八




 
 再会に安堵している親子の元に昇司が足を踏み出した。
 その手には刀が握られている。鬼を斬り殺すための刃だ。
 那智のものに似たそれはいとも容易く鬼を喰うことだろう。
 ありありと想像が出来て、皓弥はつい「あっ」と声を零してしまった。
 何を意図としていたのか自分でも把握出来ていない。けれど明らかに焦りが滲んだであろう声音に昇司が振り返る。
 冷静な瞳に晒されて、皓弥は後ろめたくなって視線を逸らしてしまった。
 自分が何を言えばいいのか分からなかった。
 そもそも口出しを出来る立場でもない。
 だが気持ちとしては、昇司の手を止めたいと思ってしまったのだ。そんなことをしても意味がないと分かり切っているはずなのに、目の前で親子が斬られることに抵抗を覚え始めている。
(俺は……)
 鬼など一人残らず死ねば良いと願っているはずの人間だ。
 少なくともずっとそう思っていた。
 自身に戸惑っていると昇司は軽く手を振ったようだった。
 視線を戻すと昇司は刀を溶かし、自分の中に納めたようだ。やはり那智と同じように刀はすぐに消えてしまった。
「ここから去れ」
 鬼に昇司がそう吐き捨てる。
 刀はなくなったとは言え、昇司が纏っている威圧感は変わらない。
「出来だけ遠くへ」
 鬼は昇司を見上げて探るような目をする。
 殺し合う覚悟もしていたのかも知れない。
 なので逃げることを勧める言葉に、裏があるのではないかと思案しているようだった。
「今は見逃してやる。だが次に会った時は必ず殺す。ましてこの子に接触するようなことがあれば赤子もろともに消し去ってやる」
 この子という際に昇司は皓弥を見た。
 どうしても守らなければいけない。そんな意志を感じて、更に後ろめたくなる。
 守ろうとするのならば不安材料は塵一つ残してはいけない。那智も自分が傍らから離れることを危険だと判断し、万が一を恐れてここに皓弥を預けている。
 本気で保護することは、時として本人の意志をも曲げてしまおうとするものだろう。けれど昇司は皓弥の気持ちを汲み取って、あえて手間のかかることをしてくれているのだ。
 止めて欲しいとすら、言わなかったのに。
「分かったのならば早々に去れ。留まることは許さぬ」
 守りたいものを互いに抱えていると察したのか、鬼は昇司に頭を下げるとその場から消え去った。
 おそらく来た時と同じように駆けて行ったのだろう。
 鬼がいなくなったのを確認して、昇司は玄関へと戻ってくる。やれやれというような顔で苦笑していた。
「すみません……」
「何故謝る?」
 頭を下げると昇司は片方の眉を上げた。
「斬った方が良かったからです」
 鬼などこの世に残していても害にしかならない。まして赤子もいたのだ。
 あの赤子もまだ力が付いていない、無力なままで殺しておけば手間もかからずに始末出来る。
「けれど君は斬りたくなかった」
「……はい」
 無用な情だ。憐憫など鬼にかけるものではない。
 そして皓弥自身も、あの時抱いた抵抗感は哀れみではないのだと分かっていた。
 もっと別の、感情だ。
「ならばそれでいい」
「ですが、俺は守って貰ってる立場なのに。鬼を生かそうとするなんて」
 それでは昇司や春奈が苦労する意味がない。
 温情を踏みにじっているようなものだ。それが分かったから、皓弥は制止を声に出せなかった。
「構わんさ。あの程度の鬼、野放しにしたところで君の安全が脅かされる筈もない。それに、君の気持ちも分かるような気がする」
 昇司は苦笑を深めた。業腹だが、とそこに付け加えられるような気がした。
「春奈ならまして、だろう」
 話の矛先を振られ、春奈はしっかりと頷いた。
「私は正直、皓弥君に感謝しているくらいです。私もあまり斬りたくはなかった」
「春奈さんも」
「はい。鬼と分かっていても」
 それは子どもを産んだことがあるからだろうか。
 あの必死になって自分の子どもしか見えないという姿の鬼に、自分の思いが重なったのだろうか。
 那智を産み育てた人だ。那智は一人で生まれて生きているみたいな顔をしているけれど、幼児の頃は春奈に頼っていたはずだ。
 あの赤子は鬼だ。人間でも刀でもない。けれど母親を求める様は変わりなかったのだ。
「鬼にも、情はあるんですね」
 どんな風に生まれ、どんな風に鬼が生きているのかは知らない。興味もなかった。
 獣のような鬼たちは食欲しかない、壊れたものたちだとばかり思っていた。
(……そういえば京都の鬼は、恋をするって言ってた)
 とても人間に近く、だが圧倒的な違いを持つ京都に生きる鬼は感情どころか恋愛すら知っていると言っていなかったか。
「あの、以前京都の鬼は人と恋をして、子を産むと聞きました。そういうところは人間と同じなんですね」
「天然であるあれらは別格な生き物だよ。かと言ってあれらに哀れみの情など持つ必要はない」
 昇司はそう言い聞かせてくる。今回は特別に許したけれど、次はないのだと諭しているようだ。
 きっと蓮城家のある土地だから、昇司と春奈がいるから許されたことであり。これが別の土地で、皓弥しかいなければ決して心を緩めていけないと教えているのだろう。
「分かっています。大丈夫です」
 今だけ、これだけ。
 自分にもそう言い聞かせる。
 同時にぎゅっと赤子を抱きかかえたあの様は、もう二度と見たくない。
「……親子で、生きていくんでしょうか」
 あの様子ではちゃんと母親が子を育てるように思えた。
「母親が異形ではないので、きっと人に紛れて生きていくでしょう」
「そうですか……。もう決して会いたくないです」
 鬼に遭いたくないと思ったことは山ほどあるけれど、互いのために遭いたくないと思うのはこれが初めてではないだろうか。
 斬るのを躊躇いはしない。それは生きていくためだから。
 だが脳裏に子を取り戻した安堵の表情を蘇らせるのは、多少心が痛んだ。



