弐




 
 翌朝、那智は午前八時に目覚めた。
 通常時とほぼ変わりがない時刻だ。皓弥は普段ならばまだ寝ている頃なのだが、那智のことが気になって眠りが浅かったため、那智が起きた動きで自然と目が覚めた。
 朝食を作ろうとした男を止めて、先に医者に行くことを勧めた。というかほぼ強制していた。飯など食べられる気分でもなかったのだ。
 那智が空腹ならばと言ったのだが、自分のためだけに食事を作る趣味はないと言われて却下された。
 腕の傷は驚いたことに出血が止まっていた。怪我を負ってから五時間も経たずに血が止まる程度の怪我だろうかという疑問はありながらも、血が固まり始めたことには安心した。
「医者に行くぞ」
 那智は出血が止まったから良いではないか、という少しばかり不満そうな表情を見せた。これでは一人で家から出しても医者の元に行くかどうか分からない。
 そう判断したため、皓弥も那智と一緒に医者に行くことにした。大学に行くことよりも遙かに優先されるべき問題だ。
 那智はそれには抗わず苦笑と共に受け入れては車を出してくれた。
 左腕を負傷しているのに、と思ったのだが車の運転に関しては片手で十分だと言い返された。力を込める必要もない作業なので、そう負担にもならないらしい。
「いつも片手で運転してたよ」
 そう言われてもいまいち記憶が曖昧だった。那智の運転はとても安定しているので、両手か片手かなんて意識する必要性を感じなかった。
 那智の実家の近くにその医者は診察所を構えていた。看板には「藤堂 内科・外科・整形外科クリニック」と出ている。診察所はそう広くないようで、駐車場も二つしか車がとめられない。
「俺が子どもの頃から世話になっている医者だよ。親戚なだけあって、俺が刀だってことも、人間とは違うことも知っているから。怪我の具合も俺に合わせて診てくれる」
 車から出た那智は、診察所のドアへと歩きながらそう教えてくれる。
 子どもの頃からちゃんとかかりつけの医者がいると、こういう時に便利だ。
(人間と違うってことも分かってる医者……)
 那智の親戚だという医者は、那智と同じことを言うのだろうか。
 クリニックに入ると那智がまず受付に名前を述べた。事前に電話で連絡を入れていただけあり、余計なことを訊かれることなくソファに座って待っておくようにと告げられた。
 問診票を渡されることも、保険証の提示も求められない。それで良いのかと気になるのだが、那智の親戚だという医者が営業している診察所に余計なことも言い出せない。
 那智の迷惑になるかも知れない。
 待合室には他に二人の患者がいた。具合が悪そうな彼らの診察は思ったより早く終わり、新しく患者が入って来ることもなく、最後の一人になった那智が看護師に呼ばれて診察室に入って行く。
 ぽつんとソファに残されて、受付の看護師二人が小声で喋っている声や、空気清浄機が動いている微かな起動音を聞いていた。
(ちゃんと治るんだろうか。たぶん縫われるんじゃないかな、あれ)
 縫合は痛いだろう。痛みには鈍いなんて言っていたけれど、それも本音かどうか分からない。
 自分のせいで、那智が苦痛を味わっているかと思うと全身を後悔の念が縛り付けてくる。出来ることならば代わって貰ったほうが、精神的には負担が少なかったことだろう。
 溜息をついては鉛が詰まったような胸で息をする。だがろくに酸素が吸い込まれている気がしなかった。
「真咲さん」
 不意に男の声で呼ばれて顔を上げた。すると診察室へと続くのだろうドアが開かれており、そこには白衣の男が立っていた。白髪交じりの黒髪、眼鏡をかけて理知的な顔立ちをしている五十歳ほどの男だ。おそらく彼が医者なのだろう。
(なんで、俺の名前……)
 那智から訊いたのだろうか。
 腰を上げて男の元に行くと、ドアを閉められては診察室と思われる部屋の近くまで歩く。真っ白な廊下の壁には患者に向けた、健康や病気に関するポスターが何枚も貼られている。
 このまま診察室に案内されるのかと思ったのだが、何故か男は後一、二歩で診察室の前だというところで立ち止まり皓弥を振り返った。
「初めまして。藤堂と申します」
 軽く頭を下げた男は、おそらく医者としてではなく那智の親戚としての挨拶をしているのだろう。医者ならばわざわざ名乗ったりはしない。
「真咲、皓弥です」
「存じています。刀の主」
 刀の主と言われたことに、那智の親戚らしい認識だなと感じた。
「蓮城君のことは子どもの頃から診ているので、彼の身体のことは大体把握しています。彼 は人間とは異なる者、あの程度の怪我でも大したことはありませんよ。すぐに治ります」
 本人の強がりや、皓弥への配慮で嘘をついているわけではないのだと、裏付ける医者の発言に多少胸の鉛が削られる。
「どれくらいで、完治しますか?」
「もう血も止まっていますし、かさぶたも出来始めていますから、五日もすれば傷は塞がり痛みも無くなるでしょう。完治するまで十日といったところかな」
 早すぎる計算に、耳を疑った。
「あんなにも酷い怪我なのに、ですか?」
「普通の人ならば当然もっと日数が必要です。それ以前に縫合しなければとてもではないが傷が塞がらない。ですが那智には無用です。自然とくっつきます」
「本当でしょうか……」
「刀ですから、治癒力も優れています。本人からも聞いているとは思いますが、那智は人間ではありません。今日もここに来る必要は無かったでしょう」
「那智も、そう言ってました」
「貴方を安心させるためだけにここに来たようなものです。現在包帯を変えていると思いますが、出来ることはそれくらいですね」
 おそらく医者は傷口を見て、何の処置もいらないと判断したのだろう。消毒も薬も那智には無用なくらい、自力で治すことが出来る能力を持っているのだ。
(すさまじいな)
 人体の治癒力を遙かに上回る能力だ。
「真咲さんにとって那智はきっと人間に見えていることでしょう。見た目は人と変わりがないので無理もない話ですが。あれは人間ではなく刀。化け物に近い生き物だと思って下さい」
 医者は淡々とそう語る。
 だが躊躇いなく口にされた言葉に皓弥は凍り付いた。
(化け物……!)
