壱




 
 携帯電話が震える振動音が聞こえていた。
 皓弥はキッチンで清涼飲料水をグラスにそそいでいたところで、誰が電話をかけてきたのかと首を傾げる。
 メールなら振動は三秒ほどで止まる。けれど数秒経っても振動は続いていた。
 友人はメールを主としている。電話をかけてくる時はよほど急いでいる時くらいだ。
 何事かと思って自室に行く。だが携帯には何の変化もなかった。
「ってことは、那智か」
 震えている音を聞きながら、珍しいなと思った。
 那智が携帯を忘れて大学に行くなんて。
 キッチンに戻って飲料水を飲んでいると、再び携帯が震える音が聞こえてきた。
 二度も鳴らされているということは、何か用事があるのだろう。
 だが皓弥が那智の携帯電話に出るわけにはいかない。
 プライバシーの問題だ。
 それに那智の友人関係も、仕事関係も、皓弥はほとんど知らない。
 出たところで何の役にも立たないだろう。
 さて、いつ止まることか。
 皓弥はグラスを握ったまま自室に戻った。
 今日は入っている講義が休講になっているため、大学には行っていない。
 起きたのもすでに昼が近くなってからだ。
 何をするか。レポートでも真面目に書くかとパソコンに目をやると、今度は家の電話が鳴った。
 これは意外だった。
 皓弥も那智も、携帯電話で情報のやりとりをしている。そもそも家の電話より携帯電話の方が捕まりやすいのだ。
 なので携帯電話ばかり使用しているため、家の電話が鳴る時なんて滅多になかった。
 家の電話は必要ないだろうという話も出ていたほどだ。
 きっと那智が電話に出なくて、そのため家に電話をかけてきたのだろう。
 よほど急用なのだろう。
 電話のナンバーディスプレイを見てみるとそこには皓弥も知っている番号が出ていた。
「もしもし」
『荻野目です。こんにちは』
 母と親しかった人の声だ。人とは違う、特殊な仕事を母に回してくれていた人。そして母が亡くなってからは皓弥の元に、奇妙な仕事を渡してくれるようになった。
 子どもの頃から皓弥を知っているせいか、よく気にかけてくれている。
 仕事関係のことは那智の方が事情をよく知っているので、那智と連絡を取っているらしいが、それ以外の用事だと必ず皓弥に声をかけてくれる。
 親戚など誰もおらず、頼れる人が僅かにしかいない皓弥にとって荻野目はかけがえのない人だった。
『蓮城さんは外出中ですか?』
 那智の所在を尋ねるということは、那智に用があるのだろう。
 携帯電話が鳴りやんですぐに家の電話が鳴ったということは、連絡を取りたがっていたのは荻野目だったのだろう。
「今、大学に。急用ですか?」
 何度も携帯電話を鳴らすほどだ。明確な用があるのだろう。
 そもそも荻野目は那智と他愛もない話をするような人ではない。仕事がなければ接触など持たないだろう。
 仕事のことで急を要するとなると、皓弥だけでは対処出来ないかも知れない。
 皓弥一人で仕事をすることなどないからだ。刀がいなければ、皓弥などただ鬼を引き寄せるだけの厄介な存在でしかない。
『急用とは言えませんが、耳に入れておいて欲しいことがあります』
 耳に入れておいて欲しいと入れても、那智の耳はここにはない。
「那智は今携帯を自宅に忘れていて。ちょっと連絡が取れないんです」
 そもそも携帯電話を鳴らしても出ないのだから、その辺りは荻野目も予測がついているだろう。
『そうですか。道理で鳴らしても出られないわけですね。いつもなら出ることが出来ない場合は電源を切っておられるので、妙だとは思ったのですが』
 那智は集中したい時は携帯の電源を切っている。他人の邪魔が入ることが許せないらしい。
 自宅ではよく電源を切って集中する姿を見ているので、外でもきっとそうなのだろう。
 皓弥は電話をかけることはほとんどなく、メールで用事を伝えているので電源を切っているかどうかを感じたことはない。
「俺が伝言しておきましょうか」
 荻野目の口から、皓弥に知られたくない情報が出てくるとは思えなかったので、そう提案した。
『それでは、お願いします』
「はい。会ったらすぐに伝えます」
 家の玄関を開けてすぐに話をすることになるだろう。
『近頃、蓮城さんのことについて調べ回っている者がいるようです。この筋では名が通っている人なので、情報が流れていること自体は気にするようなことではないのですが』
 那智の名前は、鬼などを狩る人の間では有名らしい。
 人間ではなく、刀という生き物であるというところからして、人の口に乗りやすいだろう。
 その上、斬り捨ててきた鬼の数と、その強さが生半可ではないらしいのだ。
 蓮城というのはみんなそうらしく、蓮城の名を持つ者はみな一線引いた目で見られているようだ。
『どうも込み入ったことも調べているらしくて』
「込み入ったこと?」
『住所や、人間関係などを』
 荻野目の声が曇った。
 住所を調べるということは、那智に接触を試みているということだ。
 その上人間関係を調べるなんて、意図がなければしない。
「ということは俺のことも調べられてますね」
 同じ家に住んでいる上に、一緒に仕事をしている皓弥など、真っ先に調べられるだろう。
 そしてすぐに分かるはずだ。那智の主であることが。
『おそらくは』
 気味が悪い。
 最近は個人情報がどんな形で使われているか分からないようなご時世だ。
 まして鬼を狩る者に調べられているということも、引っかかる。真っ当な仕事ではないと自覚しているだけに、何が起こるか予測が出来ない。
『過去経歴だけを調べているのなら、野次馬精神を持った誰かだと思うのですが。どうも違うようで』
 那智が鬼を斬ることに関してどんな働きをしてきたのか。それだけを調べているのならさして注目しなかっただろう。
 けれど現在那智がどこにいるか、何をしているかなんて調べていては、会いたいと言っているようなものだ。
 そのくせ、荻野目の口から那智に会いたいと言っている人がいるという言葉が出で来ないということは。正攻法で来る気はないのだ。
『組織の内側から調べている節があるので、鬼ではないと思います』
 荻野目はそう言うが、たとえ鬼だったとしても那智にとってみれば気にすることもない些末なことだ。
 鬼であるのなら喰えばいい。
 むしろ鬼より人であることの方が厄介なのかも知れない。
 斬って喰えない分、扱いが面倒だろう。
『ですが物騒な世の中です。警戒して頂いた方がいいだろうと思いまして』
 人間の方が手間だろうと思っている皓弥の考えなど知るはずもない荻野目はそう続けた。
『皓弥君も気を付けて下さい』
 はい、と返事をしながら、鬼にも人にも気を付けなければならないこを再確認して、軽くうんざりしてしまう。
 常に周囲に警戒を、油断してはいけないとは分かっているのだが。実感させられると憂鬱になってしまう。
 いっそ人間不信になって、世界全てを斜に構えて見ていた方が楽なのかも知れない。
 今更そんなことは出来ないだろうが。
 それでは失礼します。と告げられて電話が切れた。
 皓弥は受話器を置いた後、那智が告げた今日のスケジュールを思い出す。
 昨夜、那智は大学は午前で終わると言っていたような気がする。
 大抵お互いのスケジュールは前日の夜、寝る前などに確認し合う。朝にやらないのは皓弥の頭が起きるのに時間がかかるからだ。
 それならば頭がしっかり働いている前日に情報を与えて置いた方が確実だった。
 終わる時間帯も大体把握できていた。
 時計を見ると、今から電車に乗って大学に向かえば丁度終わっているだろう時間だ。
「……心配なんていらないだろうけどな」
 那智は何かに襲われて不覚をとるような男ではない。
 けれど万が一ということもある。
 気にしながら、ここでじっと待ち続けるというのも落ち着かない。それならば動いている方が気が紛れる。
(一回あいつの大学も見てみたいと思ってたしな)
 那智が通っている大学を、見たことがない。
 大学なんてどこも似たようなものかと思うのだが、一度目にしておくのも面白いかも知れない。
 携帯電話を届けにわざわざ大学まで行ったら、那智はどんな顔をするだろうか。
 出不精な皓弥を知っているだけに、きっと驚くことだろう。
 驚く那智というのはあまり見られないので、想像すると多少愉快だった。