 昨日から昇司の家には来客が多い。
 元々人がよく尋ねてくる家なのかも知れないが、今朝方から次々に続く客人に春奈の笑顔にどこか黒いものが混ざり始めていた。
 あまり歓迎出来ることではないらしい。
 部外者である皓弥が口出しをするようなことでもなく、客人は一人残らず玄関先で用事を済ませているようで奥にも入ってこない。
 おかげでインターホンの音しか聞かず、有り難いと言えば有り難かった。
 知らない人とここで接触しても、皓弥はどう対処して良いのか分からないからだ。
 客人が途切れた隙を狙うかのように春奈と買い物に行った。
 だが寄り道をすることもなく、二人とも大人しく帰宅した。
 ショッピングモールなんて行った日には、あの赤子を捜してしまいそうだったからだ。きっと春奈もそんな風に感じていたのだろう。
 午後からは大人しく部屋で本を読んでいた。活動的に性格なら退屈で仕方がないだろうが、あいにくこうしている方が性に合っている。
 那智からは今晩帰るとメールを貰っている。
 あの鬼がやってきた後、寝る前に那智と携帯電話で話をしたけれど、この気持ちをどう表していいのか分からず曖昧に濁してしまった。
 何が起こったのかはちゃんと一通り説明はしたのだが。どうして斬らなかったのか、という理由は自分でも上手く言葉に出来なくて、尻つぼみになった。
 那智に尋ねられるだろうと思ったけれど、意外にも「そう」という落ち着いた声音が帰って来ただけだった。
 言葉にならないのならば、無理に作り出すことはないのだと囁くような音。
 それはベッドの中で、腕に包まれながら与えられるものだった。
 その時皓弥は無性に許されたような気持ちになった。安心を、感じられたのだ。
 だが機械を通して声だけで聞いても、切なさが増しただけだった。
 出会う前までは一人きり、膝を抱えて自分を抑え込んでいた。感情を封じ込めて、自分で整理出来ないことがあっても、目を逸らすことが出来た。
 それなのに今は一人でそれを行うことが出来なくなっていた。
 一人で横たわることが心許ない。
 これでは那智の思う壺だ。
 だが頭の中では那智が帰ってきたら何から話そうかと考えていた。
 家族の帰りを待ちわびている子どものようだ。
 恥ずかしさと悔しさ、そして寂しさを味わいながら眠りに就いた。
 それは今日で終わりになる予定だ。
 だが那智は晩飯の時間になっても帰って来ることがなく、皓弥だけでなく昇司や春奈まで怪訝な顔で首を傾げ始めた頃。
 時計の針が十時を回ってようやく門ががしゃんと開けられる気配が庭から伝わってきた。
 居間に揃っていた三人が顔を見合わせる。
「どうやら帰って来たようだな」
 昇司が立ち上がるのを合図に、三人が玄関に向かうと丁度格子戸が開けられたところだった。
 眉間に皺を寄せて不機嫌そうな那智は、廊下に皓弥が立っているのを見ると途端に笑顔を見せた。
「皓弥!ただいま!」
 肩にかけてあった、旅行鞄を三和土に投げ捨て、那智が靴を脱いで上がって来る。
 飼い主に再会した犬のような反応だ。
 自分もきっと那智に会ったら嬉しそうな顔をするのだろうと思っていたけれど、今の那智ほどではない。
 先に喜色を突き付けられると、人間はどうしていいのか迷うものらしい。
「おかえり」
 とりあえずそう言うと那智が両手を広げる。
 ああ抱き締められるな、と思った。仕方ないのでそれを受け入れるか、しかし家族の前だろうに、と躊躇いを覚えていると皓弥より先にそれを制した手があった。
「った、何すんだよジジイ」
 那智の手を昇司は手早くはたき落とし、顎で洗面所へと続く道を指した。
「手洗いうがい」
 まるで小学生のような扱いだ。これには那智も怒るだろうと思ったのだが、不思議なことに大人しく従ったようだった。顔は大変不満そうだったのだが、筋が通っていると思ったのだろう。
「どうだった?」
「暇だったよ」
 洗面所からさっさと帰って来た那智にそう話しかけると、肩をすくめてそう言われた。
 ゼミ合宿というものが何をしているところなのか、皓弥はよく知らない。
 だが那智は大学では研究、他の時間は家事などを一身に背負っているので、家事をせずに済む日というのは暇だと思うのかも知れない。
 この男は家事に関してかなりまめなのだ。
「楽しかったか?」
「毎日毒を吐き続けてもめげない奴らがいっそ恐ろしかった」
 真顔でそう返ってきて、皓弥は思わず吹いてしまった。
 やはり那智が属しているゼミの人々は逞しいのだ。
 そしてくだらなかったと断言していないところから察するに、きっと那智なりに楽しかったのだろう。
(やっぱり、行って貰って良かった)
 自分以外との時間も、そんなに悪くないのだと感じて貰えたのなら。この三日間はとても意味があったはずだ。
 そう皓弥は一人満足感を覚えた。



 


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