参




 
 那智は左腕を負傷したというのに、それまでの暮らしを一切変えなかった。大学に行き、一人で家事を担い、風呂も平然と入る。傷口を濡らすのは良くないのではと思ったのだが、本人は頓着しない。
 診察して貰った翌日には、傷口にはかさぶたがちゃんと作られていた。まだ薄く、生々しい外見ではあるけれど、きちんと治ろうとしている皮膚の経過に胸を撫で下ろす。
 早すぎる回復だ。それは皓弥にも分かっているのだが、元々自分とてただの人間ではない。鬼を引き寄せる血など、でたらめのような体質を持っている。
 刀を生み出している那智がそれよりもおかしな存在であることは、仕方のない事実だ。怪我が早く治ることは良いこと、それだけを考えることにした。
(俺たちは普通なんてものに当てはまる人間でも、生き方でもない)
 異常は常に皓弥の周りには有り触れていた。これはそう特別なことではないと、そう解釈してしまえば良いのだろう。
「もう二度とこんなことがなければ、それでいい」
 怪我の具合を確認して皓弥はそう呟く。二度とあんな無様な油断などしない、そう固く誓う。
「そんなに気にしなくていいのに。これだって綺麗に治る。あっさり完治すれば、怪我なんて大したことじゃないって分かるよ」
「そういうことじゃなくて」
「いや、そういうことだよ。心配するほどのことじゃない」
 怪我をしてもすぐに元戻るのだから心配なんて無用なのだと軽く口にする那智に、当惑が残される。
(それでも痛みはある)
 噛み付かれる、切りつけられる。その時に確実に激痛が走るはずだ。その時の体感は、避けられるものであるならば、無い方が良いに決まっている。
 記憶と同じだ。身体が傷付けられた痕は消えても、傷付けられた記憶は残り続ける。
(それすら背負って行くって言うんだろうけど)
 この男は傷も記憶も、皓弥のためならばと背負い続けるのだろう。
 だがその度に皓弥は自分の無力さを噛み締めることになる。



