引っ越しは速やかに行われた。 同居すると決めて一ヶ月後には、住所が変わっていた。 「なんでセミダブル?」 自室だと言われた部屋に置かれていたベッドを指さし、皓弥は眉を寄せた。 「ベッドは広いほうが良くない?シングルは俺には狭いんだよなぁ」 「おまえにとっては狭いってのは分かる。でもなんで俺までセミダブル?てかなんですでにベッドを買ってんだ?頼んだ覚えはないんだが」 「俺が欲しかったから、ついでに買ってみた」 「ついで、で買うようなもんじゃねーだろ」 段ボールの散乱している部屋で、男二人ベッドを見下ろすというのも妙な光景だ。 「いらなかった?」 「あった方がいいけど」 お礼を言うべきかも知れない状況なのだが、自分の意見を聞かずに実行されると皓弥には複雑な気持ちだった。 シーツ、肌布団、枕までちゃんと揃っている。 他には本棚が、しかも一つではない、置かれている。 大量の書籍を持っているので有り難い。 「準備良すぎ」 「皓弥を迎えるわけだから。これくらいはしないと」 「男と同居するのに、何が楽しいんだか」 理解に苦しむと皓弥が呟くのを聞いて、那智は笑った。 それが刀だから。そう何度か聞いた台詞を言うように。 「んぁ?」 突然インターホンが鳴った。 先に動いたのは那智だが、ふいに真面目な顔つきで皓弥に取った受話器を差し出した。 「荻野目」 懐かしさを覚える名前とともに那智から受け取った受話器からは、声が聞こえてきた。 『皓弥君?』 落ち着いた女性の声だ。 物心付いた頃には、母親の側にいたその人に「お久しぶりです」と答えた。 『元気にしてる?』 声は否応なく母親の空気を蘇らせた。皓弥は自然と浮かんだ苦笑を消しきれなかった。 「一応。倒れてません。どうぞ上がって下さい」 オートロックを外す。 一人暮らしではないということを思い出し、那智の顔を横目で見たがそこから嫌悪や拒絶のようなものは感じられなかった。 どうでもいいか、という投げやりな態度ではあったが。 受話器を戻してから、あることに気が付いた。 「人を上げるような状態じゃないな」 「そりゃ、皓弥は今日引っ越してばかりだからねぇ。俺は三日前からいたけど、それでも片づけは終わってなかったし」 リビングにも段ボールが転がっている。 冷蔵庫やテーブル等の類があるだけでもましなのだろうが。 「那智は、荻野目さんに会ったことあるか?」 「最近会った。仕事をこっちに移すかって聞いたらのってきたから」 「ああ。なら、那智と繋がりのある仕事をするんだ」 「こっちのほうが向こうより色々と情報も戦力も集まってくるしな。なんせ化け物とも繋がってるから」 「は?だっておまえらって化け物退治してんじゃないのか?」 「俺は喰うから関わりになれないけど。他の奴らは結構繋がってるよ。蛇の道は蛇」 那智は驚く皓弥にさらりと言う。 「確かに、情報は集まるだろうけど」 「そういう手段を使うことを嫌悪してたのが、荻野目が元いた所。得られるものが限られても自分たちの信念を通したいそうだけど」 人間ってのはねぇ。とやる気のない那智の声を被るようにドアチャイムが鳴らされた。 「いらっしゃい」 一度しか握ったことのないノブを回すと、荻野目が立っていた。 黒のパンツスーツ姿で、片手には仏花があった。 女の割に高い身長で、那智とあまり変わりがない。 肩に付く前に切りそろえられた髪、硬質の印象を与える顔立ち。 教師や講師などが似合う人だと、皓弥はよく思っていた。 「少し、痩せた?」 切れ長気味の目がほころぶと、皓弥の中に懐かしさが込み上げてきた。 その目を見る時は大概隣には母親がいた。 「かも知れません」 「食べなきゃ駄目ですよ?」 姉のように言われ、皓弥は頷いた。 