四




 

 深々と頭を下げている春奈に、主とは何なのかと誰かに問いかけたくなった。
 生まれた時から特別厄介な血を持ち生まれて来た。物心ついた時から異様な生き物に命を狙われ、追い立てられ、毎日が危険と背中合わせだった。
 それでも必死に自分を守ってくれた母親が死に、一人きりになった皓弥の元に現れたのが那智だ。
 那智は自分を刀だと言い、皓弥を主だとして守ってくれた。そのために生きているのだと語る那智に支えられ、慈しまれて皓弥は生存している。
 全てはこの身体の中に流れている血のためだ。その血を守るために那智は刀として、全てを捧げようとしてくれている。
 生まれながらの刀だから。
(でも俺は、真咲の血だと、贄の血だからおまえは主だと言われた)
 那智という一人の人間の命を捧げられるに値する器であるかも、価値があるのかも分からないまま。
(なのに、那智を犠牲にしてまで生き残って、どうなるんだ)
 自身にそこまでの価値が見えない。
「厳しいことを言っているのは承知しています。しかし那智が皓弥君に対して自分は大丈夫だと、心配しなくていいと言っていることは、慰めでも遠慮でもありません。ただの事実なんです。それだけは分かって下さい」
 ありのまま、すんなりと飲み込むべきなのだと説得してくる春奈に、皓弥は締め付けられる喉で辛うじて疑問を述べた。
「春奈さんにとって、那智は大切な息子でしょう。それでいいんですか?」
「大切だからこそ、息子が自らの望む道を歩いている、使命を果たそうとしていることほど幸福なことはありません」
「命の危険に晒されて他人の盾になって、もしかすると俺が捨て駒のように那智を扱うかも知れない場合があるとしても。それでもですか?」
 そんなことはしないと誓える。
 那智を捨て駒のように扱うくらいならば、自分が最前線で戦う。
 けれど盾にしろという春奈は、皓弥の迷いを切り捨てるようにして頷いた。
「那智はそれを幸いとするでしょう」
 無理だ。俺にはそんなことは到底理解出来ない。
 そんな風にいっそ拒絶したかった。
 けれど春奈は皓弥を苛みたいわけでも、責めているわけでもないのだ。徹頭徹尾、ただひたすらに願っているだけであり、それは本来皓弥にとって都合の良いだけのものであるはずだった。
 ただ心が付いていかないのだ。どうしても、那智のことを守りたい気持ちがある自分を無視出来ない。
 皓弥の思いは表情に大きく出ているのだろう。春奈は目が合うと悩ましげに目を伏せた。
「今すぐ納得して下さいとは言いません。皓弥君が悩んでいるということは、那智と優しい信頼関係を築いたということですから、とても理想的だと思います。守りたいと思って下さっている皓弥君の気持ちも気高いものです」
(だけど、どれだけ思っていても、何の役に立てなければ無駄だ)
「私は貴方が那智の主で良かったと心から思っています」
 良いわけがないだろうに、春奈は微笑んだ。何の不安もないと言わんばかりの堂々とした母親の姿に小さくなるしかない。
 春奈にそんな悩みを持たせることのない主になれない自分の不甲斐なさが突き刺さる。
(俺はその気持ちに何一つ報いていない)
 誰かの命を背負い、扱うということを、これまで考えていなかった。むしろ自分の命を預けている、半分那智のものであるように思い込んでいた。
 逆であることは、頭の中に最初から無かった。
(……那智はどう思ってこれを聞いているんだろう)
 お茶を入れると言ったきり、那智はやってこない。台所は仏間から近く、襖を開け放っているのでこの会話もきっと耳にしていることだろう。
 静かに黙ってここに来ることもないということは、春奈の言っていることが正しいからだ。もし自分の意見と大きく異なるのならば必ず口を挟んでくる。
 暗に皓弥のことは主として未熟だと、そう言っているに等しい。
(でも完璧な主って何だ。那智を盾にして逃げることが正しい主の姿なのか。それでいいのかよ)
