皓弥。 名前を呼びながら、その手は差し出された。 節の目立たない、細くしなやかな指。桜色の爪。 その掌が頭を撫でると呼吸はいつも穏やかになった。心が落ち着いた。 皓弥。 声は高く、唇は少しばかり薄かった。 生まれた時からずっと眺めてきたその顔は、微笑んでいる。 目元をほころばせて、優しい表情で。 包み込んでくれるその存在を求めて手を伸ばすと。 どろりと長い髪が泥のように溶けた。 そして目はくぼみ、眼球が迫り上がる。 頬の肉は腐敗したように色を変え、垂れ下がり落ちていく。 白い頭蓋骨が現れ始め、歯がむき出しになる。 皓弥。 声だけはあたたかなままだ。 安心出来る響きのままだ。 そしてそのまま。 ごとりと頭部が落下した。 「………ああ」 目覚めるとカーテン越しに随分と強い光を感じた。 時計は午前十一時前を指している。 睡眠時間は四時間。頭はぼんやりとしている。 怠さに押し潰されそうだ。 寝返りをうつと喉元まで迫り上がってくる不快感に、息が止まりそうだった。 夢が見たくないから寝ない。そんな子どもみたいなことをしている自分に笑いたくなった。 目を閉じたくもないのだ。 本当は。 「……寝ないで生きていけたらな」 楽なのに、と思ったがそれはすぐに否定される。 きっと寝るという行為を失えば今より精神は追い詰められるだろう。 強制的に休ませてくれる時間が必要なのだ。 「ガイダンス……」 九月も終わりという日付になり、ようやく大学が始まるのだ。 今より少しは規則正しい生活に戻ることを喜ぶべきか。 「めんどくさ」 口からは素直な感想が出てきた。 怠さを背負ったまま、洗面所で顔を洗う。 ふと視線を上げると夢に出てきた人と酷似した容貌が映っていた。 水に濡れ、目を据わらせ、こちらを睨んでいる。 とろりと口から血を溢れさせたあの人を思いだし、ばん、と鏡を叩いた。 気持ちが悪い。 身体中が締め付けられるようだった。 「……くそが」 この顔など見たくない。 自分の顔など見たくない。 だが死ぬその瞬間までこれと離れることはないのだ。 「吐き気がする」 呻くように呟くと、突然軽い機械音が始まった。 インターホンの呼び出しだ。 「……あー」 面倒だ、と思いつつ洗面所から出て受話器を持ち上げる。 勧誘、押し売りだったら罵倒するつもりで不機嫌を隠しもせずに「もしもし?」と言った後に聞こえてきたのは。 『こんにちは、皓弥〜』 のんきな男の声。しかも知っている。 一気に力が抜けていった。 「那智……」 『この近くまで来たからついでに寄って行こうと思って。今いい?』 携帯番号とアドレスを教えると、何度か住所を聞かれたのだ。 はぐらかす手間に飽きて正直に教えてしまった。 「良くない。用がないなら帰れ」 『まぁまぁ、来客でも?』 「寝起きで客なんかの相手が出来るか」 『あ、おはよう。俺は客じゃないからいいでしょ』 「……どうしても上がりたいんだな…」 『そうです』 「………茶も出ないと思え」 それだけ言うとマンション入り口のオートロックを外した。 がしゃんと乱暴に受話器を戻す。 改めてリビングを見渡したが、とても片づいているとは言えない。 カップ麺、コンビニ総菜などの容器が散乱している。2リットルのペットボトルも三本ほど転がっている。 フォークとスプーン、箸は仲良しだし。その隣にはミステリ本と何故か卓上カレンダ。 上着が二着椅子にかかっているが、その他の衣類が寝室にあるだけましか。 「あ、コンポのリモコン。んなとこにあったのか」 昨夜見あたらなかった物と再会してる間に、ピンポーン。