人を殺す刀。 「…人を殺す必要がありません」 那智の顔が脳裏に浮かぶ。 鬼を前にした、冷静過ぎる表情も知っている。だがそれが人に向けられる必要がない。 冷静な男が人を斬るなんてリスクを犯すはずがない。 嘘だと初めから否定するより、一呼吸置いてから思案した。けれど結果は同じだ。 「あれが人に恨みでも持っているとも思えない」 激情にかられて誰かを殺すなんて、想像も出来ない。 那智は皓弥以外の他人に無関心なのだ。 「だが私の恋人は殺された」 皓弥がそう口にしても、斎木は揺るがない。眼差しをきつくしただけだった。 それまであった冷静さを乱し、血を吐くかのような声だ。 この男の話はきっと偽りではないのだろう。 けれど真実だとは、思いたくもないし思えなかった。 男は溜息をつくと、カップを手にして一口飲んだ。 そして重々しく口を開いた。 「彼女は、特別な生まれでした」 小さな音を立てカップがソーサーに乗せられる。 「貴方と同じです。鬼に好かれる体質でした」 斎木の言ったことに、耳を疑った。 鬼に特別好かれる体質を持った人間が真咲以外にもごくまれにいるとは、母から聞いていた。けれどそれはとても低い確率である上に、周囲がそれを理解していないために、生まれてすぐに鬼に喰われることが多いとも。 皓弥がここまで生きて来られたのは、母が守ってくれたからだ。 真咲の人間は大抵鬼に好かれる。だからいつも用心して守ってくれた。そして皓弥にも自分の身を守るように教育してくれた。 けれど普通の家庭は、鬼など知らないというところでは何の用心もせず、幼い命を容易に鬼の手に奪われてしまう。 だが、斎木の恋人はきちんと守られて育ったのだろう。 もしかすると斎木が守ったのかも知れない。 「彼女の家には、ごくまれにそういう者が出るそうです」 「血筋…ですか」 真咲以外にもそんなことがあったとは、知らなかった。 「ごくまれです。貴方の所とは比較にならないほどに」 ということは真咲の血ほどに、強く鬼を引き寄せるわけではないのかも知れない。 「彼女の家は鬼を見る力がありました。そのせいか、自分の子どもが鬼に好かれているというのもすぐに分かったようです」 鬼を見ることの出来る人間。それは皓弥の元に鬼を斬る仕事が入ってくる前段階の下調べをしている人々のことだ。 本当に鬼がいるか。いるとすればどんな鬼か、どれほど強いかということを実際目にして確認する。 「けれど彼女の両親は鬼を見ることに関しては優秀でしたが。鬼を相手にする力はあまり強くはなかった」 斎木は淡々と、先ほどの鋭さを冷ましたように語る。 「そして彼女自身も」 絶望的な状態だ。 自分に力がない上に、周囲にも力がなければ鬼に対抗出来ない。 喰われるのが目に見えている。 「なので彼女の両親は私の父に娘を守ってくれるように頼みました。どうやら父と彼女の両親とは古くから付き合いがあったようで、私は幼い頃からずっと彼女の側にいました」 ずっと、ともう一度斎木は繰り返した。 「一緒に育ち、いつしか彼女は私を頼るようになりました。私も彼女が守りたかった」 きっと斎木は小さな頃から共に育った少女を、気が付いたら守りたいと思っていたのだろう。 父親より斎木の方が年が近いだろうから、きっと少女も斎木の方が付き合いやすかったに違いない。 いい関係だと、ちらりと思った。 皓弥は母に守られていた。だが年が近く互いに信用し合える相手が欲しいと願ったこともあった。 「彼女は、自分を呪っていました。生まれながらして鬼を引き寄せる体質を疎んでいた。それは貴方にも理解して頂けると思います。いえ、貴方だからこそ、分かって頂けるのでしょう」 斎木は苦笑を浮かべた。優しげな表情を見せているのは、きっと皓弥が彼女に近いものを持っているからだろう。 たったそれだけのことで、微笑むことが出来るほどこの人は恋人が好きなのだ。 