大学からの帰り道。 自転車で通学している皓弥は、駐輪場まで歩いていた。 夕暮れの時刻は視界が少しだけ悪くなる。 茜色に染まりつつある空。 こんな時間でも真っ直ぐ家に帰るなんて、小学生みたいだ。 皓弥はそう思い苦笑するが、夜になれば暗がりが増える。するとそれに混じって鬼も増えるのだ。 だからなるべく夜は出歩かないようにしている。 女子どものようで情けないとは思うのだが、面倒を増やさないためには仕方がない。 数え切れないほど呟いた「厄介だな」という言葉を今日も口にしてしまった時、視線を感じた。 ぎらついた、浅ましい視線。 身を守るために、視線に関しては敏感になっているためすぐさま皓弥は周囲を見渡す。 すると近くのビルの影に一匹の猫がいた。見たところ何の変哲もないように見えるが、皓弥は違和感に襲われる。 鬼だ。 威嚇をするように口を大きく開けている。異様に尖った牙は、この身体を貪りたいと言っているようなものだ。 舌打ちをして鞄の中に手を入れた。そこにはいつも短刀が入っている。 鬼と丸腰で向かい合うなんて自殺行為だ。 たとえ違法だと責められても、皓弥は刃物を持たずに歩くことは出来ない。 人に向けるためではない。あくまでも自衛。 そして、鬼を斬るためだけのものだ。 「野良猫なんざみんな保健所に入れとけ」 その辺りにうろついているから鬼になんて墜ちるのだ。 野良犬、野良猫には襲われた経験しかない皓弥にとって、野良になっている生き物はみんな敵だ。 鞄の中にある短刀を引き抜くのと、猫が地を蹴ったのが同時だった。 ただの野良猫と変わりない大きさだというのに、動きは目で追うのが必死なほど速い。おそらく食らいついてくる顎の力も尋常ではないのだろう。 鬼になった途端に力をつけるのだから、忌々しい。 刃が夕色に晒されるより先に、猫は皓弥の足元に縫いつけられた。 その背中に深々とナイフが刺さったのだ。 ペーパーナイフのように刃が薄く、細いナイフに皓弥は後ろを振り替えた。 刃の傾いた角度からして、後ろから放たれたと思ったからだ。 そこには一人の男が立っていた。 紺のスーツ姿で、微笑んでいる。 年は三十手前ほどに見え、姿勢が良い。服装のせいか、規律正しい印象を受けた。 「特殊な血だと苦労しますね」 声音も落ち着いていたが、皓弥は言われた内容に身構える。 この血のことを知っている。 鬼ではない。人に間違いなかった。 皓弥を見ても食欲を見せないのだ。鬼ならば必ず皓弥に興味を示してくる。 けれどこの血をことを知っているということは、ただの人ではないだろう。 (なんだ、こいつ) 鬼の関係者か。 睨み付けると男が会釈をした。 「真咲さんですね?私は斎木と申します」 斎木などという名前に覚えはない。何のために目の前にいるのか予想がつかなかった。 「貴方と同業者です」 (だろうな) 鬼ではないというのに皓弥の血を知っている。可能性としては、特殊な仕事に就いており、鬼のことに関しての情報を得ることが出来る人間くらいだろう。 「何の用で」 「蓮城さんについてお話が」 那智の名を出され、皓弥はようやくこの男がどんな者なのか少しだけ理解した。 荻野目が話していた、那智を嗅ぎ回っている人間がこの斎木なのだろう。 「何も話すことはありません」 那智のことをよく知っている人物として皓弥に接触をしてきたらしい。だが皓弥が那智に関しての情報を他人に零す利点がない。 尋ねられる前にさっさと切り離してしまおうとした。だが男は微笑みを深くするだけだった。 「いえ、貴方から何かを聞き出そうとは思いません。私は貴方にお話したいのです」 「話?」 「貴方が知らないであろう蓮城那智の姿を」 予想していなかった言葉に、皓弥は斎木の顔を見つめた。 知らない那智の顔。 四六時中那智と一緒にいるような皓弥より、この男の方が那智を知っているというのだろうか。 そんなはずはないと思う反面、出会う前の那智の姿を一切知らないことが頭の中をよぎった。 那智を知っている人はみんな、口をそろえて那智は変わったという。その変わる前の那智を、皓弥は知らない。 「何故、話なんて」 たとえ知っていたとして、この男が皓弥にそれを話す理由は何なのか。 得体の知れない男の態度に、皓弥は迷いだけがあった。 「貴方も騙されているのではないかと思いまして」 騙されている。そう言った時の男は笑みに苦みを混ぜた。 可哀想な人だと、皓弥に告げているかのようだ。 「あの男の残酷さを知らずに共にいるのではないかと。それではいつか悲劇が訪れます」 残酷だと那智を表現している。 鬼に対している那智は、確かにそう言われてもおかしくないほど冷たい。 けれど鬼になんざ情けをかける必要などない。皓弥も同じように冷酷に扱っていた。 だがこの男は人間だ。人間に対しても那智は残酷と呼ばれるようなことをしたのだろうか。 「…貴方に心配してもらういわれがありません」 那智の過去に興味をひかれるが、斎木という男を信用出来るかと言うと首を振る。 親切心でわざわざこんなところまで来るはずもないだろう。 「私は犠牲者を増やしたくないだけです」 犠牲者だなんて単語は、普段ニュースの中からしか聞いていない。 