 そうだと誰に肯定されても、最後まで認められそうもないことだった。



「春奈さん、何て言ってた?」
 夜も更けて、そろそろ寝ようかという時刻。セミダブルのベッドに二人並んで座っていると、那智が不意にそう問いかけてきた。
 皓弥はハードカバーの本をめくろうとしたタイミングだったけれど、内容はあまり入って来ずにただ淡々と文字を目で追っていたので、那智の問いかけに簡単に顔を上げられた。
 那智はスマートフォンを操作していたようだが、すでに画面を消している。皓弥だけを見詰めてくるその瞳に、小さな罪悪感が込み上げてくる。
 その理由は自分でもよく分からなかった。
「聞いてたんじゃないのか?」
「おぼろげにしか聞いてないよ。俺にとっても耳が痛そうだったから」
 苦笑する那智は、自分の母親に対してはさすがに強く出られないようだった。弟に関しては刀の血が薄いという理由で他人としてしか接しないのだが、刀の血の濃い、自分を産んだ母親に対してはやはり弱い面があるのだろう。
「春奈さんはおまえのこと褒めてたよ。刀らしいって」
「そう」
 那智は嬉しそうというよりも、納得したというような返事をする。刀らしいというのは那智にとっては、至極当然のことなのだろう。
「……怪我を診て貰った藤堂先生に、那智は人間じゃなくて化け物みたいなものだって言われて。俺は頭に来たんだ」
 那智に対して誰かがおまえのことを化け物だと言っていたなんて。これまでならば言えなかった。自分まで那智を罵っているような気分になるからだ。
 けれどあれほど人間ではないと繰り返し春奈に説得された後ならば、那智がそれに対して何も思わないだろうということも、なんとなく察せられた。
 その通りであるように、那智は涼しい顔のままだ。
「化け物なんて、人を罵倒する時の台詞だろう?」
「そうだね」
「だから、俺はおまえが侮辱されたような気がして、すごく嫌だった。先生はそうじゃないって言ったけど、俺にはそうとしか聞こえなかったんだ」
 皓弥はハードカバーの本をバタンを閉じて膝の上に置いた。こんな気持ちで読書に戻ることは不可能だ。
「でも春奈さんに那智は人間じゃない、刀だって、強すぎる者なんだって。人間と同じように接しちゃいけないって言われて」
「うん」
「主を守るためにあるものだから、刀を庇っちゃいけない。主を守るためにあるんだから、盾にしなさい。そう教えられたんだ」
「それが正しい」
 やはり那智もそれを躊躇いなく後押しをしてくる。予測していたのに憂いがまた込み上げた。
「春奈さんは母親なんだから、おまえのことがとても大切なはずなのに」
「命よりも大切だと思うものがあるんだよ」
「使命?」
「春奈さんはそう言ってた?」
「……言ってた。主を守るのが刀の使命だからって。その使命を果たそうとしている那智を見ているのは幸せだって」
 それは偽りどころか迷いも見えない。恐ろしいほどに、真摯な姿だった。
「そうか」
 那智は少し嬉しそうに微笑んだ。
 自慢げとすら感じられるかも知れないその表情だって、皓弥には人間だとしか思えない。
「人間じゃない、刀だって繰り返されても俺にはどうしてもぴんとこない。刀が出てくるくらいなんだから、ただの人間じゃないことは百も承知だけど。だからって那智が怪我をしたり、まして那智を盾にするなんてことは、怖い」
「……そう」
「でもおまえが自分より俺を守りたいって気持ちを無視することは。おまえのプライドとか、大切なものを台無しにするような行為なんだってことは、理解した」
 主を守ることが刀としての存在意義であるとすれば、皓弥が出来るのは那智に守られることなのだろう。それを否定したり、奪ったりすることは、どんなことよりも深く那智を傷付ける。それこそ侮辱に値してしまう。
 那智を大事にしたいなら、思っているならば、無下にしてはいけないところだ。
 だが今の皓弥はそれを丸ごとは受け入れられなかった。