「どうぞ」 身体をずらし、荻野目を部屋の中へと導く。 「お邪魔します」 荻野目は軽く頭を下げた。奥にいる那智に向かって。 那智は軽く会釈をするとキッチンへと入っていった。 対面式なのでリビングからはその無表情さがよく見えた。 「髪伸ばしてるの?願掛け?」 肩にかかる程度に伸びた髪は、鬱陶しいと一つにくくっている。 荻野目と最後に会った時にはなかったものだ。 「切り忘れてるだけです」 めんどくさがりだが、鬱陶しいと感じた物は即座に捨ててしまう皓弥の性格を知っている荻野目は、それをそのまま受け取りはしなかった。 だが「そう」とだけ言い、追求しなかった。 付き合いの長さを感じ、皓弥は一人申し訳ない気持ちになった。 気を使わせているのだと。 「美鈴さんは?」 「こっちです」 皓弥は和室へと足を踏み入れる。 そこには仏壇のみがあった。 引っ越して何よりも先に整えたものだ。 荻野目は位牌の前に正座し、仏花を添えて手を合わせた。 ああ、死んだのか。 皓弥は斜め後ろに座りながら、おぼろげな喪失感に包まれた。 葬式の時にもあった感覚だった。 「…引っ越しは急でしたね。どうして?」 荻野目は振り返った。そこには微かに悲哀が漂っていた。母を喪ったことを悼んでくれているのだろう。 だがそれを隠すように皓弥と距離を縮め、微笑んだ。 「那智が勝手に決めたんです」 「蓮城さんは信用出来る?刀と主との関係は私も色んな所から聞いて知っているつもりですが」 実際のところそんなことが有り得るのか、と荻野目は問い掛けているのだろう。 「まだはっきりとは言えません。でも、俺はそうかも知れないとは思い始めてます。そう思わなきゃやってられないってのもありますけど。どうであれ、仕事をするならあいつが必要ですから」 仕事という単語に、荻野目が姿勢を改めた。 「この仕事をするというのは本気ですか」 止めさせようとする空気が伝わってきて、皓弥は苦いものが込み上げてくるのを感じた。 「本気です」 「その身は危険にさらされます。今よりずっと。それでも?」 「金が必要ですから。それにあれのことを知りたいので」 荻野目は一瞬痛みを覚えたような表情をして目を閉じた。感情を押し殺そうとしているのが伝わってきてしまう。 この人は自分と同じだ。そう感じた。 そして深い息を吐きながら「敵討ちですか?」と重い声で尋ねた。 「違う。と思ってます。金のためにそうしたいというのがあるし、それにあれだって、あのままにしておくわけにはいかないんです。母親のことを抜きにしても」 「どうして?」 開かれた瞳には優しい感情が宿っていた。 それを聞き入れることが出来ないことに、皓弥は痛みを覚えた。 「あれを見れば、どう考えても俺と関係があることは明らかでしょう?いつか俺に害が降ってきますよ。放置しておくには危険が多すぎる」 「だから動くのですか」 「正直に言うと、むかつきますよ。あれが生きているってだけで気持ちが悪い。それが復讐したいってことだって言われると、否定出来ませんが」 荻野目はじっと皓弥を見つめ、やがて諦めたようにふっと肩の力を抜いたようだった。 「私も人のことは言えないので、止めたいですが黙っておきます。ただ、無茶なことは駄目です」 いいですね。と荻野目はそれだけは同意することを求めた。 はい。と短く答えると、那智がお盆を持ちながら現れた。 どうやらお茶を入れたらしい。三つの湯飲みが載っている。 「お構いなく」と言う荻野目の前に一つ置き、皓弥のすぐ隣に腰を下ろした。 「改めてのご挨拶となります。お二人に情報をお渡しすることになります、荻野目です」 荻野目は深く頭を下げた。それは仕事としての形に入ったということだった。 