七




 
 こんなところで向かい合っていたら母親はきっとびっくりするだろう。
 皓弥はそう思ったのだが、母親は思ってもみないことを口にした。
「やっぱり」
 何かを確信した声に昇司が溜息をついた。
「当家に何か用ですか」
「お願いがあって来ました」
 何故だと、三人ともがそう考えただろう。
 赤子の泣き声が響き、精神を波立たせる。しかし母親にはそれが聞こえていないかのように、淡々とした様子だ。
 どうしたの、と困惑しながらもあやしていたはずだが。まるで関心を失ったようだった。
「探している相手がいるのでは?」
「それは貴方だったんです」
 おかしなことを言う。昇司が眉を寄せては母親を見据えた。
「父親を捜しているのではなかったかな」
「あの人はもう殺されてます」
 母親ははっきりとそう告げた。昇司を見ているはずなのに、その眼差しは擦り抜けてどこか遠いところへ向けられているようだった。
「では、何故」
 ここに来て、昇司を探していたのか。その子は鬼であり、鬼を喰らう昇司に近付けて良いものではない。
 昨日の夜、昇司が母親に告げた鬼子という単語に驚きながらも否定をしなかった。真実を暴かれて驚愕したようにしか見えなかったのだ。きっと母親はこの子が鬼と知っている。
 なのにどうして連れてくるのか。
「この子を守って頂きたいんです。蓮城さんは鬼を斬る方だと聞きました」
 鬼を斬るのに鬼子を守って欲しいとはどういうことか。
 不思議に思うのは皓弥だけではないだろう。だが昇司はそれ以外の疑問を口にする。
「どこでそれを聞きました?」
「人づてに鬼を退治する人がいると、蓮城というお名前もちらりと聞いてました。ですがここには蓮城さんが他にもいらっしゃって」
 鬼を斬る人間がいる。というのは正しいようで正しくない。
 人づてに漏れるようなものなのだろうかと思ったが、この土地は蓮城の血筋が他にも数件おり何気ないことで零れてしまうものかも知れない。
「蓮城さんの表札があちこちにあって迷っていたのですが、昨夜貴方がこの子を見て鬼子だと仰ったので貴方に間違いないだろうと思って、おうちを探してここまで来ました」
 昇司の特徴をこの辺りで聞いて回ったのかも知れない。
(そこまでして守りたいのは分かるけど。でも鬼なのに)
 何からどうやって守れというのか。
「この子は鬼に狙われているんです」
「鬼子なのに?」
「鬼が私からこの子を奪おうとするんです!」
 泣き続ける子より大きな声で母親が訴える。
 鬼が鬼子を攫いに来る。
(同族だから?奪って自分の元で育てようとするのか?いや、喰うのかも知れない)
 自分と同じ生き物を食べるなんて、本能的には禁忌とされることだ。けれど鬼であるのならばやりかねないと思う。
 あれは喰えるのならば何だって喰うはずだ。
「だがこの子は貴方の子ではないでしょう」
 昇司は当然のことのようにそう言った。
 母親と皓弥のみがそれに対して息を呑み、耳を疑う。
「なんで……」
 無意識の内に皓弥はそんなことを呟いていた。
 ベビーカーを引いて、赤子をあやしている様は母親そのものに見えた。まして自分の子でもない鬼の赤子を大事そうにするなんて、皓弥してみれば信じられないことだ。
 嘘だろう、と思うのだが女は反論しない。ただ唇を噛んでいる。
「鬼が女を孕ませれば、鬼子は母親の腹を裂いて生まれてくる。母親が人間であるならばとうに死んでいなければならない」
 鬼というものがどういう生き物であり、どれだけ残虐なものであるのか。生まれた時から明白なのだ。そしてとても、鬼らしいと感じる。
 人間など彼らにとっては餌であり、道具であり、使い捨てだ。
「だが貴方は生きている。母親であるはずがない」
