那岐の携帯番号は結局登録されることになった。皓弥だけではない。那智の携帯電話にも入力されており、その光景はなんとなく恐ろしさを漂わせていた。 那智がその番号に電話をすることはないと思いたい。 「何かあったら俺に言って」 那智は皓弥の顔を真っ直ぐ見てはそう願い出る。真剣な眼差しに呆れてしまうのだが、笑い飛ばすには重たい瞳だ。 「分かっている。そんなことは当たり前だろう」 言われるまでもないことだ。もし異変を感じ取ったのならばまず那智に相談する。それが皓弥がこれから先も安全に生きていくための最低限の決まりだ。 (大体、黙っていても口を割らせるって証明してみせたばっかりだろう) 皓弥が何か抱えていた場合、すぐさまそれを察知して胸の内を喋らせると実践したばかりではないか。隠し事が無駄だと痛感させておいて、白々しい台詞だ。 「じゃあ、一緒にお風呂入ろうか」 「は?」 晩ご飯も終わり、一息ついたところだった。風呂に入る時間だと言われても否定はしなかっただろう。いつもより早いが、まあ構わないという時刻である。 だが「一緒に」という部分に耳を疑った。 「たまにはいいだろ?」 「……遠慮する」 那智と共に風呂に入ったことがないかと訊かれると、過去に何度かあると答えるのだが。その全てが割とろくでもないことになっているので、歓迎出来る行動ではなかった。 「遠慮しないでよ。世話させて欲しい」 「いらん。一人で入れる。幼児じゃないんだ」 「だからだよ」 世話と言われて子どもかと思ったのだが、那智の意図としているところはその世話ではないようだ。 これまでの流れのように、やはり子どものようにただ洗われるだけの世話ではないらしい。 (……前にシたのは一週間前) 那智とは毎晩同じベッドで眠っているけれど、毎日セックスをしているわけではない。そんなことをすれば身体が持たない。 それは一定の間隔をあけて訪れるものであり、一週間くらい空けて欲しいと皓弥が希望した通りになっていた。那智としてはもう少し数を増やしたいそうなのだが、皓弥の身体に負担がかかるからと我慢しているらしい。 (タイミング的には合っている。だが、風呂場でヤるのか) ベッドの薄明かりの中で裸に剥かれるのも抵抗があるのに、蛍光灯の電気が全力でついている風呂場というのは、開けっぴろげではないだろうか。 羞恥心を掻き立てられる状況は皓弥にとってみれば苦手なものだが、那智は笑顔で目の前にいる。強引に連れ込まれそうな予感が濃厚だ。 (弟か) 皓弥を欲しがるのは、弟の存在が近付いてきたからではないか。独占欲を刺激されて、性欲にも繋がったのだろう。どうせ風呂場は嫌だと言っても、後からベッドに引きずり込まれるだけだ。その時焦らした分だけ、良くないことになるかも知れない。 「しかし風呂場……」 「嫌?」 「のぼせそうだな」 「そこまではしないよ。というかまだするとは言っていないんだけど」 「しないならいいぞ」 からかうような那智の声に、シないのならば今すぐにでもゆったり風呂に入る、と安心しそうになった。 性的なことが何もないのならば、躊躇う理由はなかった。 だが安心した皓弥に慌てたように那智が手を取って来た。 「するよ。さあ行こう」 断言した人は一刻も早くと言わんばかりに皓弥を風呂場に連行する。皓弥の気が変わって拒絶されない内に、とでも思ったのかも知れない。 那智に求められれば大抵受け入れて抱かれるのに、ということをこの男は意外にもまだ理解していないらしい。 同性なのだから裸になっても恥ずかしくない、という感覚は皓弥の中ではとうに捨てられたものだ。それは同居を始めたばかりで、那智が自分のことを主だと思っている、それだけだと勝手に予想していた頃までだろう。初めて身体を繋いでからは、互いの裸はすでに性欲を滲ませるものであり、目の当たりにすればどうしてもセックスが頭を過ぎるものになった。 おかげで脱衣所に連れて行かれても、速やかに服を脱ぐということが難しい。無駄な躊躇だと分かりながらも手が止まる皓弥を尻目に、那智はさっさと全裸になっては浴室に入っていく。皓弥は那智がいなくなってようやく服の釦を外した。 (別に恥ずかしがることはないし、そっちに行ったらどうせ全裸も見られるんだがな) なんとなく服を脱ぐという行為には抗いが付きまとう。ベッドの中ではいつも那智に脱がされているからだろうか。 一糸纏わぬ姿で浴室に入るとすでに那智が髪を洗っていた。