自室の椅子に腰をかけ、那岐から貰った紙を開く。案の定そこには十三桁の番号とメールアドレスが記載されてあった。 (有り難いことなんだろうな) 鬼を喰らう力を持っている蓮城の者が、自分を守りたいと言ってくれている。大学という限られた者しか入らない空間の中に、万が一にでも鬼がいれば大変な事になる。刀である那智がいない場所を埋めようとしてくれている。 しかし掌にある紙について思うのは感謝よりも、もっと別の感情だった。 (あれが三度目。言葉を交わすのは二度目だ) 前回喋った時も那智が側にいて、ろくな会話もしていない。ただ顔を見ただけという有様だっただろう。そんな相手だというのに、貴方を守りますというのだ。 (さすがは連城というべきなのか?) そういう血なのだと割り切るべきところなのだろうか。だが皓弥は主従関係を叩き込まれて育っていない。この身体に流れている血は異常なものだが、生活していく感覚としては一般家庭のものと大差ないと思っている。そんな人間に対して、親しくもないどころか相手の性格など一切分からない状態で保護を約束されても正直困る。 「入れてもいいと言えばいいんだろう」 那智の弟であり、鬼を喰えることは目で見ている。那岐の言う通り、大学の内部に強い鬼がいた場合、皓弥一人で勝てないと思った時に助力を求める相手としては問題ないだろう。皓弥がどんな体質かも分かっているはずなので、戦う際にも配慮が少なくて済むはずだ。 何より純粋に那智の弟ならば、もし那智に何かあった時に連絡が取れるのは良いことではないだろうか。春奈の携帯番号や昇司の家の番号も分かっているけれど、もしも二人とも連絡がつかなった場合。那岐に知らせるという手段が一つ増える。 那智と那岐はほぼ関わりがないようだが、那岐と春奈や昇司、蓮城の人たちとは繋がりがあるらしい。ならばそこから情報も流れていくだろう。 (無駄にはならないはずだ) それでも紙に書かれている番号を携帯電話に入力していない理由は一つであり、それが最も注意の要ることだった。 (那智がどう思うか、だな) 那岐から電話番号を渡され、それを保存している。何かあれば頼るかも知れない。 そのことに那智はどう感じるだろうか。 (浮気とかそういうことじゃないんだが) 主と刀という関係だけでなく、那智とは恋情も込められた肉体関係を結んでいる。主従関係と共に恋人関係と言っても過言ではないのだ。 そんな現状において、弟と言っても男から電話番号を貰って頼って欲しいと言われたことは。果たしてどう判断されるのだろう。 (俺はそういうつもりはなく、また今後そうなる可能性は欠片もない。ってことくらいは分かると思うんだが) 皓弥が他人に興味を持たない。まして男など恋愛対象ではない、ということを那智は冷静に認識しているだろうか。 独占欲が強く盲目的なところがある人は、たまにおかしな暴走をするので気が抜けないのだ。 結局那智が大学の帰りに食料を買い込んで帰宅しても悩んでも答えは出ず、迷いながら玄関まで出迎える。 那智は両手一杯にスーパーの袋をぶら下げている。買い溜めする癖にある人ではあるのだが、男二人暮らしで一体どれだけ食い物を保存するつもりなのかと思うほどの量だ。スーパーの袋から薄力粉だけでなく強力粉という文字まで見えている。粉の種類が違うということは出来る料理も違うのだが、その違いも皓弥には分からない。 それくらい食事も何も那智に丸投げしていた。 「ただいま」 「おかえり。すごい量の買い物だな」 「つい買いすぎてしまった。皓弥は何かあった?」 那智はキッチンの冷蔵庫に荷物を運びながら、何でもないような声音で尋ねてくる。 まだ何も言っていない。スーパーの袋に面食らっていただけなのに、どうして皓弥が何か抱えていると思ったのか。 ぽかんとしていると那智が苦笑した。 「なんか俺の顔見て気まずそうにしたから」 (エスパーだ) 自分の顔がどんな表情を浮かべたのかは分からないけれど、明らかに気まずいという表情を出したとは思えない。表情はそんなに豊かな人間ではないからだ。 ほんの微かな変化を読み取ったのだろうが。