「私はそんな彼女が可哀想で仕方がなかった。支えたくて、守りたくて、その気持ちが恋愛感情だと年を重ねて気が付きました」 幼い子どもの頃には当たり前のように抱いていた感情が、本当は特別なものなのだと、斎木は気が付いたのだろう。 「彼女は私の気持ちを受け入れてくれました。そして結婚の約束をして、ここに引っ越してきました」 ここは二人の家らしい。 きっと、ここで仲睦まじく暮らしていく話をしたのだろう。 柔らかな、あたたかい話だ。 彼女が生きていたのなら。 「それを、あの男が全て壊した」 苦笑はすぅと消えた。代わりに憎悪の滲む声が聞こえてくる。 落ち着いた雰囲気の家の中に彼女はおらず、寂しげな空気が満ちていた。それは斎木の心の中と同じだろう。 欠けてしまったものが大きすぎて、色彩すらあせてしまっているようだ。 「あの男は彼女を鬼だと言って斬った」 目の前に那智がいれば襲いかかるのではないかと思うほど、ぎらついた目で斎木はテーブルを睨み付けた。 「刀で、ですか?」 問いかけると斎木は視線を上げた。 殺気の混じった瞳を直視するのは皓弥にとって辛い。 軽く俯くと、斎木が深々と息を吐いた。 「はい」 「それで、彼女は亡くなったのですか?」 「そう。刀で斬られれば死ぬのは当然です」 人間なのですから。と斎木は言う。 確かにそうだ。 けれど皓弥はあることが気になった。 「灰になって?」 鬼は那智に斬られると灰になる。それは那智が鬼を喰うからだ。 他の刃物などは鬼を斬っても灰にはならない。どろどろとしたジェル状の物体になっては、陰に潜んでいる小さな飢鬼によって喰われてしまうのだ。 「はい」 「それはおかしい」 頷いた斎木に、はっきりと疑問を上げた。 「那智は鬼を喰います。喰われた鬼は灰になる。喰わなければ灰にはならないのです。つまり、人であったのなら死体が残る」 灰になったということは、彼女は人ではなく鬼になっていたということだ。 それを告げて、斎木は動揺するかと思った。けれど皓弥の予想に反して、返ってきたのは仕方なさそうな苦笑だった。 「貴方は彼が人を斬るところを見たことがありますか?」 言葉が出てこなかった。 そんなものを目にしたことがあるはずがない。 もし見ていれば、皓弥は那智の傍らで安穏と暮らしてはいないだろう。 那智は人を斬らないと説得するだけの材料を見付けたと思ったのだが、一瞬で無意味になる。 口を開けずにいると、斎木はそれが否定だと理解したらしい。 「彼女は鬼になんてなりません。貴方だって鬼にはならないでしょう?自分を喰い殺そうとしている浅ましいものになど」 「…そうですね」 同意するしかなかった。 自分を見て食欲を見せてくる、あんなおぞましい生き物になりたいなど生まれてこのかた一度も思ったことはない。 当然だ。 誰があんな貪欲で、思考力もないようなけだものになり下がりたいと思うものか。 「それと同じことですよ」 皓弥が感じたものと同じものを彼女も感じていたのなら、きっと気持ちは同じだ。 なら、どうして灰になったのか。 那智が斬ったのか。 分からない。 「私は彼女が斬られた場面を見てしまった。丁度、家に帰宅した時に見てしまったのです。当然私はあの男につかみかかった。ですがあっさりとやられてしまった」 斎木は肘を立てて、手を組んだ。 苦渋の滲んだ表情で、口元だけ自嘲を浮かべている。 「動けなくなるまでやられて、入院しました」 「入院…」 完全に暴行、刑事事件になるような話だ。 那智は他人に対して容赦ない時があるが、斎木に関しては程度が酷い。 「退院してからは、あの男のことを調べました。どこの誰なのか、きっかけを掴めば後は速いものでした」 那智は一部では有名らしい。なのでその一部に入り込めば、後は容易だっただろう。 「そして、貴方のことを知った。