五




 
 よく一人でいさせるものだと思った。
 大学の図書館でその姿を見た時、周りに誰もいないことを確認しては、息を呑んだ。
 あんなにも蠱惑的な香りを放っている者が、こんなにも人間が数多く蠢いている場所で無防備に一人歩いているなんて、信じられない光景だったのだ。
 人間の中に鬼がいるかも知れないとは思わないのか。人の形をしている鬼も多くいる、周囲に馴染んで己を隠している者もいるだろう。それに人が鬼に成り果てるということも、那岐は知ってしまった。
 強い感情に囚われれば人は、鬼に墜ちるのだ。
 それを真咲の者、主である皓弥はよく知っているのではないか。その身を狙われて生きてきたのだ。鬼だけでなく人もまた、恐れに繋がる存在だとは思わないのか。
(蓮城から年の近いものをここに置けば良いだろうに)
 皓弥がこの大学にいるのならば、年の近い蓮城ゆかりの者を入学させて、それとなく守らせれば良かったはずだ。なのにそんなこともせずに皓弥を一人にしているのか。
(年の近い者がいないのか?)
 いくら蓮城の者でも、鬼が喰える者と喰えない者がいる。喰える者の中で、皓弥と年が近い者がいなかったのかも知れない。
 それともそこまで意識が回っていなかったのだろうか。皓弥が見付かったのは最近だと聞いている。それまでは探すこともせずにいたのだと。
 深く関わりすぎて真咲が壊れることを避けたらしいが。兄が刀となり、主を守って安定した暮らしをしているらしいと聞いてからは、もっと早く強引にでも皓弥を探して保護するべきだったのではないかと思う。
 そうすれば、本来ならばしなくても良い苦労をさせることもなかったはずだ。
 蓮城家の、祖父の考えはよく分からない。兄と同じように同じ血統ではあるけれど、酷く遠い場所にいるような祖父は、那岐とは根底から思考が違うのかも知れない。
(……でも俺がここに入ったから)
 皓弥がいるから、と嘉林塚大学に入学したわけではない。だが自分が皓弥の近くにいるのであれば、兄の不在を自分が埋めれば良い。
 大学の外では兄が皓弥をしっかり保護しているだろうが、唯一手が届かないこの大学の中だけでも自分が助けになるべきだろう。
 蓮城にとって優先されることは皓弥の安全だ。そのためには使える者は何だって使うべきだ。
 兄に比べれば那岐の力など笑えるほど弱い。大人と子どもどころか、存在を隣に並べることすら馬鹿馬鹿しいくらいの差がある。けれど鬼に対抗は出来るのだ。
 一時だけでも鬼から皓弥を守るための道具、盾になれるのであれば。どうか使って欲しいと思った。
 自己満足から来ている思いだということは百も承知だ。けれど邪魔にはならないだろう。
 あの人のために動けるかも知れない。そのことに心を躍らせて一人暮らしをしているアパートに戻った。
 高校生の時の同級生が鬼になり、その鬼を殺すことになった後悔はまだ胸の中にあるはずなのに。皓弥に出会う事が出来たという事実が、その痛みを和らげてくれるようだった。蓮城にとって主というものは感情を左右する力を持つ存在なのだろう。
 血のせいだけには出来ないけれど、自分も蓮城の末端であり、刀なのだと実感出来る。
 己の出自などこれまで負担でしかなかったのに、少しは矜持に繋がるかも知れない。そんなことを思いながらドアの鍵を開けて内開きのそれを押した。
 キィと微かな音を立ててドアが開かれる。このアパートは年代が少し古く、所々軋むのだ。その分家賃は安いので文句は言っていられない。
 玄関を開いてすぐ、そこに何かがいると分かった。室内からひんやりとしたものが漂ってくる。背筋を凍らせるようなそれに戦慄が走る。恐怖と警戒心が同時に那岐を包んでは肩からかけていた鞄に手を突っ込んでいた。そこには伸縮式特殊警棒が入れられている。
 本来ならば小刀でも入れておきたいのだが、刃物は持っているだけで違法になってしまうご時世だ。まして小刀であれば相手の懐まで入らなければいけない。殺傷距離が近いので、それならばいっそ棒状のもので殴るほうがましだと判断した上での警棒だ。
 折りたたんだ状態では筆箱ほどの長さしかないけれど、伸ばせば倍以上の長さになる。鬼ならば触れるだけで食えるのだから、とにかく長さを重視した。
 冷気は明らかに人のものとは異なっており、最初鬼がそこにいるのかと思った。
 だが鬼よりずっと冷たく、そして那岐の視線の先にいたものは鬼などではなかった。真逆の生き物であり、鬼を喰らい殺す捕食者だ。
「兄貴……」
 那智がアパートの部屋の中、玄関に向かって立っていた。殺意によく似た、氷のような怒りを込めた眼差しで那岐を睨み付けている。
 兄が弟に向けて明らかな感情を向けてくるのはこれが初めてだった。祖父の家で会った時も、主と共に再会した時も、兄は那岐など見なかった。そこにいることに興味もないとばかりに、視線を向けたとしても那岐という人間をまともに認識などしてくれなかった。
 路傍の石にいちいち視線を止めて言葉をかけるなんて無駄なこと。そんな意識が兄からは伝わってきていた。
 だが今、兄は弟に対してはっきり苛立っている。
 身長や体格は同じくらいであるはずなのに、遙か高みから見下ろされては頭を抑え付けられているようだ。目を合わせているだけでも冷や汗が流れては呼吸が浅くなっていく。首を絞められているみたいだった。
 生き物としての格の違いのようなものが那岐を苛む。
「皓弥に接触しただろう」