そんなことが出来るともはや読心術を持っているのだと言われているようなものだ。 (隠し事が許されないってことか?) 那智に対して特に隠したいことを持っているわけではない。嘘をついているわけでもないので、現状がまずいというわけではないのだが。これほど心を見透かされていると何とも言えない心境になる。 那智の前では常に自分は丸裸にされているということになるのか。 (いや、待て。そこまでじゃないのかも知れない) もしかすると那智の顔を見て弟が脳裏に過ぎったのかも知れない。顔の造形だけならばよく似ているものだと思ったのだ。 「黙ったということは、何か隠しているわけだ」 那智は食料を冷蔵庫に詰めながら、暢気な口調でそう喋っている。隠し事をされていると分かりながらも、怒りも焦りもしない。 大したことではないと踏んでいるらしい。 「ああ……なんだおまえは」 まだ何も言っていないのに全貌が大まかに掴めているかのようではないか。 察知能力の良さに天井を仰いだ。 「言いたくない?」 大根片手に那智が皓弥を見ている。そこには少しだけ鋭くなった視線があった。 「隠して置いてもいいけどね。後で困ったことにならなければ」 黙っている権利はあるらしい。だが後々何か問題が起こった場合は、それなりの覚悟をして貰うということだろう。実際にどうなるのかは考えたくない。 困ったことにはならない、むしろ有益になるのではないだろうかという事柄だ。けれど那智の反応がやや怖い。 首を傾げて少しばかり躊躇した。だが勘付かれている以上、ひた隠しにするのは賢いやり方ではないだろう。 「俺としては特に問題になるとは思わないんだが。おまえが、どう感じるかは分からない」 「なら話してみて、答えを聞けばいい」 「そう来るか」 事前に複雑な心境になるだろうという前振りをすると、那智は大根を野菜室に入れては腕を組んだ。 さあ聞こうじゃないかという態度に、腹をくくる。 「おまえの弟が、って時点でおまえ嫌そうな顔をするなよ」 盛大に顔を顰めた那智に、そういう反応をするだろうなとは思ったのだ。 「あれがどうしたの。皓弥に接触しようとして来る?迷惑をかけた?」 「迷惑なんてかけられていない。今日初めて、たまたま、本当にたまたま図書館で会ったんだ」 「待ち伏せではなく?」 「そんなこと出来ないだろ。大学にどれだけの人間がいると思ってるんだ」 正確な数は把握していないが万近い人間が通っているだろう場所にいる、たった一人、しかも学部も何も知らずに待ち伏せなど出来るわけがない。時間がいくらあっても足りないはずだ。けれど本人も講義を受けなければいけない、そんなことばかりもしていられないだろう。 「向こうも驚いていたみたいだから、偶然だ」 「そうであれば良いと思うけど。それで、あれは何て?」 弟をあれ呼ばわりだ。もっとも那智は弟の名前を忘れていたくらいなので、その冷たさも自然なのかも知れない。 「大学にいる間は、もし何かあったら頼って欲しいと言われた」 「へえ……身の程ってものが分からないらしい」 那智は剣呑に目を細めてはそう呟いた。明らかな苛立ちが滲んでおり、近くで来ているだけで内臓が冷やされるような威圧感があった。自分に向けられているわけでもないのに恐れが迫ってくる。 「身の程って」 「蓮城の血を継いでいても刀でもなければ、刀を生み出すことも出来ないただの人間に近いような者が、主である皓弥に対して頼って来いだなんて。随分な言い方じゃないか」 分際と言う那智の声は氷のように冷えていた。どうやら皓弥に対して助けたいという気持ちを告げるのは、那智にとっては不愉快極まりないことであるらしい。本来ならばそれは那智のみに許されることなのかも知れない。 (独占欲がここでも出てきたのか。蓮城家では主を守るのは刀だけって限定されているのか) 皓弥にはどちらが那智の怒りの元なのかは分からない。 「俺が頼りなく見えたせいじゃないか?」 「あれの勘違いだよ。自分も蓮城の端くれだから、皓弥を守らなければいけないという思い上がりだ」 「でも、春奈さんもそう言ってくれるんだが」 那智は弟が目障りなのだろうか。母親である春奈も、皓弥に対しては保護欲を見せてくる。