九




 
 洗面所で手洗いうがいを済ませたのだから、と言うように那智は皓弥を一度抱き締めると「帰ろうか」と清々しいまでの笑顔で告げた。
「え、帰るの?」
「うん。帰るよ」
「……え」
 帰るものだと思い込んでいる那智の姿に、皓弥はどうしたものかと迷う。
 その反応に那智は怪訝そうな目をした。
「何か?」
「いや、春奈さんが月見でもって。今日は満月だし、雲もないから綺麗に見えるはずだから、用意してくれてて」
 那智がなかなか帰って来ないので、春奈は月見でもしましょうと言って団子などを準備してくれたのだ。
 那智が帰ってきたら、自宅に戻りたがるかも知れないとは思ったけれど。時間が時間だった。
 十時も過ぎたのならば、疲れているだろうし泊まっていくかも知れないと考えたのだ。
「おまえも疲れてるだろ?」
「疲れてはないけど。一泊するの?」
 合宿なんてものをした帰りは、へとへとになっているのが普通だと思っていたのだが。那智は平然といつも通りの顔をしていた。
 そういえば基礎体力が皓弥とは比較にならない相手だった。
「泊まって行って下さい。もう夜も遅いですから」
 春奈が皓弥に向かってそう進言してくれる。
 団子もすでに作り終わっていることを思うと、いえ帰りますなんて言えるはずもなかった。
「ついでに洗濯物もしちゃいましょう。那智、荷物持ってらっしゃい。皓弥君も」
「いえ、あの俺は」
「皓弥君ったら遠慮して洗濯させてくれないのよ」
 息子である那智は促されるまま、荷物を春奈に渡していた。だが客人である皓弥はそうはいかない。
 実はここに泊まったその日から洗濯物を出して欲しい、と言われていたのだ。だが食事やら何やらの世話になっているのに、この上洗濯までさせるわけにはいかないと固辞していたのだ。
 それを春奈は気にしていたのだろう。
「那智のついで、ですから。お月見をしている間に終わりますよ」
 ほらほらと急かされて、皓弥は渋々与えられた部屋から洗濯物を持って春奈に渡した。
 一泊分くらいの衣服は余分に持って来ているので、支障はない。
「こっちは涼しいな」
 月見だと言われ、居間の障子を開け放って庭を眺める。
 照明を消して、少し離れた場所に置いてある行灯だけが朧気に部屋を照らしていた。
 昇司は二人と距離を取るようにして、座椅子に腰を下ろしていた。孫の邪魔はしないと、態度で示しているようだ。
 春奈も同じく父の傍らに座っており、二人の会話に耳を傾けているようだった。
 配慮して貰っているな、という申し訳なさはあったのだが。きっと三日ぶりに帰ってきて那智のためだろうと思うと、皓弥が口出しすることではない。
「そうだね。田舎だからね」
 那智は軽くそう言ったけれど、田舎と言うほど人気がないわけではない。単純に山が近いのだろう。
「皓弥はどうだった?」
 縁側に座り、那智は柔らかな表情で皓弥を見ている。
 視線だけで真綿に包まれているような感覚を覚えては、やはり安心してしまった。
「すごく良くして貰った。申し訳がないくらい」
 那智の主、というのは彼らにとってはとても大切な存在なのかも知れないけれど。皓弥はただの大学生だ。
 それだけの価値しか持っていない。なのに歓迎されて、あれこれ世話をして貰って、小さくなるくらいしか出来なかった。
「それは言わなくても良いことだろう?」
「私たちは好きでやってますから」
 皓弥が罪悪感すら覚えて喋ったことに、後ろにいた二人がそれぞれ否定を返してくれる。
 その心遣いもまた、申し訳なさが込み上げてくるものだった。
 けれど謝ると、また気を遣わせてしまう。それに彼らが聞きたいのはごめんなさいではないのだろう。
「すごく、居心地が良くて。嬉しかったです」
 来て良かったと心から思った。
 ここでしか味わえない空気は、皓弥にとっては優しくて喜びに繋がるものだった。
「それは良かった」
 自分がかつて暮らした場所、そして家族を皓弥が気に入ったのが嬉しいのか。那智も微笑んでいる。
「色々あったみたいだね」
「ん…まあ」
 那智が言う色々というのは、鬼のことを含んでいるのだろう。
 あの親子がどこに言ったのか、何を思っているのは分からない。そして自分の思いもまだ、複雑だった。
「ここには色んな人も来てたし。誰にも会うことはなかったけど」
 あえて鬼のことではなく、全く別のことを口にすると那智の眉が寄った。
「色んな人?」
「お客さんがよく来る家なんだな、ここ。普段うちには来ないだろ?だからちょっと新鮮だった」
「……普段客なんて来ないよ」
 那智の声が低くなり、どういうことだと言うように背後を振り返った。
 そこには渋い顔の昇司と苦笑している春奈がいる。
「主見たさに親戚が寄って来よった」
「全て玄関で払いのけましたよ」
