六




 
 夜、布団が敷かれた部屋で本を読んでいた。
 寝る前に文字を読むのは習慣だ。
 窓からは涼しい風が入り込んできていてクーラーを稼働させる必要もなく、座椅子に背を預けてゆったりとくつろいでいた。
 完全に高級旅館のような雰囲気だ。
 こんな待遇を受けてしまって良いのだろうかと心配になる。
 庭にいるだろう虫の鳴き声を微かに聞いていると、携帯電話が震えた。
 手にとって見ると那智の名前が表示されている。
「もしもし?」
『皓弥。今大丈夫?』
 通話を始めると、現状は話が出来る状態かどうかを確かめられる。電話のマナーと言われればそれまでなのだが。二十三時を回った頃に通話出来ない理由などあるはずがないと知っているだろうに。
「ああ。問題ない」
『そう。皓弥はどうしてる?』
「本読んでいる。そっちは?」
『酒盛りしてるよ』
 自分の置かれている状況を説明する際、那智は嫌そうな声をした。
 それについ笑ってしまう。
 まるでそれを証明するかのように那智の背後から声を上げて何かを喋っている男の声も届いてきた。
「賑やかだな」
『うるさいだけだ』
 忌々しいと言うように那智は吐き捨て、どうやら移動しているらしい。後ろにあった声が遠ざかっていく。
『皓弥は今日なんかあった?』
 確認され、まるで保護者だと感じた。実際それに近い立場なのだろうが。
「いや……うん」
 どうしようか、と一瞬迷う。
(あったかなかったって言われるとあったけど。でも遠くにいるのに心配させてもなぁ。だが後で教えたら怒るだろうし)
 鬼子のことが頭にちらつく。
 那智は心配するだろう。自分が近くにいない時に、気に病むかも知れない。
 だが黙っていても、後で傷付くかも知れない。ちゃんと教えてくれなかった、と落ち込まれるのも本意ではない。
『何?大丈夫?俺帰った方がいい?』
 語尾を濁って曖昧にしてしまったため、那智は勝手に暴走して不安になったらしい。声音が激変して、皓弥の方が慌ててしまう。
「いや、大丈夫。ちょっと不思議なもんを見ただけ」
『不思議なもんって何?』
「鬼の赤ちゃん。母親は人間なんだけど」
『……へぇ』
 那智が低く唸るように相づちを打った。
(機嫌悪くなった……)
 やっぱり自分がいない時に、と思ったのだろう。気にくわないと明らかに電話越しから雰囲気が伝わってくる。
「春奈さんや昇司さんと一緒だったから、全然問題なかった。相手は赤ちゃんだしな」
 安全だった。危険な事態になることは決してなかった。そう皓弥は主張する。
 何故こんな風に自分に非があり、言い訳をしているような口調になっているのか納得出来ないところだ。
『妙だね』
 那智も昇司と同じことを言う。やはり鬼の赤子自体おかしなものなのか。
「やっぱり珍しいのか?」
『そうだね。珍しい。強い天然って感じでもなかったんでしょう?もしそうなら二人が絶対に殺している』
「うん。京都みたいな恐ろしさはなかったし。まだ生きてると思う」
 昇司か春奈が出掛けて、今頃始末しているというのならば話は別だが。寝る前の挨拶に行くと二人共家にいた。
 寝間着になっていたのでもう出掛けることもないだろう。
『天然じゃなくても、一人で出歩かないでね』
「赤ちゃんだぞ?」
『それでもだよ』
 三人ともが同じことを言う。赤子相手でも決して気を許してはいけない。それは鬼だと。
 皓弥とてそれは理解している。赤子だろうが小動物だろうが何であろうが、鬼は鬼なのだ。ただ母親がついているのにな、というぼんやりとした意識もあった。
「でも鬼が別にいるかも知れない」
『どういうこと?』
「父親を捜しに来たって、母親が言うんだ。だから、この辺りに鬼が潜んでいるかも知れない……」
