壱




 
 仕事で鬼を切り捨てて、安堵しているところだった。
 女の鬼は一見人間そのものの姿をしていた。人波に紛れても分からないだろう外見を利用して随分喰い散らかしてようだ。
 けれどその人間に見える姿も、皓弥と目が合った途端に破れた。唇は耳元まで裂けて、眼球は真っ赤になっては迫り出した。獣のように堅い毛皮を纏った手、指先にはかぎ爪が生えており、皓弥の身体を八つ裂きにすることしか頭にないようだった。
 どれほど理性を保とうとしても、贄を前にすれば鬼はみんな食欲だけに囚われる。剥き出しの本能に従って襲いかかってくる。
 分かりきっていたその行動に、落ち着いて対処も出来た。警戒して身構えていれば、少しでも安全に、確実に鬼を殺せるようになるということは学んでいる。
(ひやひやすることに違いはないが。少しずつ手際良くもなってきてる、と思う)
 仕事として鬼を切り始めてから場数を踏んでいる。刀である那智に助けられることも多々あるが、それでも自分なりに鬼を殺す術が身についてきているのだと実感していた。
「喉渇いた……」
 鬼を斬り落とし、刀を那智の中に収めて、二人並んでだらだらと帰る道。線路伝いに歩いているのだが、午前三時にもなると電車は勿論通らず、住宅も少し離れたところに建っているおかげで周囲は静かなものだ。畑や工場が続く道路では人気などあるわけがない。
 コンビニなどまして望めず、鬼を追いかけ、一戦交えた身体が喉の渇きを訴えても簡単に水分補給は出来そうもなかった。
「飲み物を持って来れば良かった」
「まさか二時間近くも鬼を探し回るとは思わなかったからな」
 この辺りに住んでいるのではないか、という情報を元にふらふらしていたのだが。皓弥の勘が鈍っていたのか、鬼が潜伏能力に長けていたのか、なかなか見付からなかった。
「あ、自動販売機。那智も何か飲むか?」
「俺は平気だよ」
 脇道に明るい光を放っている物があり、ちらりと横目で見ると自動販売機だった。コンビニはなくとも自動販売機の需要はあるのだろう。
 幸いとばかりに動きやすさを重視したボディバッグから財布を取り出して小銭を入れようとした。そこでふと、二つ並んでいる自動販売機の向こう側に、何かが見えた。
 皓弥が立っている側ではなく、その隣の自動販売機に隠れるようにして何かがいる。全身の毛が逆立つような警戒心が煽られたのだが、顔を覗かせたのは小さな子どもだった。
 幼稚園児くらいの女の子だ。きょとんとして皓弥を見上げている。
 深夜三時に、こんな小さな女の子が一人で何をしているのか。
 着ている服も薄汚れている。もしかして家から追い出されたのかも知れない。
(違う!)
 目が合った途端、その闇を流し込んだような虚ろな瞳にただの子どもではないことを悟った。
「皓弥!」
 少し離れたところにいた那智が叫ぶ。
 それを合図にしていたかのように、子どもの口が裂けた。それまで顔面があった場所が全て口に成り果てたように、顎の関節を無視したその開きは、間違いなく鬼のものだ。
 後ろに下がろうとしたが、小さな鬼の跳躍は皓弥の速さを上回る。
「っ!」
 鬼の牙が皮膚に刺さる覚悟をした。けれど鬼が喰らい付いたのは、皓弥ではなかった。
 那智が自分の腕を差し出し、鬼に噛ませたのだ。
「まがい物が」
 那智はそう罵っては右手から小刀を生みだしては、鬼の首を切り落とした。胴体は地面に転がって手足をバタバタと動かしたのだが、それを那智は足で踏みつける。
 左腕に噛み付いた頭は、那智が手を振るとするりと落ちては白く固まり、灰になって消えていった。
「那智!」
「平気だよ」
「そんなわけあるか!」
 那智は小刀ではなく、改めて長さのある刀を引き抜いては鬼の胴体に突き刺した。動いていた手足は痙攣してすぐに頭と同じように朽ちていく。
 だが皓弥にとってみれば鬼の末路よりも、那智の左腕から滴っている血の方が重大だった。はっきりと付いた鬼の歯形は到底人間のものではなく、鮫のように幾重も重なった鋭い歯に噛み付かれたようだった。
「とりあえず止血を!」
 バッグからガーゼと包帯を取り出しては少しきつめに巻き付ける。止血の意味を込めているのだが、ガーゼどころか包帯にまであっという間に血が滲んでいく。