 夕方になり、インターフォンが鳴った。祝日で二人とも家にいたのだが、こういう場合皓弥よりも先に那智が動く。まして那智は玄関の近くにいたらしい。皓弥が自室から出るとすでに玄関から人の声が聞こえて来た。
「えっ」
 よく知った穏やかな声音に驚いて玄関に向かうと、春奈が靴を脱いで上がって来たところだった。
「お久しぶりです皓弥君。お元気ですか?」
 春奈は相変わらず年齢を感じさせることなく若々しい。三十路と言っても通じるだろう外見と優しげな顔立ち、小柄な女性は守ってあげたくなるような雰囲気があった。色んな意味で那智の母親とは思えない。
「俺は元気なんですが、那智が」
 今の那智は長袖を着ているので、ぱっと見は怪我をしているなんて分からないだろう。だからこそ母親である春奈に説明をしなければいけないと思ったのだが、春奈は皓弥が言い終わる前に頷いた。
「聞いてます。藤堂さんのお世話になったそうで」
「俺のせいです。俺が鬼の見た目に油断をして、襲われたところを那智が庇ってくれて」
「まあまあ落ち着いて下さい。先にお母様にご挨拶させて頂いてもよろしいですか?」
 早口で話をする皓弥を、春奈は微笑みを浮かべながら制してくる。母に挨拶と言われ、皓弥はふっと落ち着きを取り戻した。
 亡き母に会いに来たかも知れない人に、訪問早々みっともない姿を見せるのはあまりに恥ずかしい。
 自分の言いたいことだけ喋り続けてしまったことに気が付いて、深呼吸をする。
「どうぞ」
 仏間に案内すると春奈はそこにある母の写真に一瞬痛ましいと言わんばかりの表情を浮かべた。生前の母を知っているのだなと、その表情から窺える。
 春奈は黙って仏間の前で頭を下げては手を合わせてくれる。その後ろ姿を眺めながら、こうして手を合わせてくれる他人は那智と荻野目以外にはいなかったなと思い出した。
 この家を訪れる客はいない。それは皓弥が他人を拒むからなのだが、母には親戚がおらず、親しく付き合っていた人もごく限られていた。
 子どもを抱えて戦い暮らしていた母は、他人との接触を好まなかった。他人に目を向ける余裕はなく、むしろ接触が増えれば増えるほど面倒が増えると思っていたのだろう。
 大切なものを守るためには、出来るだけ持ち物も、気持ちが向く先も少ない方が集中が出来る。
 皓弥も同じ道を歩こうとしている。
(でも、守れていない)
 春奈から手土産を受け取りお茶の準備をしているだろう那智に、守られるしか能がない。
 それどころか那智のことを分かっていないと、蓮城の親戚に言われる有様だ。きっと那智の母親である春奈ならば、今回のことを歯痒く思っていることだろう。
「那智のことに関して、ご心配をおかけてしまいました」
 春奈は手を合わせるのを終えたかと思うと、皓弥を振り返ってはそう頭を下げた。
「顔を上げて下さい、全部俺のせいです」
 春奈に責められることは覚悟していたが、頭を下げられるとは思わなかった、面食らっては慌てて春奈を止めるのだが、頭を上げても春奈は申し訳なさそうな顔を改めない。
 彼女がそんな小さくなる必要などどこにもないというのに。
「鬼の外見が子どもだったので俺は油断したんです。気配は鬼のものであると分かっていたくせに、見た目に惑わされて対処が遅れた。そのせいで那智が俺を庇って、大怪我を負ったんです。那智には何の落ち度もない、全部俺のせいなんです」
 自分以外は誰であっても謝る必要のないことだ。なのに皓弥以外の人間が謝罪を口にしてばかりで、肝心の自分は何も償えていない。
「那智は、本人も言っていると思いますが人間ではありません。皓弥君の刀です。貴方の代わりになり、自分の身体が傷付くことに関しては全く厭わないでしょう」
「それでも!」
「むしろ貴方を庇えなかった時の方が、遙かに辛い。貴方のために生きている、貴方のためだけの刀ですから」
 皓弥が無事ならそれでいいと笑う人と、同じことを春奈まで告げている。それが正しいことだと言わんばかりの彼らの態度が、皓弥にはどうしても受け入れられない。
「だからといって傷付けられて良いわけじゃない。どれだけ治るのが早くても痛みがあって、動かしづらくて、日常に負担があります。怪我をしなくて済むならその方が絶対にいい」
「そうです。怪我はしない方がいい。その方が主を守るのに万全の態勢でいられる」
「主がどうこうではなく」
「どうこうという問題なのですよ。そのために那智は生まれて来たのですから。那智は主を守るためだけの存在であり、主を守るために生きています。貴方がいなければ、あの子は生きていない」
 春奈は自分の子どもの存在を、主のためだけだと断言する。そのために腹を痛めて産み、愛情を注いで育て上げたというのか。皓弥という、まだ付き合いの浅い二十歳そこそこの男のために息子を差し出すことを躊躇わないのか。
(それが刀の母親なのか)
「刀であっても、那智は那智です。立派な、たった一人の息子さんじゃないですか」
「ありがとうございます。貴方が那智のことを大切に思って下さることは母親として、とても誇らしく嬉しい。那智もきっとそうだと思います」
 春奈はそう言って微笑んでいる。けれどその笑みはやはり皓弥が求めるような、息子の安全を第一に思う姿勢ではない。
 もし那智の身を案ずるなら、苦悩を浮かべて皓弥に説教の一つでも渡したはずだ。
「けれど皓弥君。一つだけ、お願いがあります」
「はい……」
「それでもあの子を人間として扱わないで下さい」
 冷たい水を一気に体内へと流し込まれたようだった。
 心臓がどくりと大きく鳴っては、頭の先から冷たくなっていく。
 春奈は非道なことを、さも正当であると言わんばかりに凜とした声で伝えてくる。それが皓弥にはあまりにも痛い。
「どうして、ですか」
「人として扱うには強すぎる。異質なんです。あの子の怪我の具合を見て、皓弥君も異常だと思ったはず。治るのがあまりにも早すぎるでしょう」
「そうですが……」
「人間の医者には診せられません」
 ああ、と春奈が言いたいことがようやく分かった。
 人間扱いするな、というのは何も粗末に扱え、無下にしろということではない。
 刀のことなど何も知らない医者に那智を診せた場合、騒ぎになる可能性がある。異常な回復力を目にした医者が、那智に必要以上の興味を示して良くない事態を引き起こすかも知れない。
 知識のない者に晒して、無用な揉め事を起こすのは那智にとっては迷惑以外の何物でもないのだ。
(俺は、浅はかだ)
 何かしなければいけない。医者に診せれば何とかなるのではないか。
 そんな浅慮で那智を困らせてしまった。無力であるどころか、余計なことをして那智の負担になっただけだ。
「すみません……」
「いえ。お気持ちはとても有り難いのです。皓弥君が優しいことも、素晴らしいことだと思います。ですがその優しさであの子の役目を見失わないで下さい」
「見失う……」
「もしあの子が鬼に襲われたとしても、決して庇わないで下さい。大怪我を負うかも知れない状態であってもです。皓弥君は自分の身を危険にさらしてはいけません。それでは意味がない」
「でも、俺だって戦えるんです!」
 刀が武器だと言うのならば、その所有者は武器を持って自ら戦うべきではないのか。守られるだけでふんぞり返って、那智が傷付くのをただ見ているだけの人間なんて。主でも何でもない、ただの張りぼてだ。
「分かっています。貴方は守られるだけの人じゃない。気高い闘志がおありです。那智はそんな貴方を守ることを何より誇りにしています。守れなければ、あの子は永遠に悔やむ。自分のせいで皓弥君が怪我をしたとなれば、どれほど自身を憎悪することか」
 そんなわけがない、大袈裟だとも、言えなかった。
 那智の激情はすでに何度も目にしてきている。
「もし那智のことを思うのなら、あの子を守るのはいけないことです。戦うならあの子を武器に、そして盾にして下さい。それが刀にとって何よりの喜びであり、誉れです」
 お願いします。
 そう告げて再び頭を提げた春奈に、皓弥は喉が締め付けられては言葉が出てこなかった。










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