 今すぐ帰るなんて言い出しませんように、と祈りながらそう話す。
 しかし那智は『へぇ……』と低く呟いただけだった。
 それは昇司がコンビニ帰りに零した響きに似ていた。
「どうした?」
 那智も昇司も何か違和感を感じているかのような反応だ。
 どうしたのかと尋ねるが、それに対する返答は別のものに塞がれた。
『蓮城が電話してる!』『誰!?同居人!?』『顔違くね?どんだけ大事なの!』『いいなぁいいなぁ会いたいなぁどんな子?ねぇねぇ』『俺会ったことあるぜ!普通に男だった!』『男なの!?付き合ってんじゃないの!?』『男でも付き合えるだろ』
 と様々な声と性別が聞こえてくる。一つ残らず間違いないのはみんな酔っ払いということだろう。
『うっせぇんだよ!』
 那智の怒鳴り声が響き渡るのだが、周りはめげずに『蓮城が怒った!怒った怒った!』と騒いでいる。タフな連中だ。
「なぁ、せっかくの合宿なんだし楽しんで来いよ。俺は大丈夫、一人でうろうろしたりしないし」
『そう?約束出来る?』
「出来るよ。だから戻れ」
 みんな那智を待っているのだろう。いつも皓弥が独占しているのだから、たまには別の人が那智に絡んでも良いはずだ。
「おやすみ」
 寝る前の挨拶を、携帯電話で伝えるのは奇妙な感覚だった。いつも間近で、言っているはずの台詞だ。
『……うん。おやすみ』
 聞こえてくる音は耳元で聞こえてきていたもの。しかし電話越しに届いてくるのはどこか切なかった。
 物理的に遠いのだ。そう実感してしまう。
 電話を切るタイミングはこれで合っているはずなのに、黙り込んだまま携帯電話の通話を切れない。うっすらと聞こえてくる誰かの会話と、皓弥の部屋の静寂は両極端のようだ。
 しかし今生の別れでもない。明後日には帰ってくる人だ。
 名残惜しさを断ち切るように、皓弥は息を吸って通話ボタンを押した。途端に那智の声が頭の中に蘇ってきては苦笑した。
 一人でも平気だと言ったのは強がりでも何でもなかったはすだった。それが強がりに変わりそうだなんて口が裂けても言えそうにない。



 朝から焼きたてフランスパンと共に食卓には様々なディップや野菜が並んでいた。
 果てにはピザまで制作されて、どこのパーティだと冗談抜きで言いたかったくらいだ。
 人様の家で寝起きする、というわけで皓弥は常ならば九時くらいに起きるところを頑張って八時前に起床した。そして目にしたのが豪快な食卓だったのだ。
 絶句した。
 どう足掻いてもこれを食べるのは無理だ。
 寝起きで全く動かない頭でもそれくらいの判断は下せた。しかし食べきれないながらも努力はしなければならないだろう。
 時間をかけてもそもそ食べていると、昇司と春奈が皓弥の倍は食べてくれていた。
 朝はあまり食べられないのだと知っていたらしい。
 それからは昨日のように春奈の買い物に付き合った。もう自分の物を購入するのは勘弁して欲しいとお願いしたので、普通に春奈の買い物をしてくれた。それから映画を見てお昼を食べて、食料を買い込んで帰宅した。
 夜は春奈が手の込んだ料理を作ってくれて、基本的に料理をするのが好きなのだろうと思いつつ舌鼓を打った。
 穏やかな時間が流れ、昨日鬼子に会ったことなど幻だったのではないと思えるほど安心して過ごしていた。
 夜が深まった後に外に出るのは良くないだろうと思い、広々とした庭をふらふらと歩いていた。
 昼間にも一通り見て回り、池には立派な錦鯉がいた。餌やりをやらせて貰ったのだが、一斉に食いついてくる様は圧巻だった。
 口が幾つもぱくぱく動いているのだ。しかもどれも必死で地上に上がって来るのではないかという気合いまで漂っていた。
