壱




 
 目覚めてからずっと那智の存在を感じている。
 那智の腕の中で目覚めて、同じ部屋で生活を共にして、そしてこの部屋に帰ってきては那智が作った御飯を食べて、ベッドに潜れば再び那智の腕に囲われる。
 休日ならばまして、外出時でも那智は傍らにいる場合が多い。どこにいても何があっても対処出来るようにと那智は皓弥の隣にいる。
 四六時中誰かが側にいるなんて、那智に出会うまでは息が詰まって仕方がない、一日だって保たないと思っていたのだが、不思議と那智は皓弥に馴染んだ。
 那智が馴染むように努力したという理由もあるのだろうが。真咲の中にある血がそうさせているのかも知れない。でなければ警戒心の塊であり、他人を避ける性格の自分がここまで自分の暮らしを浸食されても落ち着いていられるのはおかしい。
 まして那智は皓弥の世話を焼きたがる。食事は全て管理をし、家事の一切を取り扱っている。皓弥の着る服すらも口出しをしようかという姿勢なので、小学生を持つ母親のごとき世話焼きだ。
 よくもまあそこまで出来るものだと思うのだが、那智は皓弥の世話が楽しいと言って憚らない。皓弥にとっては全く理解出来ない神経なのだが、今日も今日とて那智が作った弁当を持って大学に通学だ。
 同居人の男が作った弁当を持って大学に来ているという事実に当初は複雑なものがあったのだが、すでに慣れた。
 食堂で那智の作った弁当の、安心安定の美味しさに納得してから図書館へと足を運んだ。レポートを作るための資料が必要になったのだ。
 市立図書館などとは比べものにならないほどの蔵書量であり、専門書の豊かさは棚の隙間を歩いているだけでその時代を感じさせるほどだ。近代文学の棚など、教科書でお目にかかった発行当時の表紙を持った本たちがずらりと並んでいる。貴重な文献も当たり前の顔をしてそこに収められており、初めて大学の図書館に来た時には面食らった。
 マニアックな本の背表紙を眺めながら歩いていると、部屋の端にある自習スペースから誰かが真っ直ぐこちらに向かってくるのが見えた。  同じ学部の人間かと思ったのだか、今朝見た顔がそこにあり思わず目を見開いてしまう。
(那智……違う、弟だ)
 以前鬼に斬る仕事中にたまたま出会った那智の弟だ。いくら那智でも皓弥に何の連絡もせず無断で大学に来ることはない。
 ましてそんな風に冷静さを失った、どこか浮き足だったような態度でやってくるなんて妙だ。
(俺に何か用なんだろうか)
 意気込んでいるような人に身構える。那智と弟は決して友好的な関係というわけではないようだった。だからといって皓弥に対して敵愾心も見せていないので、衆目がある中攻撃などはしてこないだろう。
「こんにちは」
 那智の弟はやや強張った声でそう言う。会釈をしてきた人が、当たり障りのない挨拶をしてきたことにびっくりしてしまった。
 大学生、しかも那智の弟が、同じ大学生である皓弥に対する第一声が「こんにちは」という実に無難なものであったことが意外だったのだ。もっとぶっきらぼうに、いっそおまえが真咲か、くらいのことは言うかと思っていた。
「どうも……」
 拍子抜けして曖昧な返事をすると、それだけで那智の弟は表情を緩めた。そうすると那智よりずっと幼く見える。
(……那岐、だ。確かそんな名前だった)
「文学部ですか?」
 皓弥が持っていた本に目が止まったらしい。そういえば那岐は同じ大学であることは知っていたが学部までは知らない。ここに那智の弟がいるとしても、自分にはあまり関係のないことだと思っていた。
「はい。一応」
 答えながら、あの鬼のことを尋ねたほうがいいだろうかと思った。那智が母親である春奈に確認を取ったところ、那岐は鬼を斬る仕事はしていないらしい。
 プライベートの問題で鬼を斬ることになった、ということは聞いたのだが。それがどういう理由なのかは分かっていない。この先も仕事中に那岐と出会うことはないだろうとは言われたのだが、本人の気持ち次第だろう。
 込み入った事情があるのならばこんなところで尋ねるのも失礼に当たるかも知れない。
(そもそも、気にはなるが知ったところでどうしようもない)
「これからお時間はありますか?」
 会話の流れに迷っていると、那岐からそう提案された。どこかに移動して腰を据えて話をしようと思ったのかも知れない。そうすればあの鬼のことも尋ねられるだろう。
 けれど皓弥の脳裏には那智が過ぎる。
 あまり弟と関わるのは良い顔をしていなかった。
「いえ、ちょっと」
 次の講義までは時間がある。二時間近く空いているので那岐とじっくり話も出来るだろうが、那智がどう思うのかと考えた時に止めた方が安全だと判断した。
 那岐と会ったことも黙っていれば良いだけのことなのだが、那智は勘が鋭いのだ。那岐と親しくしたと言って機嫌を損ねるのも面倒だが、黙っていれば「教えてくれれば良かったのに」と微笑みながら皓弥に重圧を与えてくることだろう。
 どちらも回避したいのではあれば、那岐にはあまり近付かないのが賢明だ。
「そうですか……」
 那岐は残念そうに肩を落としている。表情が豊かで、出会ったばかりの頃の那智を思い出した。あの頃は犬のように皓弥に懐いては尻尾を振っているような態度だった。