彼女と似た体質だということも」 那智が、殺された恋人と似た体質の者と暮らしている。 そう知った時、斎木はどう思っただろう。 きっと一人で暮らしている、普通の人間と暮らしていると知った時よりも、憎いと思ったのではないだろうか。 自分から恋人を奪ったくせに、と。 「蓮城那智は人ではありません。むしろ鬼に近い」 斎木は真剣な双眸で皓弥を見た。 大学の帰り道で出会った時と同じような眼差しだ。 無視することを許さないほど真摯な視線。 「今は平和に暮らしているかも知れません。けれどいつか裏切られて、殺されるかも知れない」 (喰われるぞ、と言いたいのか) 那智は人じゃない。むしろ鬼に近い。だから鬼を引き寄せる体質のおまえはいつか喰われるぞと。 鬼に好かれる体質の彼女が殺されたのなら、そう考えるのも仕方のないことなのかも知れない。 けれど、はいそうですかと聞き入れるわけにはいかなかった。 「俺は那智が人を殺すとは信じられません」 すでに一年近く共に暮らして、那智がいる生活が当たり前になっている。刀がいることが皓弥の安堵になっている。 それなのに、手放せと会ったばかりの人間に言われて従えるはずもない。 「貴方は出会う前の彼の姿を知らない。今では別人のように彼は変わったと聞きます。いつ、昔の顔が出てくるかは分かりませんよ」 那智は別の顔があるのだ。 それは斎木以外の人間も言っていた。 那智は変わった。 まるで別人のように。 本人までそれを笑って肯定していた。 「鬼以上の鬼ですよ。あれは」 斎木は、皓弥と出会う前の那智を知っている。 皓弥の知らない那智を知っている。 そのことに大きく心が揺らいだ。 人を殺すはずがない。斬るはずがない。 それならばどうしてこの男は、こんなにも恨みを抱いているのか。どうして彼女は死んだのか。 (あいつは…) 皓弥の知らない顔を持っている。 目を伏せても、浮かんでくるのは今朝もにこやかに朝ご飯を作っていた姿だ。 「ですが、俺は那智がいなければ生きていけません」 それは心理的なものも含まれた事実だった。 「那智がいなければ、俺は鬼に喰われるでしょう」 母がそうであったように。 自分一人で守るには限界があるのだ。 この血は。 「そう思うのなら同業者を頼れば良いのではないでしょうか。私も力を貸します」 「四六時中一緒にいられるわけではないでしょう。俺も、誰であっても一緒に生活出来るわけじゃない」 那智と一緒に暮らし始めた時も、他人が近くにいると思うだけで眠りは浅くなった。 それでも眠ることが出来たこと自体に驚いたほど、皓弥は警戒心が強い。 他人が側にいるなんて、本当は苦しいだけなのだ。 那智だけが特別だった。 「ですが、殺されるより良いでしょう?」 どうして頷かないのか、斎木は理解が出来ないと言う顔で告げる。 けれど皓弥に同意しようという気は欠片もなかった。 「那智に殺されるのなら仕方がありません」 柔らかな声音で那智から離れるように言った人に、皓弥は堂々と告げた。 出会ったばかりの頃、実際にそう思ったことがある。 この男が自分を殺そうと思えば容易いことなのだと、感じた。 今は、そんな時が来ても仕方がないと諦めてしまうことだろう。 那智から身を守られて、抱き締められて安心を貰い、皓弥は他人に寄り掛かることを覚えた。寄り掛かっても良いのだと初めて感じられた。 その嬉しさはかけがえのないものだ。 那智だけがくれる。那智以外の人には与えて貰えるはずもないもの。 それを十分貰った。 これから先の未来を明け渡しても良いと思えるほどに。 心の奥底からそう思えて、意外と那智に心奪われているなと笑みが浮かんできた。 出会う前はこんな自分がいるなんて、思いもしなかった。 一人で十分だと思っていた。 それを変えられただけでも、出会えた幸運に感謝していた。 次 |