入り口に背を向けている人の後ろ姿の美しさについ見入る。服を着ていると分かりづらいのだが、那智の身体にはがっしりとした筋肉が綺麗についている。均整の取れたそれは刀を振るう際に驚異的な力になることは知っているのだが。強さがある上に造形美も宿しているというのは、何とも卑怯な生き物だ。 (特別トレーニングをしているところを見ているわけじゃないのに。なんでこんな筋肉がついてんだ) そういう遺伝子であり、生き物なのか。 疑問に思っていると髪の毛を洗い終わり、シャワーで泡を流した人が振り返る。 「先に髪を洗おうか」 「一人で出来る」 シャワーのお湯を肩からかけてくれる人に固辞した。「そう?」と少し残念そうな声で言われたのだが、それこそ本当に幼児ではないと言いたい。 洗い場は男が二人いるとさすがに少し窮屈だ。だが以前住んでいた家に比べると遙かに動きやすい。元から風呂場は広めにとってある部屋だったのだ。 まさか二人で風呂に入ることを前提に、この物件を選んだわけではないと思いたい。 風呂場の小さな椅子を皓弥に勧め、那智は立ったまま身体を洗い始めた。那智が選んだお高いシャンプーを引き寄せてはボトルの頭を二、三度押した。 皓弥の髪は肩より長いので那智より時間も手間もかかる。乾かすのが面倒なので切りたいと思ったことは数知れないが、鏡に映った自分に母親の面影を見ては切れずにいる。 「代わるよ」 髪を泡立てて頭皮を洗っていると、那智がそう声をかけてくる。自分のやるべきことは終わったらしいのだが、何故自分の髪の毛を洗う作業を他人に委託せねばならぬのか。 「何故代わる」 「そうしたいからだよ」 上機嫌でそう言っては那智に後ろから髪の毛に触れられた。優しい手つきで頭皮をマッサージされると心地が良く、いらないと言う返事が喉元で引き返していった。 「綺麗な髪だ」 男の髪にそんな表現をするのはどうかと思うのだが、皓弥も否定はしない。元から髪の毛はまとまりの良い質だったのだが、那智と暮らしてから食生活だのシャンプーやトリートメントが良いものになったせいか、益々扱いやすいものになっていた。 「適当にしているだけなのにな」 「健気な髪だと思うよ」 髪の毛に健気という表現は腑に落ちないのだが、雑に扱っても耐えてくれるという意味かも知れない。 トリートメントまで終えると、那智はボディソープのボトルを手に取った。 「自分で出来る」 さすがに身体を人に洗わせるのは後ろめたさと共に危ういという気持ちが沸いてくる。しかし那智は皓弥の視界からボディソープを奪って行く。 「たまには背中を流したいんだよ」 「おまえ、背中だけだろうな」 親しい間柄で風呂に入ると、背中を洗うだけならば許容範囲だろう。そこで終われば、だが。 那智は小さく笑ってはそっと皓弥の背中に触れてくる。その温度と感触に思わず「うわ」と声を上げてしまった。 「なんで手なんだよ」 「人間の皮膚は繊細で、本来なら手で洗うほうがいいらしいよ」 「俺は普段メッシュタオルで洗ってる!」 「ならたまにはいたわってあげないと」 ぬるぬるとした人の手が背中を優しく撫で上がり、肩から腕へと伸びていった。軽くマッサージもしてくれているのだろう。指先まで辿ってくれる那智の手つきには卑猥なものはなく、身体を弛緩させようとしているようだった。 右腕の次は左腕、揉み込む手つきに思わず深く息を吐いた。 (マッサージも出来るなんて、こいつ何者なんだろうな) 人を甘やかして癒す全てに長けすぎている。 首もとから胸へと撫でる手には、さすがにベッドの中のことを思い出しては身体が強張った。まして腹まで手が滑っていくと、その更に下にあるものに触れるのだろうかと唇を噛む。抗えば良いのだろうが、その手が気持ち悦いことをよく知っている。まして風呂に入ることを了承した時点で、欲情させられることは覚悟の上だ。 しかし腹をくくった皓弥を嘲るように、那智の手は肝心な部分には触れなかった。太股を撫でては、今度は足先へと伸びていく。さすがに背後から足先までは指が届かず、那智は前に回ってきた。 真面目な顔つきで皓弥を洗う人に、いやらしい気持ちは一切ないのかも知れない。 (俺の早とちりか?) しかしヤると断言してなかっただろうか。ベッドに移動してからなのか。 とろ火にかけられては煽られ、焦らされているような気持ちになる。 那智は足の指の間まで綺麗に洗い終わると一端シャワーで手の泡を流した。