 那智は大学の近くに駐車場を借りているらしい。
 車で通学しているのだ。
 どういう貴族だと文句を言ったことはあるが、自転車で通学しており朝の通勤ラッシュを知らない皓弥が言っても罪悪感など沸かないだろう。
 正門からいつも出入りしているということは聞いたことがあるので、皓弥は電車から流れている学生の波に流されていた。
 どこの大学も正門は大きい。
 思わず見上げるほどだ。強固で関係者以外の立ち入りを拒んでいるかのようだ。
 皓弥の通っている大学は煉瓦色のような建物が多いのだが、ここは全体的に白っぽい印象を受けた。
 歩いている大学生らしき人々は、どこもあまり大差がない。
 正門に向かって歩きながら、さてどうするかと思案する。
 このまま学生たちに紛れて大学の中に入ろうか。正門でずっと那智を待っていると不審者のように思われるかも知れない。
 最近は大学も部外者や不審者には厳しくなっていることだろう。
 だが皓弥も現役の大学生である上に、大学など大勢の人間が通っている場所なら一人二人別の人間が混ざっても分かるはずがない。
(でも、入れ違いってのも困るな)
 那智が携帯を持っていないので、どこで待っているという連絡も出来ない。皓弥に気付かずに那智が帰宅してしまう可能性もあった。
(どうするか)
 正門の真ん前に立ち、皓弥は歩みを少しだけ緩めた。
 そびえ立つ門。警備員が両脇におり、ここで立ちつくしていることは出来ないだろう。
(まぁ、この辺りをうろうろしていればいいか)
 那智が通っている大学内部にも興味があるので、とりあえず入り込む。
 正門から真っ直ぐ大きな道があり、ビルのような建物が並んでいる。街路樹のように木々も並んでおり、小さな町のような雰囲気があった。
 那智はどこの建物にいるのか。
 ここで大学院生をやっているということ以外、詳しい内容を知らない。皓弥は文系、那智は理系なのだ。研究内容など聞いても理解出来ると思えない。
 数学関係は、高校の時に諦めてしまっている。
 携帯電話の時刻を確認する。帰宅する時間などから逆算すると、そろそろ大学から出る頃だ。
 ちゃんと見付けられるだろうか。
 那智は皓弥が来ていることなんて知らないだろうから、周囲を気にして来るとは思えない。だから皓弥が気が付かなければすれ違いになるだろう。
 そう思って周囲を見ていると、聞き慣れた声が聞こえた。
「皓弥!?」
 斜め向こうから一人の男が走ってくる。
 背格好からして那智らしき人なのだが、まだ顔は確認出来ない距離だった。
 しかしここで自分を呼ぶこの声は、間違いなく那智だろう。
「どういう目をしてるんだ」
 何かのセンサーでもついてるのだろうか。
 那智が自分に関して特別な感性を持っているような気がするとは常々思っていたのだが、ここまで敏感に察知されると第六感が備わっているとしか思えない。
 やや恐ろしい。
 驚いている那智を見ていると、不意打ち訪問で動揺させるということには成功したようだったが。素直に喜べない自分がいた。
 


 


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