「たぶん、さっきの鬼が子どもに吸い付くだけでなく自分の血を混ぜて鬼にしたんだろう。ごく希にそういうことする鬼がいる。あの鬼が子どもを連れているという目撃情報もあったけど、食料として連れているんだと思っていた。意外と残していたね」
「暢気に喋っている場合かよ!」
 もしかすると縫合が必要なほど深いのではないか。焦る皓弥とは反対に、那智は怪我をしている手を心臓の位置よりも高く上げては平然としている。痛みがあるだろうに、その顔は涼しいままだ。
「医者に行くぞ!」
「いらないよ」
「そんなわけないだろ!」
「ほうっておいたらすぐに止まるから」
「そんな浅いもんじゃない!馬鹿なこと言うなよ!」
 これまで皓弥は大怪我というものをしてこなかった。血を流すということは贄の血の香りを振りまくということだ。自分の存在自体が誘蛾灯のようなものだというのに、血の香りまで漂わせては大声で自分の存在を主張する羽目になる。
 生きていくためには、血を流してはいけない。
 それが子どもの頃から皓弥にすり込まれている教えだ。
 そのため那智の怪我の具合がどれほど深刻なのかは、はっきりとは分からない。それでも放置すれば簡単に塞がる状態でないことは、血の量からして察せられる。
「救急病院にでも行こう!」
「こんな傷口を見せて、何て言うの?」
 この世のどんな生き物であったのならば、この傷口の説明が出来るのか。苦笑している那智に、言葉が詰まった。
「記憶がありませんとか、なんとか誤魔化せよ!このまま放置したら傷もそうだけど、破傷風とか狂犬病とかになるかも知れないだろ!あの鬼が伝染病を持ってたらどうすんだ!」
 怪我だけではない。鬼がどんな病を保持しているのか分からない。
 元々は人間だったと思われる者だ。伝染病に犯されていて、傷口からそれが那智の身体に回る可能性はゼロではないはずだ。
 そう説得する皓弥に、那智は宥めるように笑んだ。その穏やかさが一層皓弥を苛立たせるということを理解出来ないのだろうか。
「皓弥、忘れたの?俺は刀だよ。鬼に触れたところから喰い殺す」
「でも!」
「あの鬼も、俺に喰い付いたところから朽ちて灰になっていただろう?傷は負ったけど、鬼の血や体液が俺の中に入って来ることない。そうなる前に全部喰ってしまえる」
 伝染病だろうが何であろうが、那智の血に混ざることは出来ないのだろう。そのことにはほっとしたけれど、那智の腕に巻かれている包帯は喋っている間も、血の色をどんどん滲ませていく。
「病気については分かったから。とにかく傷をなんとかしないと」
「とりあえず帰ろう。ここで騒いじゃいけない」
 那智はそう言っては皓弥の背中に触れてはそっと押してくる。それは間違いなく皓弥を落ち着かせようとしている動作だ。
(反対だろう。那智が気遣われるべき立場なのに!)
「那智、やっぱり」
「いいから」
 那智は皓弥がそれ以上喋らないように早足で歩き出す。それが那智の痛みを表しているようで、それ以上食い下がれなかった。



 自宅に戻ると那智は救急箱から新しくガーゼや包帯を取り出しては処置を始める。片手ではやりづらいだろうと皓弥も手伝うのだが、所詮素人がやっていることだ。水道水で洗われた傷口は、皓弥に深さ改めて見せ付けるものであり、自然に治るなんて考えは即座に捨てられた。
(噛み付かれたから傷口も上下二カ所だしな)
 挟み込むような傷は筋肉繊維をどれほど切断していることか。那智は左腕をさして苦でもないと言うように動かしているのだが、痛みだけでなく後遺症に繋がる違和感などもあるのではないか。
「今から診察してくれる医者を探すから」
「大丈夫だって」
「どう見ても放って置いてどうにかなるような怪我じゃないだろ。血も止まらない」
「俺は血の気が多いから」
 那智は戯けてみせるけれど、ガーゼを貼り付けてもすぐに駄目になってしまうような出血量で、よくそんなことが言えるものだ。
「傷口もちゃんと塞がる。俺は人間じゃないんだから」
 刀は人とは違う。体内から刃物が出てくるような人種であり、運動能力も桁外れに優れていることは、これまでにも見せてくれている。
 だが怪我を治すような能力までちゃんとあるかどうかなんて、知らない。
(那智がこんな怪我を負うなんて)
 鬼と対峙している時も、那智は堂々として常に余裕を滲ませていた。そしてその余裕を裏切ることなく、危うさのない戦いが出来る男なのだ。
(俺さえいなければ!)
