六




 
 鬼の腕を切り落とした。肉を断つ感触が刀の柄を握っている掌から伝わってくるけれど、それは一瞬であり、断面はすぐに枯れていく。血飛沫は灰へと乾き、風も吹いていないというのに消えていった。
 生き物を斬り殺しているという感覚は淡い。触れた箇所から刀が喰らい尽くしていくからだろう。醜悪な部分を全て消し去ってしまおうとする、刀の矜持のようなものが窺える。
 見事なものだと何度見ても驚嘆したくなるのだが、生憎そんなよゆうはない。皓弥が睨み付けている先では、鬼が雄叫びを上げているのだ。女の姿をしているそれは、まだ人の形をおおむね保っている。黙って立っていれば多少表情の険しい女だという認識しかされないだろう。
 けれどその口から出ている咆哮は獣のものであり、皓弥を喰らおうとしているその気配は間違いなく化け物だった。見た目がどれほど人間であったとしても、鬼である気配は、その浅ましさは隠しようがない。
 仕事として受けた鬼殺しであるが、もし仕事ではなかったとして、この鬼は皓弥を見た途端にその牙を突き立てようとしてきたことだろう。それほどに理性を失っている。
 飛びかかってくる女を避けると、視界の端で何かが女のように襲撃して来ようとしているのが見えた。それは小動物のようだが、女の他にも鬼がいたのか。
(他には何もなかったはずだ!)
 まさかこの女が自分以外にも鬼を増やしたというのか。鬼の中には急激に自分の同類を増やすことが出来るタイプの者がいるらしいが、この女がそうなのかも知れない。
 一体何が動いているのかと思えば、それは先ほど自分が斬った腕だった。
 だがただの腕ではない。爪を長く伸ばした上に、掌がぱっくりと割れて口が出来ている。その上口の中には眼球が一つ植わっていた。真っ赤な瞳孔が皓弥を見詰めている。
(マジモンの化け物か!)
 鬼になるだけでなく、自分の身体の一部を一瞬で変革してしまうのか。この女は相当憎悪の強い、異形の鬼であったらしい。
 赤黒いそれは思ったよりも早く飛びかかってくる。大きな、口と言えば良いのか目と言えば良いのか、分からないそれが皓弥の首を狙っていた。
 まして同時に前方にいた女まで片方残った腕を伸ばして来るのだ。
 前方と後方。どちらも捕まれば首が折れるか食い千切られるか、死ぬことは間違いないのだろう。だが刀の間合いを考えれば二つ同時に落とすのは無理だ。片方を防げれば御の字だろう。
「皓弥!」
「いらん!」
 助けようとしてくれている那智の声や動きは感じていた。だがとっさの助けを退ける。
 那智に救いを求めれば助かるのだろう。安全に生きていける。だがそれでいいのか。
 いくら危うい状態とはいえ、襲いかかってくる敵は二つとも見えている。刀で斬ることだけが対処方法ではない。
(俺は、戦えるだろう!)
 守って貰うだけが能ではない。そう自分を叱責しては歯を食いしばった。
(斬れないからどうした!)