 今では犬というより親鳥のようだ。自分の羽の下で庇護しては柔らかな羽毛に包んで外敵からは一切見えなくしようとしている。
(あいつは度か過ぎる)
 皓弥を大切に思ってくれるのは有り難いけれど、やり過ぎて過保護なのだ。
「兄はこの大学にはいないはずですが、お一人ですか?」
「はい」
 那智がここにいないことは知っているらしい。那智は弟には興味がないようだが、弟は那智を意識しているのだろう。鬼を斬った後、兄弟の体面を見たけれど那岐はずっと那智の表情を気にしていた。
「護衛は?」
「いませんが」
 いきなり妙なことを言うものだ。皓弥に護衛が必要だと言うのか。
(俺は国の重要人物か何かか)
 SPを引き連れていなければいけない、そんな重大なものは抱えていない上にそんな立場でもない。
 皓弥からしてみれば妙な質問だったのだが、那岐にしてみればその返事のほうが妙であったらしい。
 顔を顰められる。
「真咲が一人でいるのですか?」
 贄の血を持っている者が、一人でふらふらしているのか。
 そう責められているような気がした。
 力も持たない、那智に守られてい者が何を言っているのかと囁かれたような錯覚すらあり、ついカチンときてしまった。
「これまでそうして暮らしていました。貴方のお兄さんにお会いしたのは数年のことであり、生まれてからこれまで蓮城家のお世話になることもなく、俺は自力で生き延びてきました」
 蓮城家が真咲を守りたがっていることは知っている。そういう本能を持っていることも身をもって体感しているけれど、皓弥はこれまで母親と二人きりで生きてきた。
 死にそうな目に遭ったことも、危険に晒されたことも数知れない。けれど蓮城がいなければ何も出来ない無力な人間ではない。
「ですが危険なはずです」
「貴方のお兄さんがいるだけで随分安全になりました」
「でもこの大学にいる間は、兄も手が届きません」
「それはそうですが」
 遠回しに那智と同じ大学に入れなかった自分の学力のなさを嘆けということだろうか。しかし出会った時にはすでにこの大学に入学していたのだ。那智の存在だって知らなかった。
 今更そんなことを言われてもどうしようもない。
 それに大学にいる間くらい那智から離れていなければ、那智に頼りきりであまりにも情けないだろう。
 一人で立つ時間は必要だ。しっかりと自我を持ち、那智に依存し過ぎて駄目な人間にならない自尊心を持つためにも。この時間は無くせない。
「俺は兄ほどの力はありませんが、鬼を喰うことは出来ます。どうか、もし大学で何かあった時は俺を頼って下さい」
 少しばかり距離を縮め、那岐は小声でそう告げた。声量は落ちたのに、その言葉には熱意が込められているようで呆気にとられる。真剣に見詰めて来る双眸は決して嘘も、ましてからかいもないだろう。
(守るって……)
 思わず「どうした!?」と叫びたくなる。何故突然そんなことを言い出すのだ。兄の代わりのつもりなのだろうか。
 刀である兄を意識するあまり、主に対する保護も考えてしまうようになったのか。だとすればかなり無茶な思考回路だ。
 それとも蓮城は真咲に会うと保護をしなければいけないという刷り込みでもあるのか。
「あの、携帯番号教えます」
 唖然としている皓弥を尻目に、那岐は肩からかけていた黒い鞄の中から手帳を取り出しては何かを書き始めた。きっと本人が言っていた通り携帯の番号なのだろう。ここで携帯電話を出して直接アドレスをこちらに送信する、という強引さはないらしい。
(控えめなのか?でも俺を守るって一方的に言っているところは、なんか強引だろう)
 そして皓弥はまだ返事を一つもしていない。
「いつでも呼び出して下さい」
 手帳を一ページ破っては、皓弥に差し出す。二つ折りにされたその紙の内側には那岐の個人情報が記されているのだろう。
「あの……でも」
「この大学の近くに鬼がうろついていたこともあります。鬼だけじゃなく、不審者や、困ったことがあればいつでも何でも言って下さい」
(君は警察か、そして俺は女子高生か)
 でなければおかしいだろうと思うような会話ではないか。
 普通の男子大学生同士の会話で、果たしてこんな内容になることはあるだろうか。那岐の目から見た皓弥はどれほどか弱く保護欲を掻きたてる者なのだ。
「蓮城は、貴方を守ります」
 そう言って動けずにいた皓弥の手を取って、紙を掌に載せる。自分よりやや大きいだろうその掌に那智を思い出した。
 いらないと突っ返そうと思えば出来た。けれど那智によく似た顔が目の前で、切実そうな視線をひたむきに見せ付けてくるのだ。
 しかも蓮城の名前を出してくる。背後に春奈や昇司までちらついては何とも拒絶がしづらい。
「…………ですが」
「お願いします」
 やんわりと、困るということを伝えたかったのだが、那岐は頭を下げてはきびすを返した。否定を聞くつもりはないという様子に皓弥は「いや……だから」ともごもごと口の中で言い訳をするしかなかった。










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