥、無事?」
 無表情だった男は、皓弥の前に立つと心配そうに全身を観察して尋ねてくる。
「何もなかった?」
「ない」
 声音もあたたかいものに変わっている。
 いつも見ている那智の姿に戻り、皓弥は息を吐いた。那智を見た瞬間から自分が極度に緊張していたのだと気が付かされる。
 冷酷な眼差しはもうどこにもなく、視線を受け止めても恐ろしさはなかった。
(あるって言えば、斎木を蹴り殺しそうだ)
 斎木は腹に手を当てて、荒々しい呼吸をしている。もしかすると内蔵に損傷があるかも知れない。
「話をしただけだ」
 危害なんて加えられていない。それを強調して那智に伝える。これ以上の暴力は勘弁して欲しい。
 見ているだけでこちらまで痛くなる。
「彼も、いつか殺すのでしょう…?」
 苦しさに上擦る声で斎木が投げかけた。
「あの子を殺したように」
 視線で那智を殺したい。そう言うように斎木は睨み付けてくる。
 斎木の眼窩の裏には、彼女が死んだ時の光景が蘇っているのかも知れない。
   大切な人が目の前で死ぬ。そんな経験は皓弥にはない。
 唯一の親族であり、皓弥にとってはかけがえのない人だった母の死の瞬間には立ち会っていない。
 その代わり、変わり果てた死体を目にはしているが。憎悪を増長させるだけだった。
「所詮おまえは鬼の類だ」
 呪うように、斎木が唸り声に似た声で告げる。
 腹の上にあった手が、拳を握る。激痛に襲われているのかも知れない。
 鬼と呼ばれた那智は斎木を見ることもしなかった。視界には皓弥しか入れず、その声すら届いていないかのようだ。
 その差に、皓弥は斎木の姿が哀れに思えて仕方がなかった。
 憎み、恨み、皓弥に接触までしてようやく会った相手。それは自分に暴行を加えるだけで、声も存在すら見ようとしない。
 いることすら認知しないというのは、人に対して最も酷い仕打ちだ。
「那智……おまえ」
 斎木のことは完全に無視するのに、皓弥の声には耳を傾けてくる。
 言葉の先に迷っていても、何?と視線で問いかけてきた。
 その気遣いが、今はすんなりと受け入れられない。
「人を殺したことがあるのか…?」
 疑惑を抱いたまま、那智に平然と接していられるかどうか、確信がなかった。
 疑いがあるのなら、知りたいと思ってしまったのなら、真実を見てしまえばいい。
 どんな答えが返ってきても構わないという意志を持って、那智を見つめた。
 そうだと言われたところで、今更離れられないことは明白なのだ。
「ないよ」
 那智は皓弥の真剣さを感じ取ったのか、笑い飛ばすこともなくはっきりと答えた。
 真っ向から返される言葉に、一番に声を上げたのは斎木だった。
「嘘だ!!」
 もはや悲鳴だった。
 全身から大声を張り上げて、全てを跳ね返すかのように反論をする。
「人は喰わない」
 斎木の悲痛な声にも那智は視線を送らない。ただ淡々と皓弥に自分のことを伝えるだけだった。
「だが、その人の彼女を灰にしたって」
 皓弥はテーブルの上に置いてある写真立てに目をやった。
 微笑んでいる女性を、那智は覚えているだろうか。
 優しげな表情を浮かべている彼女を見ると、床で苦しげにしている斎木が直視出来ない。
「あれは鬼だった。人じゃない」
 那智もまた写真に目をやり、そう口にした。どうやら記憶の中にちゃんと彼女のことはあるらしい。
「彼女は人だ!!」
 鬼だと言われることが我慢出来ないのだろう。斎木は、このままでは吐血するのではいかと思われるほど息苦しそうにしているのに、声を張り上げている。
「人は斬っても灰にはならない」
「偽りだ!貴方を失いたくないがためについた嘘だ!」
 否定が何度投げ込まれても、那智は表情を変えない。真剣な瞳で皓弥を見る。
 どちらを信じれば良いというのか。
 皓弥は写真の中の人を見ては、唇を噛んだ。