「こっちで良かったの?」 那智は湯飲みを片手で持ち、茶をすすりながら聞いた。礼儀を正さない。 「有り難いことです。私もより良い条件の下で働きたいので」 「危険だけど?」 「承知しております」 興味のなさそうな那智に対して、堅い態度を荻野目はとっていた。 「より多くの情報を求めるなら、危険は覚悟の上ですので」 皓弥はその言葉に荻野目の顔をまじまじと見つめた。 同じ気持ちがそこにある気がしたのだ。 「荻野目さん……あれを追っているなんて、言いませんよね?」 「人のことは言えないと、言いましたよ?」 「危ないですよ!?」 「私がそう言えば、皓弥君は止めてくれる?」 返す言葉などあるはずもなく、皓弥は口を閉ざした。 それを荻野目は「お互い仕方ないね」と言った。 忘れられないものがあり、止められない思いがあり、動かずにいられない衝動を抱いている。 同じなのだ、と教えられ。皓弥は切なさと妙な安堵を覚えた。 自分以外にも母親を忘れない人がいるのだということが、嬉しかった。 「髪、なんで伸ばしてんの?」 段ボールから大量の本を出し棚に収納していく、という作業を始めて一時間ほどが経過した時那智が口を開いた。 それまで黙々と作業をこなしていた二人の視線が合った。 皓弥がジーンズに突っ込んでいた携帯電話を見ると、午後七時だった。 「あれって何?」 皓弥の言葉も待たずに那智は問い掛ける。 荻野目が帰ってから那智の機嫌は傾いたようだった。それまで皓弥に何かと話しかけてきたのだが、荻野目が帰ってからは言葉が明らかに少なくなった。 機嫌があまり良くないと雰囲気で察していた皓弥は、苦笑を浮かべた。 今の那智は、除け者扱いに怒っている子どものように見えたのだ。 「言いたくない?」 大人げない態度に気が付いたのか、那智はふっと口元を緩めた。 すぐに流れていた空気が柔らかになる。 「聞きたいのか?おもしろくも何ともないが」 「皓弥のことなら」 まるで街に溢れかえっている盲目的なカップルが言う台詞みたいだ。そう思いながら皓弥は段ボールから本を出す。 ここまで来ると隠し続けることは出来ないだろう。蓮家にお邪魔をした際にはその名前を口に出すことなく過ごせたので、ほっとしたのだが。いつまでも秘めていることは出来ないらしい。 そもそも同居をしている相手、しかも仕事で関わりを持つことになるだろう那智に隠し続けるのも難しいだろう。 「あれって言うのは、母親を殺した鬼のことだ。荻野目さんが回してきた仕事をしている時、母親はあれに会った」 「どんな鬼?」 「有名だって聞いたから、おまえなら知っているかもな。面喰いだよ」 那智の目つきが変わった。 すっと細められた眼差しは剣呑な色を帯びて刀の切っ先のようだった。 皓弥は背筋が冷たくなるのを感じ、本を握っていた手を強張らせた。動けない、それどころか息をすることすらも恐ろしい。 不意に見せられる、那智のこういった表情に皓弥はどうしようもなく恐怖を覚えてしまった。 まるで捕食者に見つかったように感じる。 「それは、嫌な鬼だな」 那智がぽつりと呟いては、瞬きをして細められた瞳を和らげる。そのことによって、ようやく呼吸が戻ってくる。 「……強いんだろ?」 「長生きしてるらしいから、強いんだろうな。会ったことないから俺にはよく分からないけど。皓弥のお母さんはよくそんな仕事を受けたなぁ」 「情報ミスだろうってさ。もっと別の何かを始末しに行って、あれまで出てきたって」 「おまけにしては、デカイ相手だ」 「そう。荻野目さんは仕事を回した自分の責任だって、気にしてる」 「調査員として当然の意識だね、それは」 那智は本を持ち上げ、棚へと並べていく。 