 背後から襲いかかってくる腕の方が、皓弥に辿り着く間が早い。そう判断すると、身を翻しては握っていた刀の柄でその腕を思い切り突き落とした。刀身で斬るのとは違い、肉を殴りつけている生々しい感触があるけれど、そんなものにこだわっている場合ではない。
 どうやら刀身だけでなく柄であっても殴打すれば鬼は喰われるようで、柄が触れた部分が大きくえぐれた。前方から襲撃してくる女には、鳩尾の辺りに蹴りを食い込ませるが、その首には那智の冷え冷えとした刀が突き刺さった。おそらく皓弥の蹴りが間に合わずにも女は那智に斬り殺されたのだろう。
 那智はいらんと言った台詞に納得はしなかったらしい。
 しかしもしここに那智がいなかったとしても、皓弥は鬼に喰い殺されることはなかったはずだ。鬼を背後に倒してから、斬りかかることが出来た。あの腕は掌から甲までがえぐれて地面に転がっている。うっすらと灰になっているので二度と動きはしないだろう。この鬼くらい一人でも十分に対処出来る。
(戦える)
 守られなくても生きていける。
 これまで、二十年間那智がいなくとも生き残れていた経験がちゃんと生きている。無駄ではなく、また失ってもいない。
 しかし手の中にある刀は那智自身とも言えるので、胸を張って一人でも大丈夫だというのは自惚れかも知れない。
(これが、那智以外の刀ならどうだっただろう)
 今は昇司の元にある、母親の形見の脇差しであったのならば、自分は今死んでいただろうか。
「いや、戦えている」
 はっきりと自分に答えていた。
 負けていない。
「うん。そうだね」
 独り言に那智は傍らまで来ては微笑みと共に肯定してくれた。満足そうなその表情は、どこか誇らしげにも見える。
 この男の主として、自分はきちんと立てているだろうか。情けないところばかり見せているけれど、その表情に恥じない人間として、歩いているだろうか。
「俺は守られているだけが能じゃないと思うんだ」
 灰になって消えていく鬼の残骸を見下ろして、自分に対して言い聞かせているのか那智に理解を求めているのかも分からず口にしていた。
「そんなの当たり前じゃないか。誰もそんなことは思っていないよ」
(……少なくとも、おまえはそうなんだろうな)
 皓弥が無力なだけの人間だと思っているのならば、外に出したりしていないのだろう。まして鬼を斬る仕事なんて許してしない。母親の敵を取りたいと言っても、自分が取ると言い張って譲らないことだろう。
 だが那智は皓弥に従ってくれる。
 主として尊重してくれているということもあるだろう。けれど一番はやはり、戦う意思を認めてくれているということではないだろうか。
 籠の中で飼われているだけでは、皓弥は本当の意味では生きていけない。
「ならもう少し過保護なのをどうにかして貰いたいんだがな」
「それとこれとは話が別だよ。俺の安心のためだ。これでも随分我慢しているのに」
「我慢してこれなら、自由にやったら俺はどうなっているのか。考えたくもないな」
 肩をすくめてそう言うと、那智が微かに笑っている気配がした。
 片手を振って、那智は自分の刀を身の内に納めた。熱せられて溶けた飴が形を崩すように、刀はぐにゃりと歪んでは霞のように消えてしまう。そして次に皓弥へと手を差し伸べた。
 その手を取ったところで那智は自身そのものである、皓弥に握られている刀を自分が持っていた時のようにあっさり納めることはない。
 今夜も当然のように皓弥に顔を寄せてくる。吐息がかかってきては、軽く身を引きそうになる。だがぐっと耐えて那智が顔を寄せてくるのを待った。
 待つだけのこの時間が何とも言えない気持ちになる。口づけを歓迎しているような態勢であることに、羞恥心が掻き立てられるのだ。
 したくないとは言わない。何度も何度も繰り返されていることである上に、刀を納めるためならば仕方がないとも思っている。
 けれど割り切るには、複雑な気持ちになるのだ。人目があるかも知れないところで口付けるのは露出狂じみていると思う。
 だが那智は嬉々として唇を重ねてくる。その柔らかさやあたたかさを、皓弥はよく知っている。ずっと嫌で逃げたかった行為だが今は口付けの感触に、無意識に目を閉じていた。
 口付けが離れてから、初めて自分が瞼を下ろしていたことに気が付いてつい苦笑してしまった。
 いつもは照れて目を逸らしたり、躊躇ったりしている皓弥が苦そうであっても笑ったことに、那智は目を丸くした。
「どうしたの?」
「いや、慣れたもんだと思って」
 那智の存在が日常に浸食し過ぎて、何かもかも馴染んでいるのだ。守られているだけは嫌だと言ったその直後なのに、那智がいない生き方がもう分からないと思うのだから、人間はいつも矛盾している。
「それだけ一緒にいて、キスして来たんだよ」
「刀をそれだけ出して戦ってきたってことだな」
 あの刀を納めるためには、まずは引き抜かなければいけない。そして引き抜いた時は、鬼を斬り殺す時だ。
 口付けた数だけ、鬼を斬って来た。
 そう思うと慣れてきたことも、ある種皓弥の誇りに繋がっているだろう。
「……キスするのって、刀を納める時だけじゃないと思うんだけど」
 その一言についこの前風呂場で良いようにされた記憶が蘇ってきては、那智の腹に肘鉄を入れた。
 自分なりに気合いを込めた一撃だったのだが、那智はくすぐったそうに笑った。









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