(……なんだそれ)
 主見たさなんて、考えもつかなかった。インターホンが鳴っていたのは皓弥を一目見ようとしていたからか。
 昇司のために来ているとしか思わなかった。
「見世物……」
 どこから情報が漏れたのかは知らないけれど、まるで動物園のパンダのような状態になっていたというのか。
 見たところで何も面白いことはないというのに。蓮城の親戚とは一体何を想像していたのか。
(変な期待とかされてんのか?見た目がいいとか、何か特別なところがあるだとか)
 平凡なただの人間だと分かれば、落胆されるのだろうか。しかし凡庸なのは皓弥のせいではない。
 昇司と春奈が防いでくれたことに心底感謝しながらも、主とはそれほど注目されるものなのかと画然とする。
「鬼も来たんだろう?」
「おまえ流そうとしているな?」
「確か赤子を取り戻しに来たって」
 力業で見世物になりかけていた話を那智が流していく。
 食いついたところで那智がどうにか出来る問題でもないので、仕方なくその話題に載ってもいいけれど。後で自分がどう思われているのか説明して貰った方がいいかも知れない。
「来たよ。昨日も話したけど、人間の女の方が赤ちゃんを奪ってたんだ」
 鬼に自分の赤ちゃんを狙われているなんて真っ赤な嘘だった。それどころか自分が攫っていたのだ。
 赤子を人質にして、取り返しに来る鬼を昇司に斬らせるため。
「おまえ、鬼の赤ちゃんの母親が人間だって言った時反応がちょっと変だったけど、知ってたんだな」
 人間が鬼の子どもを産むことが出来ないのだと、那智は知っていたはずだ。だから妙だと零した。
 昇司も同じだ。
 だが彼らはその異様な部分を指摘しなかった。おそらく、皓弥が深く疑問を持たないように、と思ったのだろう。
 無駄に首を突っ込んで危険に晒されては困る、そう考えたはずだ。
「まあね。でも関わらなければそんなことは知る必要もないことだし。珍しいからね」
 鬼が鬼を生み出すことはそうないことだと昇司も言っていた。なのでいくら鬼に関わる人生だったとしても、知らずに生きていくことは自然だったのかも知れない。
 しかし自分の知らないことがまだまだたくさんあるのだと、皓弥は頭上を仰いで息を吐いた。
 満月は明るく、藍色の空が今宵はどこか淡いように見えた。
 風も涼しくこのまま横になって眠ってしまいたいくらいだ。
「……赤ちゃんを取り戻そうとして、母親だった鬼は女の人を殺したんだ。一瞬で八つ裂きにした」
 決して弱くない鬼だった。
 そして人間の身体が分断されたという事実は衝撃的であり、皓弥の目に残酷な光景として映るはずだった。
 きっと何も知らずにあの場面だけを見たのなら頭に血が上ったことだろう。
「でも恐ろしいことなのに、赤ちゃんを抱いてる鬼はすごく必死で。気付いたら昇司さんを止めてた」
 あの時のことを語る皓弥を、那智は黙って聞いてくれていた。
 視線を感じながらも、顔を向けることは何故か出来なくてずっと金色の光を見上げていた。
 鬼の背中を照らしていた月はもう少しばかり欠けていたことだろう。だが見た覚えがない。
「斬った方がいいのに。どんなことしたって鬼なのに、俺は斬れなかった……」
 どんな鬼だって殺した方が良いと知っていた。そして那智だってきっと同じことを言う。
 だから責められるかも知れないと思いながら、自分の気持ちを紡いでいた。ぐちゃぐちゃになりそうなこの胸の内を、那智に見て欲しいと思った。
 たぶん那智がその場にいなかったからだろう。
 那智ならどうしただろうかと、気になった。
「母親に見えたんだ」
 子どもを守ることに精一杯の、一人の母親だった。
 人でも鬼でもなく、母親なのだと。
「皓弥の?」
(……そう、か)
 那智の言ったことに皓弥は目を見開いた。そして唐突に深く納得した。
 どうしてもあの鬼を斬れなかった理由。それは皓弥の目にはそれが自分の母親のように思えたからだ。
 人とは少しばかり異なる血を持った皓弥を、必死になって鬼から守っていた母親。その身を挺して戦ってくれていた姿にそっくりだった。
「俺もあんな風に必死になって守って貰った」
 ただの人間とは違い、どこに行っても鬼に狙われて、命が奪われる恐ろしさを抱えていた。正直何度だって自分の人生を恨んだ。だがそれでも自暴自棄になって荒れることもなく、また自分の身体を無下にすることもなく生きてきたのは、この辛さも苦しさも母親が共に背負ってくれたからだ。
 自分一人が不幸面をして生きるには、皓弥はあまりに大事に守られていた。
「命がけで、守ってくれてたから」
 不意に母親の顔、手、背中が思い出されては目の奥がじわりと潤む。
 母に似ているものを傷付けることは、どうしても出来ない。それが皓弥の思慕なのだろう。