祖父である昇司もそうだ。そして那智は自分が不在の間は彼らの元に皓弥を守ってくれと預けていく。弟と彼らにはそんなに大きな違いがあるのだろうか。 「あの人は刀が濃いよ。あれよりずっと刀としての才がある」 「そんなに違うのか?」 「全然違う。春奈さんは刀に近い、だがあれはほぼ人間だ。力なんてあって無いようなもの。皓弥に対してよくそんな口がきけるものだ」 母親である春奈と、弟である那岐にどれほど刀としての才能の差があるのか。皓弥にはさっぱり感じ取れないのだが、那智にとっては明確な差が見えるのだろう。なのに皓弥を守ると言ったのは、どうやら逆鱗に触れてしまったらしい。目つきがだんだん尖っていく。 「大学の中では那智がいないから。俺一人だと危ないって思ったらしい。気遣ったんだろう」 「それが一番たちが悪いんだ。俺がいない間だけでもなんて、考えが浅ましい」 吐き捨てるような人に、そうなのだろうかと疑問を覚える。手が届かないところにある分を補おうとしているのは浅ましいことなのだろうか。 (那智には那智の感性があるんだろう) 許容範囲と感性の違いだろう、きっとそう思いたい。 「それで、携帯番号でも渡されてどうしようか迷っていたのか」 「……何故そこまで分かる」 携帯番号のことなどまだ一言も口にしていない。出会って頼ってきて欲しいと言われたという段階で会話は止めていたはずだ。 「言われただけならそこまで悩まないはずだよ。まして頼って欲しいなんてあれが言ったなら、連絡手段を渡してきたはずだ」 そこまできっちり読むのか。皓弥などそれだけを聞いていても携帯番号を貰っただろう、なんて結論まで達しない。 「しかし大学の中に捨て駒がいるということは、悪いことじゃない」 那智は苛立ちを多少薄めてはそう考えを切り替えたようだった。肩をすくめては眼差しを和らげてくれる。 しかし言っていることはもっと冷徹なものになったような気がした。 「捨て駒って」 「ただし日常の中で連絡を取ると更に思い上がって近寄って来ようとするだろうね。絶対に止めた方がいい」 皓弥のためにならないというよりも、那智がそれを認めないのだろう。弟という存在がちらついているのが忌々しいと言わんばかりに、明後日の方向を睨み付けては背後に怒気を滲ませる。 (怒りは収まったんじゃないのか) やはり那岐に時間があるかと聞かれた時、断っておいて良かった。接触時間を増やせば那智の怒りが深まっていくだけだろう。 (携帯の番号は入れておいてもいい。だが最終手段にしろってことだろうな) 大学の中で危険に巻き込まれた時は連絡を取って使えば良い。けれどそれ以外の用事で連絡を取ることは控えるべきだと、那智は判断したらしい。 「あれは使えそうに見えた?」 頑なに弟のことをあれ呼ばわりしているが、もしかしてこの人はまた弟の名前を忘れているのではないだろうか。ふと不安になるけれど怖くて確認したくない。 「それは分からない。戦っているところは知らないからな。だがぱっと見たところはおまえに似ている気がしたけど、性格は違う気がする」 「そう」 顔や声は似ていても、雰囲気や皓弥に対する姿勢は当然異なっている。皓弥に興味はあるようだが、遠慮と緊張と、何より自身に対する多少の引け目のようなものがあるような気がした。皓弥の奥に兄が見えているのだろうか。 那智は誰かに対して遠慮もしなけれは、皓弥以外の他人を意識することもない。まして自身を卑下することもないだろう。だが那岐はどことなく、自虐的なものを感じる瞬間があった。 しかしこんな兄を持っていれば誰だってそうなってしまうだろう。 「普通の、人みたいだった」 それが皓弥の素直な感想だ。春奈も昇司も、那智に似ている上にどこか浮世離れして居る独特の空気を纏っていた。だが那岐はそれが薄い。人々の中に紛れていてもきっと皓弥は那岐を見付けることが出来ない。 群衆に馴染むことが出来る人なのだ。 那智では到底そんなことは出来ない。誰といても、どこにいても。那智は間違いなく皓弥の目を惹くだろう。 「そう。あれは人間だからね」 だからにきっと、那智の目には入らないのだ。 次 |