と呼び出し音が響いた。 「………来やがった」 渋々鍵を開けると、そこには笑顔で那智が立っていた。 黒いシャツを着て、片手を上げる。 「久しぶり」 「…一週間ほどしか経ってないが?」 十pほど高い那智を見上げる。 「長い時間だったなぁ。お邪魔していい?」 「どこが長い」 文句を言いながらも皓弥は身体をずらし、那智が通れるだけの場を空けた。 「散らかってるからな」 那智は「気にしないって」と言いながらリビングへと足を踏み入れる。 本当に片づいてないんだがな。と呟きながら皓弥がドアを閉めて戻ると那智は複雑な表情をしていた。 「……顔に似合わず本当に散らかってる」 「言っただろうが。適当に座れ。コーヒー、水、アクエリ、どれがいい」 「茶はやっぱり出てこないんだ」 「出さないって言ったからな。烏龍茶があるけど」 冷蔵庫を開けて那智に見せてやる。 扉側に烏龍茶を発見したのだろう「うわ」と言って笑っている。 「アクエリかな」 「ぬるいぞ」 冷蔵庫を閉め、テーブルの足に寄り添っているペットボトルを持ち上げる。 常温放置は人肌並のぬるさだ。 「本気でぬるいし!」 「昨日冷蔵庫に入れ忘れた」 グラスにそれを注いでやる。優しさで氷も一つ入れた。しかしすぐに溶けるだろう。 「皓弥、ちゃんと飯食ってんの?」 辺りを見渡して、那智は苦笑した。 「ああ」 「昨日の晩、何食べた?」 見れば大体の予想は付くだろう。皓弥は記憶を探りながら、ゆっくり首を傾けた。 「……そういえば食ってないな」 「……昼は?」 「……らーめん?」 「疑問系ですか。よく夏を乗り切ったなぁ」 「母親がいたからな。死んでからは……体力なんてもんは」 がたんがたんと落ちて、すでにふらふらだ。 「もしかして料理出来ない?」 「出来ない。一種の才能かと思えるほど。火加減から味付けから、全てが最低だ」 まともなものを作ったことがない。出来上がったものを見ると多くの人が「すごいね……」とうつろな目をする。 「このままじゃ死ぬんじゃないの?」 「ああ、笑えないな」 「んじゃ俺が作ろうか。家事万能だから」 ぬるいアクエリに口を付けながら、那智が言う。 「わざわざあそこから通ってくんのか?電車で一時間くらいかかるだろ」 「車だともっと早い。でも確かに通いってのは面倒だなぁ。かと言ってほっとくと皓弥が栄養失調で倒れそうだし」 「倒れねぇよ、たぶん…」 断言出来ないところが情けないところではある。 「この光景を見る限り、そう遠くない未来だと思うけど。段ボール?」 那智はリビングと続きになっている部屋に目を留めた。 本が散乱している部屋に、三つほど段ボールが置かれているのだ。 棚には空白が目立つ。 「ああ……引っ越ししようかと思って」 「引っ越し?何処に?」 「まだ決めてない。でもここの部屋は広すぎるし、家賃も高い。大学も遠いしな」 理由を挙げながら、皓弥は苦いものが込み上げているのを感じていた。 本当は、母親と生活していた空間に一人でいるのが耐えられないのだ。 何処にいても、何を見ていても、母親を思い出される。喪失を突きつけられる。 「なら、一緒に住むかぁ」 那智はこの部屋を訪れた時より、さらに深みを増した満面の笑顔を向けてくる。 「はぁ?」 「大学近くに部屋を借りて、同居すればいい。俺は家事をそつなくこなすし、刀を側に置いてたほうが安全でしょ?」 「俺は協調性が無いんだよ。人と同居なんて出来ない。気は使うし」 「皓弥はそのままで生活すればいい。俺が合わせるし。主が刀に気を使ってどーすんの」 「おまえにだって大学あるだろ?