七




 
 嗚咽が小さく響く部屋の中で立ちつくした。
 かける言葉などあるはずがない。
 痛ましい姿をただ見ていることしか出来ず、目を伏せると那智に手を取られた。
 そしてそのまま玄関に向かう。
 玄関のドアはノブの周囲が壊れていた。刃物で斬られたような跡がある。
 もしかすると、那智が自分の刀で斬ったのかも知れない。
 靴を履くために手を離して貰ったのだが、外に出ると再び手首を掴まれた。
 逃げるとでも思っているのだろうか。
 足早に斎木の家を後にする。
「……悲劇だな」
 皓弥は置き去りにされた斎木の姿を思い出す。
 彼はずっと彼女の面影を背負って生きていくのだろう。
 好きだった分、大切だと思っていた分、あの人は失った人の重さを抱えていく。しかも自分のせいで亡くなったかも知れないという、大きすぎる傷口を持ったまま。
(鬼になんてなるはずがないって言っていたけど)
 斎木は、彼女が鬼になるはずがないと言っていた。
 それに皓弥も頷いた。
 鬼に襲われて生きているのに、どうしてそんなものになりたがるものかと。
 けれど那智の口から聞こえてきた、彼女の思い同調するところは多々あった。
 鬼から守られていた彼女にも、斎木を守りたいという気持ちがあったのだ。皓弥だってその気持ちはある。
 もし那智が怪我をしたのなら、そして鬼に襲われるようなことがあったのなら。
 那智を守りたいと心の底から願うだろう。そのために力が欲しいのだと切望するだろう。
 そして彼女はその思いが強すぎて、鬼に魅入られた。
 禁断と知りつつ、鬼に焦がれればどうなるかも知っていながら。それでも自分の気持ちを抑えられなかった。
 それほど、斎木が大切だった。
 けれど斎木を守る力を手に入れれば、もう彼女は人ではいられず、鬼に墜ちて、斎木の側にいることが出来なくなった。
 本末転倒だ。
 いくら力を手に入れても、斎木を守るどころか死ぬしかなかった。
 愚かだと言ってしまえばそれで終わりだった。だが、その切なる願いだけは、皓弥にも苦しいほど理解出来る。
 無力である自分を疎ましくて、どうにかして今を抜け出したくてあがいているその思いだけは。
(俺ならどうするだろう)
 那智が弱って、鬼に対抗出来なくなった時。もし鬼に襲われるかも知れないという状況になったら。どうしても力が必要になった時はどうするだろう。
 想像してみても答えはない。
 だが鬼に力を求めるようなことだけはしないと強く誓う。
 自分に刀を突き刺して、殺してしまう那智の姿を思うとあまりにも痛々しくて死ぬより辛い気がするのだ。
 主と言って慕ってくれるのなら、最後まで主でいたい。
 それ以外の何者にも、なりたくない。
 手首を掴んではむっとしているような顔で皓弥より僅かに先を歩く男を見上げる。
 斎木のことがよほど気にくわなかったのだろう。珍しく不機嫌そうだ。
「おまえが刀であの人を刺した時、血が凍るかと思った」
 斎木の家に入ってきた時、那智は無表情だった。それは今機嫌の悪さを見せている様子よりずっと怖かった。
 そしてそのまま刀を人の身体に突き刺した瞬間、皓弥は心臓が止まるかと思った。
 鬼を刺しているところは何度も見ている。けれどそれが人間だと思うと、どうしても直視出来ない。
「人を……殺すのかと思った」
 那智は歩みを緩めて、ちらりと皓弥を振り返った。
 目が合うとそこには怒りがない。ただ真っ直ぐ皓弥を見てくる。いつもの那智だ。
 他には見るものがないというように、那智はいつも皓弥を真っ向から見つめてくる。最初はそれが苦手だった。
 元々視線というもの自体、緊張感を与えられるものなのだ。まるで鬼に狙われているかのように感じてしまう。
 だが那智の視線は大抵柔らかで、いつの間にか目を合わせることが自然になっていた。
「でも人は斬れないんだな」
 貫かれたはずの斎木からは血が流れていなかった。
 傷一つ付いていないのだ。
 刀は確かに埋め込まれたというのに。
 そもそも那智の刀は、那智という人の身体の中から生み出されている。人の身体が鞘になっているのだ。
 だから人間に危害を加えることはないのだろう。
 冷静になってみれば、そう分析出来た。
「斬れるよ」
「え」
「刀だからね。人も斬れる」
 那智はいとも簡単に皓弥の考えを否定した。
 けれどあの時、刀は確かに人体に刺さっていたはずだ。
 那智はそれを成していた。幻だったという話ではないだろう。皓弥は酔ってもいなければ、幻覚を呼び起こすようなことは何一つしていない。
 どういうことだ?と皓弥は目で問いかける。
「まぁ斬っても灰にはならないけどね」
 死体が丸のまま残るということだろう。だが皓弥が知りたいのは斬られた後のことはではない。
「でも、あの人の胸に刀は刺さってただろ?」
「あれは身体の刺さる前に刀の先端を溶かして消した」
 溶かした。そう言われて、思い出すのは那智が刀を自身の中にしまう際の光景だ。
 刀を掴んでいた手を軽く振るだけで、刀はまるで高熱に溶けた飴のようにくにゃりと形を変える。そして煙のように消えていくのだ。
 おそらく刀を自由に変化出来るのだろう。
 それを那智はあの時やっていたらしい。
 まるで身体に突き刺さったように見せるため、斎木の肌に触れた刀の先から溶かしてしまったのだろう。
「だから正しくは、あれを斬ってはいない」
 温情をかけたのか。
 あれほど酷い扱いをしたのに。