 昇司の導き出した答えが、それまで母親だと見えていた女を途端に異様な存在に変えた。
 鬼より不気味な、得体の知れない人間になった女はだんっと地面を踏みつけた。
「だとしても、本当なら私が母親になるはずだったんです」
 昇司を睨み付けて憎悪を剥き出しにする様は獣のようだ。
 顔つきが完全に変わっている。
 これは良くないな、と危うさを感じていると女よりずっと鋭いものが遠くから駆けてくるのが分かった。
 近くにいる人間など比ではない震えるような大きく深い歪な気配。
 とっさに短刀を抜いたが、その反応をしたのは皓弥だけではなかった。
 昇司もまた自らの両手を胸の前で合わせた。
 那智が刀を出す時の行動だ。
 離れていく掌の間から柄が生み出される。左手から生えた、黒いそれは右手で引き抜かれると麗しい刀身を月の下に晒した。
 氷のように冷たく、透き通るかのような美しい刀は那智のものと似ている。だがその輝きは目映く、呼吸するように揺らめきを秘めているようだった。冷たい、凍り付きそうな炎がそこに宿っている。
 赤子の泣き声がぴたりと止まった。
 恐怖で引き攣った息がここまで届いてくるようだった。
 どこから何が来るのか。
 身構えていると女の背後にゆらりと何かが現れた。
 唐突にそこに生まれてきたかのようだ。駆け寄ってくる光景すら見えなかった。忽然と出現したのだ。
 生気のない女。まるで幽鬼のように立っているが、その二つの瞳は真っ赤に煮えたぎっていた。
 まるで瞳だけが全くの別物であり、そこだけが生存しているかのようだ。しかも憎悪を引き金にして。
(鬼だ……)
 見たところ瞳の色以外は人間にしか見えない。けれど全身から立ち上っている異様な気配は間違いなく鬼のものに違いない。そして、決して弱くない。
 いつの間にかぴたりと虫の声は止んでおり、自分の息の浅さが耳障りだった。
「赤ちゃん……返して」
 鬼は譫言のようにそう口にする。
 見ている人間の背筋を凍らせるような威圧感を背負っているくせに、その声は弱々しい。
「私の赤ちゃん……」
 一歩踏み出すと女が昇司に背を向けて鬼と向かい合った。
「やっぱり来たのね」
 恐ろしいだろうに、女は口角を上げた。まるで獣の威嚇のようだ。
「奪ったのか」
 鬼が我が子を求める様に、皓弥はあの赤子がどうしてここにいるのかを理解してしまう。
 自然と批難を込めてしまった響きに、女がぎっと睨み付けてきた。
「初めに奪ったのはあいつの方よ!私の旦那を取って殺したのよ!」
 赤子をあやしていた女はどこにもいない。あるのは復讐を完遂しようとしている激情だけだろう。
「あの人この女に取り憑かれてまるで別人みたいになって!最後には事故に見せかけてこの女に殺されたのよ!」
 事故に見せかけて、と言われて皓弥は違和感を覚える。鬼だったのならば事故になど見せかける必要もなく八つ裂きにして喰うだろうに。鬼によって喰い方も異なるとでも言うのか。
「返して……赤ちゃん。お願い」
 ゆらりと鬼は近寄ってこようとする。それに女の顔も引き攣った。
 鬼がどれほど危険なものであるのか肌で感じるのだろう。
 ベビーカーから赤子を持ち上げると、昇司を見る。
「あの女を殺して下さい!鬼を斬れるんでしょう!?このままじゃみんな殺されますよ!?」
 女は鬼の前に立って、死がはっきりと見えるのだろう。
 だから昇司に救いを求め、放置すれば皆殺しにされると訴えている。だが昇司にしてみれば殺されるはずもない。そして鬼と見れば斬るのが道理であろうが、女のしていることに納得もいかないのだろう。
 渋い様子だ。
「……依頼でもない鬼だ」
「お金なら後でいくらでも払います!」