 兄が口にしたのは主のことだった。やはり兄がこだわるのは主に対してだけであるらしい。
「した。大学の中を一人でうろうろしているのは、不用心だ」
 決して下心や妙な企みがあってのことではない。
 兄から主を取ろうなんて考えは一切ないのだ。それは皓弥に対しても説明したはずであり、蓮城の血が、そんなことは到底出来ないときちんと那岐に教えている。主に関して刀に勝てる部分など有るはずがないのだ。
 兄とて那岐が何か出来るとも思っていないはずだ。
 だが兄は眦を更に釣り上げた。
 その変化に足が震えそうになる。喉元に刀の切っ先を突き付けられたような恐怖が心臓に刺さる。
「余計なことをするな」
 警告に、那岐は頷きそうになった。身体は確かに首を縦に動かそうとしたのだ。
 だが皓弥が一人で歩いていた姿が頭に過ぎっては、なんとか息を吸い込む。
「でも、無防備過ぎる…!刀じゃなくても、助けはあったほうが!」
「刀でもないおまえが思い上がるな」
 兄は那岐に最後まで言葉を紡がせることはなかった。助けと言ったことが兄の癇に障ったのだろう。吐き捨てるような声が那岐を切り裂く。
 刀でもない者が主の側にいられるわけがない。関わってくるなど身の程を知れと言われたのだ。
 無力なくせに。
 それは刀である兄を持ち、比較され続けた弟にとっては毒のように身の内に回り続けた苛みだ。好きで蓮城に生まれたわけではない。力がないのは那岐の責任ではないのだ。体内に流れている血が刀の力を宿しているかどうかなど、本人の努力でどうにかなるものではない。
 だから那岐は自身に対して刀の力がないことを、仕方がないことだと諦めていた。むしろただの人間に近い方が、この世で生きていくには真っ当であるだろうとすら思っていた。力などいらないものだと自分に言い聞かせていた。
 なのにここに来て、主に出会って、力があることを誇りのように勘違いをしてしまった。力があるのだから、助力になるかも知れないと思ってしまった。それを、兄に見抜かれた。
「何も知らない、分からないやつが関わってくるな、目障りだ」
「でも!」
 那岐が思い上がっていることは事実だとしても、皓弥の周りに護衛が誰もいないことも事実だ。那岐が目障りなのは分かるが、皓弥のためを思えば目こぼしをするべきではないのか。
 けれど食らいつく那岐に、兄は舌打ちをした。
「おまえはあの人が幼児にでも見えるのか。戦えない、守られていることしか出来ないと?」
 その指摘に、二度目に会った時皓弥の手に兄である刀が握られていたのを思い出した。あれは兄が護身用として持たせているだけではなかったのだ。
(あれで、戦っていたのか)
 皓弥は主であるのに、自ら鬼と戦っていたのか。いくら兄がいるからといっても鬼に関わっても良いことなんてないのに。
(もしかして、この辺りで鬼を斬っている人は、あの主なのか)
 鬼を斬る仕事をしている者が近くにいるらしいとは母親から聞いていた。もしかしてそれは皓弥のことなのだろうか。兄ならばその仕事に就いていても当然であるが、贄の血を持ちながらあの人が鬼を斬っているとすればあまりにも無謀ではないか。
(どうして止めないんだ)
 兄は、主を大切に守り生きることを己の定めとしているはずの刀は、どうしてそれを止めさせないのだ。それどころか鬼を斬っていることを、認めているような節がある。
 唖然としていると、兄は那岐のそんな反応すらも不愉快そうに顔を顰めた。
「それは皓弥に対する屈辱だ」
 那岐を蔑むように吐いたこの言葉に、息が止まった。
 皓弥の気持ちを、自分は一欠片も考えていなかった。考えていたのは兄の思考や、自分の思いばかりだ。皓弥がそれをどう思うのかなんて最初から頭になかったのだ。
 真咲皓弥という主は人間の男であり、刀を握って戦っているその姿勢からして守られているばかりの立場を良いものとは思わないのだと。まして会ったばかりの那岐に命を預けるような真似はしてくれないらしい。
 蓮城なしで生きてきた主だ。警戒心は強く、人を信じ切れないのは無理もないことだ。それを自分が僅かでも力を持っているから頼れ、助けてやると言うのは。皓弥にとっては軽んじられた上に哀れみを投げられたと思えるものなのかも知れない。
 だからこそ兄は、これほどまでに怒りを見せているのだろう。
 那岐が答えを返せずにいると、兄は那岐を見限るように睥睨しては横を通り過ぎて玄関を出て行く。立ち去る靴音を聞きながら、那岐は唇を噛んだ。
 兄はきっと主の元に帰っていく。
 唯一の刀として、主の命を守り、主に付き従い、主のものでいられる。
 だが自分には何もない。刀でもない、力もさしてない。そしてまた真っ当な人間でもない。何もかも中途半端なだけだ。
(兄貴は、何も持とうとしなかった)
 那岐の知っている那智は、他人を見ず、何も欲しがらず、興味を示す対象はごく限られていた上に、それらにすら執着することはなかった。
 何も求めていない。この世の全てがくだらないものだと言いたげな目で生きていた。
 きっと主だけをひたすらに待っていたのだろう。
 その主を得た今、那智は全てに置いて満たされている。
 絶対的な、たった一つがある者は幸福だ。
 決して自分が歩むことは出来ない道を行く兄の背を、振り返って見ることは出来なかった。










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