第一そんな金あんのか」 「この仕事が金になることは、知ってるだろ?」 皓弥は言葉に詰まった。知っているからこそ、鬼相手の仕事を選んだのだから。 「部屋の高さはどのあたりがいい?ここが十階建ての八階だから、高い方が好き?」 「待て、俺は承知してない」 「希望があるならお早めに、行動は迅速ってのが基本だから」 「那智」 きつい口調で名を呼んでも那智は笑みを崩さない。 「身の安全を考えてもその方がいい。刀は近いに越したことはない」 「近すぎだろうが」 「そうかなぁ。今が遠すぎるだけでしょ。大学は何処だっけ?」 「……嘉林塚」 「頭いいんだ。こっからだと電車で一時間ちょいくらいか。まだ始まってないの?」 「今日から」 「午後からだともう出ないと間に合わないんじゃ?送ってあげよう」 軽くそう言って那智は腰を上げた。 「おまえはいいのか?」 そして皓弥の疑問に手をひらひらと振って「気にしない」と笑んだ。 赤い夕暮れを眺めながら帰路についていた。 久しぶりに会った友人との会話もあまり覚えていない。 脳裏で回るのは那智の言葉だった。 同居。そんな今まで関係のなかったものに悩まされるとは。 「……なんで男と同居。女と同居するわけもないが……それにしたって」 朝目覚めて最初に見るのが男の顔だ。いくら作りが整っていても。 家事をこなすというのだから、きっと「朝ご飯出来た」と言って起こしに来るのだろう。 「うがぁ……」 想像しただけで重苦しい気持ちになる。 その一方で、誰かがいる部屋というものに懐かしさを覚えた。 人の気配がある空間。すでに自分からは奪われたものだ。 「那智か……」 約一日だけ一緒にいたことのある男だ。性格なんてよく知らない。それでも嫌な感じはないわけだが。 「……はぁ」 食事を抜き続けた身体に体力も気力も残っているはずがなく、思考力は低下していた。 マンションを囲んだ高さは腰ほどまである植え込みの端に座る。 部屋には戻りたくない。 母親の位牌と向かい合いたくない。 「……レポート持ってればなぁ…」 明日提出のレポートを持って大学に行っていれば、今頃友人の家に泊まっていただろう。 そしてそのまま大学に直行出したというのに。 溜息が零れる。怠さに意識が支配されそうだった。 だが、ぼぅとしている中でも違和感を無視することは出来なかった。 背後から、前方から、妙な気配がするのだ。人ではない、鬼というほど不快でもないもの。 恐らく、小さな動物だろう。但し、化け物に限りなく近い。 普段なら気にも止めないだろう弱いそれらが気になるということは、それだけ自分の体力が落ちているということだろう。 ちらりと後ろを振り返ると黒猫がこちらを見ていた。 黄色の目が探るような目をしている。 その血が欲しい。そう言うように。 「やるかよ」 この身体から一滴でも血が流れれば、これらは一斉に襲いかかってくるだろう。贄の血はこの上なく甘いにおいがするらしい。 猫はふらりと寄ってきたかと思うと、すぐ側を通り、道に下り立った。 そして座り込むとアーモンド形の瞳を細める。 「……物言いだけだな」 鞄に入れてある短刀を取り出し、片手に握り締めながら立ち上がろうとした。 ふらつく身体を支えるため、植え込みの縁に空いた手を付けた瞬間。 鋭い痛みが走った。 「っ……」 掌を見ると透明の破片が刺さっている。そんなものは座る時にはなかった。 「性格悪ぃ」 通りすがりに猫が置いて行ったのだろう。 猫はにやりと口元を歪める、人間臭さに皓弥の神経がぷつんと切れた。 「くそ猫がぁ!!」 