 鬼が人間に脅されているという初めての状況に皓弥も戸惑っているが。昇司にも迷いがあるようだった。
 しかし女には躊躇している時間などない。
「近寄らないで!この子がどうなってもいいの!?」
 赤子を突き付けて、女は鬼を止めようとする。
 鬼は赤子を見ては立ち止まり、またゆらりと身体を揺らした。
「それ以上来たら殺すわよ」
 赤子は自分を持っている人間が何を言っているのか知りもしない。なので母親に向かって両手を伸ばしてあーあーと声を上げていた。
 帰りたいということなのだろう。
「酷い様だ……」
 鬼と言えどもまだ赤子。人間の手でも殺せるのだろう。昇司は女のやっていることに憂いの言葉を零した。
「何が!?あの女は私から何もかも奪ったくせに自分だけ子どもと一緒に幸せになろうだなんて!その方がずっと酷い!」
「お願い…返して……」
「絶対に返さない!」
 赤子を求める鬼の声に、死んでも返すものかと女が叫ぶ。執念がありありと滲んでいるようだ。
「あの女を斬り殺して!鬼なのよ!あの女も、この赤ちゃんも!」
「……鬼を斬るのは役目だが、気が向かんな」
 女は昇司を促すが、刀を持ったまま動こうとはしない。皓弥もまた同じ気持ちだった。
 これは鬼なのだから斬るべきなのだ。だが、皓弥の目には女もまた鬼に見える。
「鬼なのよ!人間を救わないの!?」
 地団駄を踏む女に昇司は嫌気が差したように溜息をついた。
 人間を救うために生きているわけではない。彼らは彼らのために鬼を斬っているのだ。それを皓弥は知っているだけに、昇司の心境が読めるようだった。
 しかし女に分かるはずもない。
 昇司に斬る気がないと分かると、持っていた赤子を高く持ち上げた。
 自分の頭上よりも高く持ち上げたその動作は、次の瞬間力一杯地面に赤子を叩き付けるのだろうと思われた。
(まずいっ)
 アスファルトの堅い感触が脳裏を走る。けれどそれを目にする前に、春奈が皓弥の腕を引き自分の後ろへと下げた。
「ぇ、あ」
 いきなり前に立ち塞がった春奈。身長は皓弥の方が高いので視界は完全に閉ざされることがなく、何が起こったのかその目にすることが出来た。
 女が振り上げた手は下ろされることなく、肘から切断された。
 肘だけではない、
 胴体は斜めに三つほど分断され、顔面にも真一文字に大きな傷が入れられている。
 一瞬の出来事だ。だが辛うじてそれは鬼の手によって行われたことであろうと残像が網膜に映っている。
 女が持っていた赤子の泣き声がして、皓弥は音を頼りに目をやると昇司を挟んで反対側に鬼が立っていた。
 うずくまるようなその体勢は赤子を抱え込んでいるからだろう。
「赤ちゃん……」
 安堵ばかりが滲む声に皓弥はそれが鬼だということも忘れてしまいそうになった。
 皓弥か知っている鬼は、自分を見付ければ欲望だけに囚われた目で凝視してきて、牙や爪をちらつかせて喰らい付いてくる凶暴な生き物だ。
 ただの敵であり、食欲のけだものである。
 けれどその鬼は皓弥が近くにいるにも関わらず、自分の腕の中にある赤子だけを見ている。それが自分の元にいることに安心している。
 抱かれている赤子も「あーぁ、ああ?」と小さな手を伸ばして母に何かを語りかけようとしてた。そして母が呼ぶときゃらきゃらと喜びの声を上げるのだ。
 これが親子なのだと、感じる。
 あの女が抱き上げた時とは違う赤子の表情に、見ている皓弥まで何故かほっとしてしまうようだった。
(鬼なのに……)
 この感情はどうしてなのか、認めたくないけれどそれは情としか言えないものだった。



 


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