 怪我を負うことなんて決して無い、それだけの力がある者だ。
 なのにこんな目に遭わせてしまった。
「俺は人間よりずっと頑丈で、治るのも早いから。だから心配しないで」
「無茶言うなよ」
 こんな状態で、誰が安心していられるのか。じっとしているのももどかしくて救急車を呼びたい衝動をぐっと堪えているのに。
「このままでも、傷痕が残らないくらいに綺麗に完治する」
「嘘だ」
「本当だよ。人間なら無理でも俺は出来る」
 そう言いながら那智は包帯が巻かれた左腕を軽く振った。そんなことをするなと思うのだが、本人はあまりにもけろりとしている。
「それより皓弥。子どもだからって油断しただろ」
「………した」
 何故こんなことになったのか。失態を注意されては肩を落として小さく答えた。
 生きている間にこの世の全てを呪うようにして憎悪を募らせた人間が、鬼に成り果てる。身体が変わってしまうほどの憎しみというのは、簡単には積み重ねられない。なので子どもの鬼というのは滅多にいない。
 まして幼稚園児くらいの年で鬼に成り果てる者は存在しないだろう。天然の鬼ならば可能性はあるけれど、あの距離にいて天然の鬼に気が付かないわけがないのだ。威圧感がただの鬼とは比べものにならない。
 だからあの時、普通の子どもだろうと思い込んでしまった。
 鬼に喰われて強制的に変化させられた者だと見破れなかった。
「駄目だよ。鬼の近くにいた者は何であっても警戒しなきゃ」
「……悪い。俺、たぶん薄々勘付いてたんだ。なんかおかしい気配だって。でも子どもの見た目に振り回された」
 この身体を渇望する気配は、ちゃんと伝わって来ていたはずなのに。視覚に惑わされてしまった。あの時、先入観を持たずにいられたのならば那智に庇われることもなかった。
「おまえが傷付いたのは、俺のせいだ」
「それは別にいいんだけど」
「良くないだろ」
「いいんだよ。皓弥には傷が付かなかったし、一つ勉強にもなった」
 皓弥が無事であり、鬼と戦う際にどう対処すれば良いのかという判断が増えた。それで十分だと言うような那智に、申し訳なさよりも次第に苛立ちが強くなっていく。
「全然良くない。相当痛むくせに何言ってんだよ」
「そんなに痛くないよ。痛みには鈍いんだ」
 体感など本人にしか分からない。なのであっさりそう言われると、否定は出来ないのだが。その傷の大きさと深さなのだから、もし自分が那智の状態ならば鎮痛剤がなければ呻き声を上げて藻掻いているのではないだろうか。
「那智。自然治癒に頼るつもりじゃないだろうな……」
 放って置いても傷は塞がる。痛みも薄い。大丈夫と繰り返す人に、本気でそんなことを思っているのかと睨み付けながら問いかける。すると那智は肩をすくめた。
「それは皓弥が許さないみたいだから、明日親戚の医者に診せることにする」
「明日まで待つつもりかよ」
 那智の言っている親戚の医者が、どこの誰かは知らない。だが医療機関が診察を始めるのは大抵午前九時頃ではないだろうか。現在は午前四時。後五時間もこのまま放置するつもりなのか。
「待つよ。だからそれまで寝よう」
「寝るって!」
「眠くない?もう四時なのに」
「眠いわけがないだろうが!」
 傷口は開いたまま流血は止まらないというのに、怪我人は大して何の処置もせずに放置しているのだ。気が気ではなく、眠気が訪れるどころか不安と心配で脈拍がいつもよりもずっと早い。興奮状態と言える皓弥にとって、睡眠という選択肢はなかった。
「そうか。でも俺は眠いよ」
 那智が眠気を口にするのは珍しいことだった。大抵皓弥が先に眠いと言い出しては就寝を始める。
(怪我をして、身体が疲れてる?)
 ならば下手に起こしておくのも良くないのかも知れない。
 だがこの怪我で寝るというのは、果たして正しい判断なのか。出血で意識がぼんやりとして、それが眠気に変換されているのでは。
 様々な可能性が頭を駆け巡る皓弥の前で、那智は軽々と寝るのに適しているゆったりとした服に着替える。左腕を動かすことに躊躇いがない。
「本気か」
「そうだよ。安静にしておく意味でもね」
 安静という言葉に、那智の意見に気持ちが傾いていく。
 皓弥がいないと落ち着かないと言われて、ベッドに招かれてはいつものように二人で横たわった。
 驚いたことに那智は本当に寝た。あれほどの怪我を負っていれば激痛で眠れないものでは、と予想した皓弥をあまりにも簡単に裏切ってくれる人に唖然とさせられる。
(こいつ、本当に痛みに鈍いのかも知れない……)
 だが普段ならば自分に回される腕が今日はさすがに回されていないことが、罪悪感と不安を抱かせた。










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