(やっぱり人は斬れないか)
 斎木を殴り、蹴り倒しては踏みつけていた。それも酷い暴行だ。
 だが那智は厳密には人ではないらしい。情をかれること自体興味がないような素振りもある。
 だが最後の一線、命を奪うというところには抵抗があるのだろう。
 そのことにほっとした。
 皓弥は人間だ。同種を殺すことには酷く抵抗感と嫌悪感がある。
「あれは生かしておいた方がいいと思って」
 つまらなそうな顔をして、那智は前を向いた。
 そして二人は並んで歩く。
「これからあの男は自分を呪い続ける。俺に向けていただろう憎しみは、全て自分に向く」
 温情だと思った那智の台詞が、ここにきて異色を帯びた。
 それは酷く鋭利な言葉たちだ。
「死ぬまで嘆き続けるだろうな」
 淡々と、どうでも良いことのように那智は口にした。
 しかし言っている内容は毒に溢れてくる。
 強く、冷たい怒りを感じて、皓弥は再びぞくりとしたものを背筋に感じる。けれどそれはすぐに掻き消えてしまった。
 他人に対して情を与えるような者ではないと、すでに知っていたはずだ。今更那智が酷いなんて言い出したところで今更過ぎる。
「鬼だな」
 斎木は那智を鬼に近い生き物だと言っていた。それも今は頷けてしまう。
 けれど、人でなしとしか言いようのない人間など珍しくも何ともない。
 皓弥とて優しさに溢れた人間ではないのだ。むしろ人に対しては警戒心の方が前に出る。
「普通だよ。皓弥にちょっかいを出したんだ。万死に値する。これくらいじゃ生ぬるいくらいだ」
 彼女の話を教えたのは、彼女の気持ちを知らない斎木のために教えてやったと思ったのだが。実際は苦しめるために伝えただけなのかも知れない。
(恐ろしい男だな)
 相手が一番傷付くのはどういうところなのか、この男は把握している。
 敵に回すと最も厄介だろう。
「皓弥はどうしてあの男について行ったの?誘拐?」
 ちらりと皓弥を見る那智の視線は、苛立ちのようなものが混じっていた。
 相当心配させてしまったらしい。
 普段ならこんな眼差しを向けられることはないのだ。
「……那智について教えてくれるって言われた」
 素直に事情を話したら怒りそうだ。
 そうは思うのだが、偽りを作り出して斎木のせいにしてしまえば、その足で斎木の家に戻って今度こそトドメをさしかねない。
 それはいくらなんでも非情過ぎる。
「俺の知らない那智がいるって」
 それが知りたかったのだ。
 知らない人について行ってはいけない。物心つく頃にはすでに教え込まれていたことに逆らってしまうほど。
 元々警戒心が強い皓弥にしてみれば、有り得ないような行動だった。
 だからこそ、那智も誘拐だなんて物騒な単語を出してきたのだろう。
「知ることは出来た?」
 那智は一呼吸おいてから、苦笑した。
 仕方がないと言うような顔からは、苛立ちが消えている。
 どうやら那智の神経を逆撫ですることはなかったようだ。
「多少」
 那智は変わった。昔は冷たかった。
 そう言われていた理由を見ることが出来た。
 確かに皓弥だけでは見ることの出来なかった顔だろう。
 だがこれで那智の全てを見たかと言うと、違うのだろう。
 この男は謎が多すぎる。
 しかし誰かと付き合っていて、数年で相手の全てが理解出来るなんてことはない。これから先も色々と発見していくことだろう。
「俺のことが知りたくても、知らない人にはついていかないように」
「分かってる」
「理解していたら、今回みたいなことにはならないと思うけど」
 ちくりと嫌味を言われて、皓弥は確かにと内心頷く。
「じゃないと家に閉じこめるよ」
 冗談めかした言い方だが、そこに本気を感じ取った。
 もし今後もこんなことがあれば、那智は本気で皓弥の軟禁を考え始めるだろう。
 それは勘弁して欲しい。
 一時期過保護すぎて一人で外出出来なかった時も難儀したのだ。
 別に外出するのが好きなタイプではない。家でだらだらしているのが性には合っているのだが、近くのコンビニに行くにも那智と一緒というのは面倒だ。
 縛られているという感覚が鬱陶しい。
「すまん。もうこんなことにはならない」
 自宅に閉じこめられる前に、皓弥は真剣に謝った。
 それにしてもいい年をして自宅謹慎を恐れなければならないというのも、情けない部分がある。
「俺のこと心配性って言うけど。これじゃ心休まる間がない」
「すまん」
「皓弥がいなくなったら、俺は消えるしかないんだから」
 主あっての刀なのだと那智は当然のこととして告げる。
「あの男みたいに生き残るなんてことは出来ない」
 復讐すら、那智は思い付かないのかも知れない。
 生きる力の全てを失い、死ぬことしか残されていないのだろうか。
 それもまた哀れに生き方であるような気がした。
 誰かに命まで握られて生きているということは、酷く儚いのではないだろうか。
 けれど皓弥の手を掴んでいる男は悠然としており、誰よりも強い存在感があった。
(生かされてるのは俺だ)
 那智は皓弥がいるから生きていると言うけれど、本当は皓弥の方が那智に生かされている気がする。
 結局、双方が互いを生かしているのだ。
(今更鬼だろうが、非情だろうが、どうしようもないだろ)
 那智がいなければ生きていけない。それだけが事実なのだから。






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