 親戚の子どもをそんな風に言える男の神経が信じられなかった。瞠目した皓弥に医者は悪びれることなく、むしろ自分は正論を告げていると胸を張るようにして言葉を続ける。
「人間のように心配することはありません」
 医者が、人を治すことを生業としている者が那智をそこから排除しているという事実が、一気に頭に血を上らせた。衝動的な怒りに身を任せることは愚かだと知っていながらも、自分を止められなかった。
「俺は、那智をそんな風には見られません。化け物だなんて言い方をされるのも納得出来ない」
 自分のために傷付いた人だ。それでも皓弥を責めることなく、むしろ動揺する皓弥を気遣って慰めてくれるような存在だ。ずっと支えられて、助けられてきた人を心配するな、まして人間のように扱うなと言われて頷けるわけがない。
(この人がどれだけ那智を知っているのは分からない)
 親戚の医者という立場で、那智の身体のことについて詳しいのかも知れない。だが少なくとも自分たちの関係は分からないはずだ。
 那智がどれほど自分を大切にしてくれているのか、自分たちがどんな気持ちで共に暮らして、肩を並べて歩いているのか。
 贄の血を宿している自分が鬼の餌食になりやすい者だと分かりながらも、戦おうとする皓弥を補助するのがどれほど難しいことか。それでも止めない那智の温情がどれほどのものか。
 この人は知らない。
 それなのに那智を侮辱する男に、つい瞳を尖らせてしまう。
 睨み付けられた医者は困ったような顔をしては、それまでの淡々とした雰囲気を弱めた。
「失礼。決して貴方たちを侮辱しているわけではないのです。ただ人間のように心配して、怪我をしないように那智を気遣ってやるこは、少し違うのだとお伝えしたい。生態が異なる生き物を自分と同じように解釈し、対処することは賢明なことだとは言えません」
(言い方を変えただけで、中身は同じじゃないか!)
 化け物と言わなくなっただけのことだ。多少言葉を砕いたくらいで、先ほどの侮辱をなかったことにして忘れてやるほど皓弥は優しくはない。
「那智には那智のやり方、病気や怪我との付き合い方があります」
「余計なことは言うなということですね」
「そこまでは言いません」
 刺々しい返事に、藤堂が苦笑いを浮かべている。子どもの癇癪を目にしたような態度に腹立たしい気持ちが半分、決まりの悪さが半分だった。
 こんな当てつけを口にするのは、やはり見苦しいと自分でも分かっているのだ。
 けれど止め方が分からない。
「那智は心配されることをきっと嬉しいと思っています。貴方の優しさを感じることが出来て、喜びもあるでしょう。だがそれが正しいかどうかはまた別の問題です」
 感情だけに振り回されてはいけないのだと、二回り以上年上の藤堂は説いてくる。肝心な時ほど理性を捨ててはいけない、冷静に考えることが肝心であることは皓弥も思い知ってはいるけれど、どうしても苛立ちがくすぶっている。
「差し出がましいことを言っているのは分かっています。ですが貴方は刀を持つ主だ。知っておいて貰いたかったのです」
 刀との付き合い方が、人間とは別にあるのだ。それを皓弥はまだちゃんと理解していないように見えるらしい。
(…………この人も那智の親戚だから、きっと刀については詳しいんだろう)
 だからちゃんと意見として聞かなければいけない。
 那智のことも、本人が言ったとおりの内容を伝えてくれている。嘘かどうかは、これからの怪我の経過を観察していれば明らかになっていくことだ。
 ご忠告感謝しますと、有り難う御座いますと、頭を下げるところかも知れない。
 もし本当にこちらのことを思って言ってくれたのだとすれば、礼儀を正すのが大人としてのあるべき姿だと知りながら。皓弥はどうしても声を出せなかった。
 藤堂の言っていることに従えないという気持ちしかないからだろう。
 黙って頭を下げるのが限界だった。
「すみません。ご気分を害されましたね」
 藤堂はそんな皓弥を咎めるどころか、慰めるような声でいたわってくれる。優しさが滲んでいる分だけ、自分の心の狭さや頑なさを思い知らされるようだった。
(でも俺は自分が間違っていると、思えない)
 自分と同じものとして扱うなと言われるのが、やはり嫌だった。
 たとえ診察室にいるだろう那智が同様のことを言ったとしても、きっと首を振った。
 正しくない主を彼らはどう見るのだろうか。










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