 心境として那智の言葉をそのまま受け入れたい。けれど斎木がこれほどまでに必死になっていることが心の中でずっと引っかかりになっていくことだろう。
 素直に頷けないことに気が付いたのだろう、那智が重々しく息を吐いた。
 そうしてようやく斎木を振り返る。
「うるさいな」
 まるで近くで虫か何かが飛び回っていることに関して言っているかのようだった。
 感情を苛立たせるまでもない。けれど邪魔であることは確かだという。
 あまりにも冷たい声。
「ならその身で確かめるか」
 那智は両手を合わせた。
 その動きは間違いなく、刀を出すためのものだ。
「那智…!?」
 案の定那智は掌から柄を生み出す。
 皓弥の物とは少し異なり、装飾も極めて少なく、刀身は氷のような光を宿している。
 もしその刃に斬られれば、凍り付いてから灰になるのではないだろうか。
 風に吹き飛ばされる雪よりも儚く。
 刀身を抜き部屋の灯りに刀が晒されても、斎木は那智を睨み付けたままだった。
 動じない。
 むしろこの刀に貫かれることを望んでいるかのような顔をしていた。
 彼女が殺されるところを見ていたのではないのか。
 ならどうして逃げない。
 恐ろしいとは思わないのか。
 皓弥はこの光景にどう対処して良いのか混乱していた。
 刀が振り下ろされるかも知れないというのに、誰も止まらないのだ。止めないのだ。
「那智!止めろ!」
 手を伸ばし、刀を持っている那智の手を掴もうとした。けれどその手から那智は逃れる。
 そして切っ先は斎木の胸に向けられ。
 いとも容易くそれは突き刺さった。
 胸部、肋骨の真ん中。それは心臓の位置だと思われた。
 それはテレビの中だけでしかお目にかかったことのないものだった。
 皓弥は息を呑むことも出来ず、呆然と腑抜けのように斎木を見た。
 苦悶の声でも上げられるかと思ったが、斎木はただ那智を見上げている。
(殺した…のか…?)
 心臓を刀で貫かれれば、人間は生きていけない。
 頭の先から血が引いていく。
 だが皓弥が悲嘆する前に、那智は斎木に刺さった刀を引き抜いた。
 そこには血がついていない。同じく、斎木の身体から血が流れる様子もなかった。
 スーツに穴が空いただけだ。
「人は喰わない」
 那智だけが何の動揺もなく、つまらなそうなそうに言った。
 人を殺すことはない。それを目に見える形で示したのだ。
(良かった……)
 皓弥は全身の力が抜き、安堵の息を付く。
 刀が刺さった時は心臓が止まるかと思ったが、傷一つ付かないとは。
 那智は人を殺してはいないという事実を見ることが出来、覚悟が溶けていく。
「何故……」
 皓弥とは対照的に、斎木は呆然としたまま自分の胸に手を当てた。そして触れた手を持ち上げては赤く染まっていないことを見て目を見開いている。
 まるで、そこから血が流れ出せば良かったのにと言いたげだ。
「どうして……」
 何故斬られていない。
 そう唇が紡いだ。
(那智が人を殺したって証明出来たなら…死んでも良かったのか)
 斎木の言動が、そう示していた。
「あれは鬼だった」
 那智は斎木に対して、初めてまともに口を利いた。
「自ら、依頼をしてきた」
 驚愕を残したままの斎木に、やはり感情のこもらない声で語り続ける。
 刀を持っていた手は軽く上下に振り、とろりと水か何かのように刀を溶かしてしまう。そしてすぐに霞のようにそれは消えてしまった。
「そんなはずがない…」
 嘘だと叫んだ勢いは、すでに斎木にはなかった。ただ力無く呟いている。
「己を無力だと言った。無力故におまえの重荷になっていると」
 突き刺さるような言葉だった。皓弥にも似た思いがある。
 那智は皓弥の刀であることが嬉しい。必要とされたいと言っては傍らにいてくれる。けれどその言葉がなければ、皓弥は申し訳なさで消えたくなっていたかも知れない。
 誰かに寄り掛からなければ生きていけないなんて、那智に甘やかされる前までは到底納得出来なかった。