「本当なら、俺は鬼を斬るなんて仕事は辞めて安全に暮らした方がいいんだろう。自分にとって、おまえにとっても。鬼に出来るだけ関わらないほうが平和だ」
 危険から遠ざかれば遠ざかるだけ、安寧が約束させる。
「でも俺は、自分を曲げられない」
 ありとあらゆるものを犠牲にしてでも、自分の母親を殺し、その顔を奪って逃げた鬼を許せない。そんな恥辱を放置して生きていくことなど出来ない。
 プライドを捨ててただ生きているだけの自分など、とうに死んでいるようなものなのだ。
「知ってる」
「だからっておまえを盾にして、自分だけ安全を図るっていうのも、やっぱり俺は納得出来ないんだ。自分一人だけ無事だったらそれでいいのか。俺にとってはそうじゃない。そんなものは後悔する」
 那智を盾にして平然としていられるようなものに、成りたいとは思えなかったのだ。それでは自分が自分ではなくなる気がする。
 それこそ那智が持っている、命よりも大切なものを失う気がした。
「困った主だ」
 そう言いながらも那智は困った様子は全く無く、むしろどこか納得したように頷いている。
 厭っていないと分かるその顔に、少しだけ自分が許されるようだった。
 だがここで満足してはいけない。それでは甘やかされて、那智に包み込まれているだけだ。
「俺は主としては最低だろう。刀を刀として扱っていない。中途半端な優しさは無駄なだけだ」
 そこまで分かっていながらも、自分を貫こうとする皓弥の姿は愚かしいものだ。自覚があるならば正すべだろうに、背を向けて意地を張ろうとする。
 その主に刀は「まさか」と囁く。
「俺にとっては最高の主だ。優しくて矜持があって、真っ直ぐ生きていこうとする」
 那智が皓弥の長い髪を梳いていく。
 肩よりも伸びている髪は復讐のためだけにその長さになった。けれど今では那智がその髪に気を遣い、シャンプーやコンディショナーを買い換え、櫛を入れては植物か何かの世話をしているように慈しんでいる。
 傷付いて、包帯を巻いているその左腕の先にある指で。
「全部を一気に理解しようとしなくていいんだよ。俺たちは違う人生を歩いてきた、違う生き物だ。こうして寄り添って一つずつ分け合っていけばいい。大切なことなら尚更、時間をかけよう」
 未来は長いのだと、那智は無条件でそう信じているようだった。
 贄がまともに寿命を迎えられるはずがない。体力が衰えた時、鬼に喰い殺されて死ぬのだろうと思い続けてきた皓弥には、ぴんとこない未来だ。
 だが皓弥のそんな先の見えない短い生き方すらも、那智は変えようとするのだろう。
(他人と暮らすことを、悪くないと思えるようになったように)
 自分のことをよく知らない他人と生活を共にするなんてとんでもない。きっと息が詰まる。すぐに嫌気が差すと思ったのに、同居しているだけでなく一つのベッドで共に寝ることが当然になっている。
 この部屋の中で那智と二人でいることが心地良いと思えるようになったように。主と刀としての自分たちの価値観もまた、馴染む時が来るのだろうか。守りたいという互いの気持ちが、互いの妨げにならずに済む形が見付けられるのか。
「俺は強いよ。だから信じて」
「……努力する」
 素直に「はい」と言えないのは、那智の強さに頼り切って腑抜けになる自分が怖いからだ。
「欲張りな皓弥は、もう少し強くなったほうがいいかも知れないな」
「おまえに守られなくてもいいように?」
「それは寂しい」
 嫌だという感情を隠しもしない男は、皓弥の髪を一房そっと取っては口付ける。
「傷付いても、傷付けられても、傷を全部綺麗に治して消し去り、再び立ち上がれるように」
 それは傷付かずにいるよりも、遙かに難しいことだ。
 だがその強さを求められることは、そっと背中を押されているような気持ちでもあった。共に歩いて行くために必要ならば、無謀だと思えても目指していける。










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