皓弥の本棚なのだが、何処にどんな種類を入れるのか、すでに指示してあるので手際が良い。 「だから仕事をこっちに移ったんだろ」 「で、皓弥は面喰いを始末したいの?」 「そう、しなきゃ困るんだよ」 「困る?気持ちが収まらない?」 皓弥は段ボールから取り出した本を床に置いた。 「顔、持ってかれたんだ」 那智が振り返った。真剣さを増したその眼差しに、皓弥は立ち上がり、背伸びをした。ずっと座っていたから腰がきしむ感覚がする。 「母さんの顔、持って行かれたんだよ。面喰いに。珍しいんだってな」 「……十年に一度くらいしか変えないって噂だ」 「ああ」 母親の死体を思い出し、皓弥は吐き気とめまいを覚えた。 顔の皮を剥がれた死体。肉と骨のそれを見て、母の面影など探せるはずはなかった。 面喰いに取られたのよ。 荻野目は泣き崩れながら言った。 いつも凛として、感情を表に出すことをしなかった人の姿に皓弥は呆然とした。 面喰いという鬼がいる、ということは後になって聞いた。 人の顔を奪って自分のものにする鬼なのだと。 好みが激しく、人を襲っても滅多に顔は奪わずにいる。一度奪えばそれに愛着を覚えたかのように長い間被っている。 いつの頃から存在しているのか定かではない。始末されずに生き残っているということが、面喰いが強い鬼だということを証明していた。 「復讐がしたいわけじゃない。俺はそう思ってる。ただ、今も何処かに母さんと同じ顔をした鬼が人を喰っているんだ。それがむかつくんだよ」 今この瞬間も、じっとしていられないほどに。 面喰いのことを喋っていること自体に皓弥は苛立っていた。 そのことを思いたくないのだ。 「それに、俺と母さんってすげえ顔が似てるんだよ。春奈さんみたいに十歳くらい平気でサバ読める人で、いつも姉弟に間違われてたんだけど。あの鬼を見れば俺と血の繋がりがあることは間違いなく分かる」 母親を殺した鬼と、酷似している自分の顔。 「そんな鬼が生きているなんて、気持ち悪い」 皓弥は吐き捨てた。これ以上ないほどの嫌悪を込めて。 「だから、始末したいのか」 「殺したい」 あえて「始末」という単語を使わずに、皓弥は那智に向かって言い放った。 この手で、命を奪う。そう意志を明らかにする。 「この髪を伸ばしてるのは。母さんが長かったから。女と男っていう差はあってもこうすれば少しでも母さんの顔に近くなる。似ていれば似ているほど情報は集まりやすいだろ?」 (俺を見れば、よく似ていた人がいたって言える) 人間は視覚を重視する生き物だ。面喰いを見た際、酷似した顔である皓弥と出会えば何かしらの刺激を受けることだろう。これを知っていると、そう感じてくれるはずだ。 皓弥はそう言いながら、鏡に向かうたびに母親との記憶と見たこともない鬼に対する憎悪を覚える自分に自嘲した。 こうして髪を伸ばすのは、忘れたくないだけかも知れない。奪われたことを、憎悪を。 髪で縛っているのかも知れない。 「きついことを願うんだなぁ」 「馬鹿だろう」 自分より強かった母親を殺した鬼の首を斬りたいなど。 しかも贄の血を持っている人間だ。すぐに喰い殺されるのがオチだと言われても仕方がない。 「こんな主が嫌なら、離れて行っていい」 皓弥ははっきりと告げた。まだ那智に依存しているわけじゃない。まだ独りで生きていける。 だから、失望したと言うなら。ついていけないというのなら今の内に目の前から消えて欲しかった。 「嫌なわけないでしょ。願うことがある人って俺は好きだし」 那智は剣呑さを消して本を仕舞い終えた。 「この部屋、一人じゃ広いし」 「まぁな。それに俺はこの本の移動はもう嫌だ」 段ボールにまだどっさりと残っている本を見て、皓弥は溜息を付いた。 少しばかり、笑いながら。 |