その上でまた新しいボディソープを足していく。次はどこなのかと思っていると、また背後に回っては抱き締めるようにして手を胸に回してきた。 「細いね。ちゃんと食べて貰っているのに」 「体質だ」 「心配になるよ」 肋骨を辿るように掌で脇腹を包んでは体格を確かめているらしい。自分が細身であることは自覚しているが、那智の身体と比べると貧相であると溜息が出てくる。 「俺は……そんなに弱そうか?どんな時も目を離していられないと思うくらい、貧弱か?」 那岐は皓弥を見て守らなければいけないと、とっさに思ったのだろう。それは蓮城の血なのだろうが、もし自分が筋骨隆々でボディビルダーのような男だったとしても同じことを言っただろうか。 もしくは那智のように全身から他者に対する威嚇、風格の違いが滲み出ていたら、那岐は安心していただろうか。 (俺は見ていて危ないと思うくらい、弱々しいのか?) 母親を亡くして少しの間は一人でいたはずなのだが、その間の自分がどうだったのかはもう思い出せない。 「まさか。皓弥は強いよ。正直鬼に対する力は俺とは比べものにならないくらい脆い。それは事実だ。蓮城の血に勝てる者なんていない。まして贄の血は皓弥にとっては負担だろうね。だから皓弥は俺にずっと四六時中守られているという選択肢もある」 むしろ那智は皓弥に出会った当初はそうして欲しいと思っていたのではないだろうか。今だって独占欲の辿り着く先はそこではないかと思っている。 「蓮城家に囲われていれば安全は保証される。その分自由は少し削られるかも知れないけど、それだって蓮城は譲歩するよ。皓弥が望むのなら明日からだって、蓮城家に移動して完璧な保護体勢で皓弥を守る。でもそれは望まないだろう?」 「望まない。俺は、戦えるから」 戦う術を知らない無力なだけの子どもならば、守られていることを受け入れられるだけの脆さがあれば、蓮城家に行ったかも知れない。命が惜しいので守って下さいと頭を下げたのかも知れない。 だが皓弥はそんな生き方は願わない。刀を持つことを知っている、鬼と戦う術も意思も持っている。何より、母親を殺してその顔を奪った鬼を放置などしていられない。 復讐に捕らわれた心で突き進むと決めたのだ。 たとえこの力が弱々しく守られているような有様でも、自分を見限りたくない。 「そう。皓弥は自分で戦おうとする。守られているだけの自分に甘んじない。それは本来ならとても辛いことだよ。怖いはずだ。自分を喰い殺そうとしてくる鬼と、自分から立ち向かうんだから」 那智が背後からそっと抱き締めてくれる。慰めなのか哀れみなのか。他人に与えられるには屈辱が先に立って苛立つはずのそれは、那智から貰っているのだと思えば素直に聞くことが出来る。 「鬼から切り離された空間で安穏と生きることが出来るのに、そうはしない。自分の手で仇を取るために戦う決意は、強さだよ」 「ただの復讐だ」 綺麗な言葉で飾ってはいけない。皓弥がやろうとしていることは私怨と憎悪にまみれた復讐でしかないのだ。母親を奪われた怨みを、対象を殺すという方法でなんとか晴らそうとしている。殺したところで母親は帰ってこない、決して怨みが消えることはないと知りながらも殺さずにいられない愚かさだ。 「その復讐に命をかけられる者がどれだけいるんだろうね。毎日恐怖に晒されながらも、それに打ち勝ち、成長していく。それは強さ以外の何物でもないよ。俺にとっては怖いくらい、皓弥は強い」 怖いと言う囁きが皓弥の耳朶を打つ。 こんな時ばかり、この男は酷く心細そうにするのだ。 「怖いか」 「すごく怖いよ。本当ならどこにも出したくない。俺の腕の中で抱え込んで守り、俺だけに戦わせて欲しい。仕事をしている時もずっと冷や汗を掻いているし、心臓が止まりそうだ」 「悪い……」 那智からしてみれば皓弥があまりにも拙く、危うい戦い方をしていることは分かっている。生まれながらに狩る生き物である那智がいるなら、頼り切ってしまえば良いことも分かっている。それでも刀を握るのは、きっと皓弥の我が儘なのだ。 「悪くない。弱さも強さも持ち合わせている皓弥が主であることが俺は誇らしい。眩しいほど、懸命に生きているその姿が愛おしいよ」 左肩に口付けてくれた人の声音は、言葉の通り甘やかに溶けていた。 懸命に自分は生きているだろうか。 その自信はない。けれどこの男の主でいられるように、この男の価値を下げることがないように、虚勢であっても胸を張りたいと思った。 次 |