「二人きりで生きてきたんだね」
「ああ……」
 泣きたくなる気持ちを感じ取ってくれているのか、那智の声が一層柔和になった。
 そして手が伸びてきては皓弥の後頭部をそっと包んでは引き寄せてくれた。
 那智の肩に頭を寄せると、体温がじかに伝わってくる。
「寂しい?」
 単純な問いかけだ。しかし皓弥の口元は緩やかに笑みを作った。
「たぶん、ずっと寂しいよ」
 母親を失う時など、永遠に来ないでいて欲しかった。
 ずっと母には生きていて欲しかった。不可能であると知りながら、感情はそれを望んでいた。
 それが裏切られてしまったのだ。
 大きすぎた存在の喪失は少しずつ薄まっていくだろう、だが完全に消える時なんて来ない。
 胸のどこかにある欠落してしまった虚ろは何を詰めたところで、満ち足りることはないのだ。
「埋められないのが、悔しいけど」
 那智は本当に悔しいと思っているのだろう。囁く声はやや沈んでいた。
 しかし埋めたいと思ってくれていることが嬉しかった。
「いいんだよ。埋めなくて。これはこれで生きていきたいんだ」
 寂しくても構わないのだ。母親がどれたけ偉大で、そして優しい人だったのか皓弥はこの寂しさで痛感することだろう。
 それが母親に対する敬愛の形でもある。
 痛みでもいいのだ、それだけあの人と一緒に生きていた時間は幸せだったと感じるから。
(寂しいことも俺の記憶の一つだから)
 忘れる必要などないのだ。
 目を伏せて、小さな自分の手を引いてくれた母を思い出し。二人きりだったけれど自分たちは他の誰にも劣ることのない。自慢の家族だった。
 そして肩に寄り添っているこの男も、それに近い存在になっていくのだろう。
「あ、そうだ。おまえ弟がいるんだってな!」
 家族、という単語に皓弥は二日前の情報を思い出して顔を上げた。
 後頭部を包んでいた那智の手が離れていったが、名残惜しそうな肩に触れる。
「あー…いたね」
「なんで言わないんだよ」
 反応の鈍い那智にそう言うと、那智は気まずさの欠片もないように平然と「忘れていた」と昇司が予想したとおりのことを口にする。
「もうずっと会ってないし。生きてんのかな?」
「生きてますよ」
 大変根本的な疑問を春奈が答えてくれる。
 それにふと親や祖父がいたことを思い出して皓弥は腰に回されていた那智の手を剥がす。
 顔が近すぎるのだ。人前であることを失念してしまっていた。気配がないというか、馴染みすぎていたというか。背後の二人は血縁者であるためか那智と雰囲気がよく似ていて警戒しづらいのだ。
(いかん、人前で、まして家族の前でこれは)
 いくらなんでもおかしな関係だと勘付かれかねない。
 内心冷や汗を掻きながらじりっと那智と距離を置いた。
「へぇ、そう」
「おまえ本当に興味がないんだな。自分の弟だろう?」
「そうだけど。あれは人間に近いからね。刀でもないし」
 人間と自分とは違う生き物。共感もしない、関心もない。
 それが那智の基本姿勢ではあったのだが。これほどだとは。
「そういうもんか?俺には兄弟がいないから分からないが」
 今頃何をしているのか。気になる時はないのか。数年に一度くらい顔を見たり、連絡を取ったり、しないものなのだろうか。
 少なくとも大学の友達は、兄弟と電話で話をしたり、正月盆には会いに行ったりしているようだが。
「皓弥に兄弟がいたら興味は持つけどね」
 自分の兄弟ということは血が酷似していることだろう。主としての素質のようなものも分け合っているのかも知れない。主はこの世にたった一人だとは言うけれど、やはり好みに合うというか、気に入ったりするのだろうか。
「俺じゃない兄弟が主になってたかもな」
「それはないね。どれだけ兄弟がいても主は皓弥だ」
 もしもの、仮定の話だ。それでも那智は一つのぶれも許さずに断言する。
 別にそれを期待していたわけではないというのに、自慢げに告げるその台詞にどことなく喜びが湧いてくるのが、自分も存外強欲ということだろうか。
「五、六人いたとしてもぶれたりしないよ。楽しいだろうけどね」
「いいですね。五人、六人」
 那智の想像に春奈が嬉しそうな声を上げた。
「賑やかそうだな」
 昇司までまんざらでもないような相づちを打ってくれるので、皓弥はつい兄弟がたくさんいる光景を考えたのだが。途端に母親の溜息が思い出された。
「いや、あの…母の苦労が忍ばれます」
 贄の血が五、六人もいたら守るのも大変だ。そもそも皓弥の兄弟なら家事能力は極めて低いだろう。きっと母は音を上げたはずだ。
 自分でもぞっとするような家族しか思い描けず、首を振ってしまった。





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