短刀の鞘を抜くと姿勢を低くして飛びかかってくる猫の爪とぶち当たった。 間近に見せられる尖った牙。 振り払うと綺麗に弧を描き猫が着地する。 「寄って来んじゃねえよ!!」 目の前にいる猫以外にもまた背後から猫が声を上げながら飛んでくる。今度は茶虎だ。 「大人しくしてりゃ可愛いんだけどな!」 振り返りざまに短刀が茶虎に刺さった。ずぶり、と鈍い音がして肉を貫く感覚が掌に伝ってくる。 抜くと血が噴き出し、頬にかかった。獣臭い鉄の匂いが鼻を麻痺させる。 視界は夕日と血で赤く染まり、眩暈がした。 くらりと地面が揺らぐ感覚に膝を折る。 「げ……」 ちゃんとした生活をしないからだ。そう母親の押し殺したような怒りの声が蘇ってきて、泣きたくなる。 黒猫が大口を開けて血が流れている手に食らい付こうとしているのが見えた。 すでに遅いと分かりながら短刀を振る。手に牙を立てられる光景を予測していたのだが、実際に目にしたのは。 猫の首を貫通する刀だった。 「……那智…?」 顔を上げると那智が立っていた。表情はなく冷ややかな瞳をしている。 初めて見る表情に、背筋がぞくりとした。命を奪う者の顔だ。 地面と猫とを繋いだ刀の柄から手を離すと、那智は深く息を吐いて目を閉じた。 そしてすとん、と脱力したようにしゃがみ込み両手を広げた。 腕は皓弥の身体を包む。 「よく襲われてるんだな」 低く囁く声は不機嫌そうだった。 「ああ……」 刀を突き立てられた猫はぐぅ、ぐぅと呻き、動かなくなった。そしてゆっくり灰へと姿を変える。 溶け消える黒猫とは反対に、皓弥が短刀で切り裂いた茶虎の猫は肉が腐り、骨が現れ、赤黒いジェル状のものになっていく。 よく見ているとアスファルトから染みのようにものがわき出てくる。虫のようなそれは小さな人型をしていた。腹の大きな、鬼だ。 腐敗する肉を喰らっていくのだ。 異常なその様に、皓弥は吐き気に襲われ口元を覆った。 何度も見ているとは言え、不快感は薄れない。体調の悪さ、精神の不安定さもあって息が塞がるようだった。 「皓弥?気持ち悪い?」 こくこくと頷く動きで胃の中のものを戻しそうになった。 「俺ならあの光景を見なくてすむんだけど。それでも俺を側に置いておきたくない?」 那智は片手でアスファルトから刀を抜いた。すっと抵抗もなくそれは抜かれたようで、地面に傷一つ付いていない。 「それに、このままだと殺されると思うけど?たかがあんな猫ごときに襲われるようじゃ」 「……ああ」 相づちを打った声の弱さに、驚いた。あまりにも脆弱過ぎる。 一人で立つことも出来ずに、こんなところで座り込んでいる。抱き締められてようやく声を出している。 こんなに弱かっただろうか。自分という人間は。 いつ死んでもおかしくないほどに。 急に言いようのない不安に襲われ、肩を抱いた。かたんと握っていた短刀が落ちた。 「皓弥」 名を呼ばれ唇を噛んだ。涙が滲んでくるのだ。きつく、きつく噛みしめて痛みで何かを誤魔化した。だが那智の腕の力は強くなって体温が近付いた。 「止めてくれ……」 墜とさないで欲しい。今ならその優しさに呆気なく陥落するから。一人で生きていけると信じていたものが崩壊するから。 「皓弥」 制止しても那智の声からぬくもりは溢れる一方だった。頭を振って蘇る部屋をうち消して、母親の不在を忘れようとして、目覚めるたびに味わう孤独を捨てようとして。 涙が頬を伝った。 「……和室……和室が一室欲しい」 「ん?」 「母親の仏壇を、置きたいから」 震える声でそう告げると、那智は「了解」と優しい響きを耳から流し入れてくれた。 次 |