「力が欲しくて仕方がなかった。それを、鬼に見抜かれた」
 鬼は人が強く何かを欲していることを感知するらしい。そして近寄ってきては囁くそうだ。
 鬼になればそれが手に入るのだと。
 欲深い生き物は、その言葉に惑わされる。そして鬼になっては全てを失うのだ。
「力のある鬼に惹かれてしまった」
「そんなはずが…」
「忌まわしいと知っていた分、その力強さもあれは知っていた。だから、墜ちた」
 鬼は憎い。
 自分より力があり、素早いものもいる。
 生命力の溢れている様には、忌々しいといつも思わされていた。
 けれど考え方を変えて見れば、それだけのものを持っているから羨ましいと考えることも出来るのだ。
 怪我をしても痛みに喘ぐことがなく、また治癒も早い。人間より能力があるとも思える。
(鬼に襲われてるから、あいつらの生体をよく知っているから…か)
 だからその力がもしあったなら、と思ってしまったのかも知れない。
「鬼になれば鬼に怯えることもなくなる」
 その一言にはっとさせられる。
 同類になってしまえば、鬼に好かれるという体質も消えてしまう。
 だから鬼に怯えることもなくなる。
 力を持ち、鬼に苦しめられることもなくなる。それは平穏を手に入れるように見えるのかも知れない。
(でも、まやかしだ)
 鬼に墜ちれば、人は人の姿を捨ててしまう。
 浅ましい欲に理性を汚される。
「…あれが鬼に墜ちたのは、おまえが怪我をした直後だと言っていた」
 その言葉に、斎木が絶望を滲ませた。
 血が流れる唇を震わせている。
「そんな…」
「おまえを守りたいと言っていた。そして、こんなものになって守れるはずがないと笑って逝った」
 文章を読んでいるかのように、那智の声は平淡だ。けれど斎木の表情がみるみる歪む。
 痛みではない、衝撃と悲愴さばかりが強くなっていく。
 深く傷付いている様子に、那智が告げたことが耐えられない悲劇なのだと感じられた。
「全てはおまえのためだった」
 守りたいと言っていた。支えたいと言っていた。
 その人から、守りたいと思われていたことを斎木は知らなかっただろう。
 思いもしなかったかも知れない。
 彼女が鬼になりたいと思うはずがない。そう言われて皓弥も頷いた。
 あんな浅ましい生き物になりたいなんて思うはずがない。襲いかかってくる生き物になりたいなど誰が思うものかと。
 だが彼女はそれを願っていた。
 あまりにも優しく、そして儚い思いを抱いて。
(……酷い話だ)
 守られているばかりではいけない。自分も大切な人を守りたい。
 そう願った結果が、こんなものになってしまうなんて。
 鬼に墜ちて、大切な人を守ることも出来ずに、自ら死を望むことしか出来なくなった。そして残された人はただ深い憎悪を抱いて、復讐を誓った。
 どこで食い違ったのか。
 何が悪かったのか。
 力を欲したことが過ちだというのなら、無力なままで生きていこうとしている姿勢の方が皓弥にとっては納得し難いものだ。
 襲われるままで、何の抵抗も出来ない生き物でいなければならないなんて、死ねと言われているようなものではないか。誰しも抗う権利はあるはずだと。
 ただ、彼女の場合はその力を性急に求め過ぎたのかも知れない。
「信じない……そんなこと、信じられるはずか」
 嘘だ。
 斎木は床に爪を立てた。
 そして嗚咽のように呟き続ける。
 信じない、嘘だと。
 けれど震えていく声が、斎木の心が揺れていることを表している。
 いっそ那智に貫かれた時に死にたかったかも知れない。
 真実は斎木が思っていたものより、きっと残酷なものだっただろうから。
 だが心臓は鼓動を刻み続け、那智は己の発言を覆すことはなかった。



 


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