大袈裟な響きを口にするものだな、と冷静に受け止めていた。 「私の恋人は彼によって殺されたのです」 斎木の声は大きくはなかった。 だがそこにある重さは、猫に突き刺さったナイフのように皓弥へと向けられてきた。 鋭い音に、皓弥は眉を少しばかり寄せた。 「…どういうことですか」 男の恋人ということは人間ではないのか。 鬼を狩る仕事をしているというのに、鬼と付き合うことなんてあるのだろうか。 「話を聞いて頂けませんか。聞けば貴方もあの男に対する見方を変えるでしょう」 真実を見るでしょう。 男ははっきりと口にする。 まやかしだと言って立ち去ることは出来た。 けれど、那智は変わったと言った人たちの顔が思い浮かんだ。 皓弥の横で嬉しそうにしている那智が有り得ないと言った者もいた。 (別の顔、か) 皓弥の知らない、那智がいる。 込み入った話になる。 そう言って男は自宅へと皓弥を誘った。 相手の領域に足を踏み入れるのは抵抗があったのだが、人の耳がある場所で話したいような内容ではないと言われれば頷くしかなかった。 移動はタクシーを使い自宅の前に止まらせた。 誘拐をしたいのなら、この行動は明らかに間違いだろう。タクシーの運転手という目撃者を作っている。 そこまで考えて、大人の男を誘拐する理由などないかと警戒心の強さを自嘲した。 それに相手は鬼ではなく人間だ。 鞄の中に短刀も入っている。 いざとなれば男相手に戦える。 斎木の自宅は洋風の一軒家だった。 門をくぐると左右に小さな庭があったが、雑草が目立っていた。手入れが行き届いていないようだ。 けれど庭木は生き生きと育っている。 水だけは与えているのかも知れない。 家の中に入るとリビングへと通された。家の外見と同じ、内装も洋風で夕暮れを過ぎているせいか独特の雰囲気を持っていた。 柔らかい色の電気をつけると、アンティーク家具が一層奥深さを感じさせた。 装飾の凝った小さなテーブルの上に、写真立てが置かれていた。そこには一人の女性が映っている。 二十ほどの、線の細い女性だ。やんわりと微笑んでいる。 これが、斎木が言っていた恋人だろうか。 「どうぞ」 写真立てがあるテーブルではなく、深みのある色合いをしたテーブルの上に紅茶が置かれた。 古めかしいな、と皓弥は西洋文化を思い出した。 だが専門はどちらかというと和なのでこれといった西洋の時代が出てくるわけでもない。 斎木も自分の分の紅茶を置き、向かいに座った。 椅子が引かれる小さな音がはっきり聞こえてくる。 「蓮城さんとは、いつから一緒に過ごされているのですか?」 那智のことを調べているらしいが、詳しいところまでは知ることが出来なかったらしい。 「そろそろ一年でしょうか」 口にしてから、まだそれだけしか経っていないのかと小さな驚きを抱く。 もっと前から那智は側にいたように気がする。それだけ皓弥の中に入り込んできているのだろう。 「そうですか。彼は、主である真咲さんには優しいと聞きました」 斎木は苦笑を浮かべている。 この男はずっと笑みを浮かべたままだ。苦みを帯びてはいるが。 それが皓弥に違和感を覚えさせる。 斎木の目は、全く細められない。淡々としているのに、どうして唇を緩める必要があるのか。 まるで皮肉を告げているかのようだ。 「刀ですから」 那智はそういう生き物だ。 そうとしか言いようがない。 主に優しい存在なのだと。 「では、やはり貴方は彼の残虐な一面を知らないのですね」 残酷が残虐に言い換えられていた。それほど酷い場面をこの男は目にしたというのだろうか。 「鬼に関してはそうですよ」 人の形をしていようが何だろうが、鬼であるのならば躊躇いもなく斬り捨てる。 皓弥に害を与えようとするものならば、しっかり罵倒付きで食い殺していた。 その様を見れば残酷だと感じるのかも知れない。 「鬼に関して残虐になるのは当たり前です」 斎木は初めて嫌悪を見せた。 どうやら鬼に関しては不快感があるようだ。 皓弥も似た気持ちを持っているだけに、その反応は同意出来る。 「私が言いたいのは鬼のことではありません」 「では?」 何が言いたい。 皓弥は斎木と出会ってからずっと思っていたことをようやく問いかけられた。 「彼は人を殺す刀です」 真剣な眼差しで、斎木はそう言った。 人を殺す刀。 皓弥の耳の奥でその声が反響した。 脳裏に那智の刀が蘇る。 氷のように透き通った、鋭い刃。それは鬼を斬っては灰に変えるものだ。 それが人の身体を貫くというのか。 反射的に嘘だ、と言いたくなった。けれど斎木が纏っている気迫が、皓弥の感情的な声を封じてしまう。 頭ごなしの批判など聞き入れはしないと示していた。 那智の前では、自分など些末な存在だと感じたことを思い出す。いざとなれば、那智が皓弥を殺すことなどあまりにも容易いことなのだろうと。 けれど、実際にそのことに怯えたことなどなかった。 あの人は、刃を皓弥に向けることなどなかったから。 向けてくるのは、柔らかな腕や、甘すぎるほどの声、愛おしいと言う眼差しばかりだった。 けれどそれは、他の人間にも向けられていたわけではない。 皓弥は神ただでさえ緊張していた神経が更に張り詰めていくのを感じた。 次 |