 夜になるとさすがに鯉も大人しい。
 近くにしゃがんでいても寄って来なかった。
(広い庭だよな。昇司さん一人で寂しくないのかな)
 春奈は普段自宅にいるらしい。今は皓弥が来ているので泊まりで色々用事をしてくれているが、常ならば昇司一人だろう。
(でもこの家って昼間は結構人来るから、平気なのかも)
 昨日はそうでもなかったのだが、今日は午前中からちらほらと人が来ていた。
 そのどれも春奈が対応しており家に上がることはなかったのだが、よくインターホンが鳴るなとは思っていた。
 自宅では滅多に鳴ることがないので、聞く度にびくっとなって心臓に悪かった。
 親しげに春奈は話していたので、きっと友人、もしくは親戚なのだろう。
 一人暮らしということでみんな気にしているのかも知れない。
 そんなことを思っていると、涼しげな風に何かが混ぜられたを感じた。
 匂いや音ではない。肌が粟立つような感覚は予感だ。
 危険だと感じた時にはすでに走り出していた。
 全速力で与えられた客間に走っていく。慌ただしく縁側に上がり、行儀が悪いと分かりながらも荒々しく網戸を開けた。
 パァーンと激しく鳴った音に頓着もせず、持参してきた鞄の中から短刀を出す。
 那智と共にいる時には使うことのない、皓弥の武器だ。
 刀がいない以上、我が身を守るのであればこれしかない。
 どくりどくりと鼓動は大きく鳴り、短刀の柄を握っている掌が汗ばむ。
 耳を澄まして、どこから何が来るのかを探り出す。
 奥歯を噛み締めて、襲撃を覚悟していると誰かが廊下を走ってくる。
「皓弥君!?」
 春奈が、こちらも礼儀を忘れたように盛大に襖を開けた。
 その後ろには昇司も立っている。
「どうした?」
 二人の視線を受けて、皓弥は多少安堵を覚える。
 たとえ鬼が来たとしても喰われることはないであろう。だが首筋を焦がすような危機感は遠ざけられない。
「鬼が」
「…ああ、来ているね」
 昇司が庭の方向を見て腑に落ちたように言った。
 そしてそれに応じるかのように赤子の泣き声がした。
「まさか…あの赤ちゃん」
「そうだろう」
 どうしてここにいるのか。そして何故近付いてくるのか。
 皓弥を求めてきているというのか。だが母親は皓弥が特殊であることも分からないはずだ。いや、母親も特異な人間で、察知したというのだろうか。
 惑いが大きくなる皓弥の傍らで、昇司と春奈が渋い表情で外を睨んでいる。
「どうしましょうか」
「この辺りではうちしかない。ここまで来たということは、目当てはここなのだろう」
「出ますか」
「放置して泣き叫ばれてもかなわん」
 うるさい、ということだろう。昇司はきびすを返して玄関へと進んでいる。
 どう対処するつもりなのだろうか。
 皓弥もつられるようにしてその後を追おうとした。だが春奈に肩を叩かれる。
「危ないですから、皓弥君」
「でも、気配だけ感じていると怖いので視界にいれて起きたいんです。その方が安心します。問題ないです、赤ちゃん相手ですし」
 昇司がきちんと片を付けてくれるとは思っている。だがどんな結末になるのか目にしたいと思ってしまった。
 あの赤子と母親は、どうなるのか。
「親が来たらどうするつもりですか」
 春奈は赤子ではなく、いるかどうかも分からない親の方を警戒しているらしい。
 探しにここまで来たのだから、唐突に現れるかも知れない。だがそれに対して皓弥は握り締めた短刀を胸の前で見せた。
「俺、戦えます」
 那智がいなければ何も出来ない、無力な人間ではいたくない。
 確かに非力だけれど、守って貰うだけではいたくないのだ。だから那智にここに送られるのは嫌だと言った。
「……そうですね」
 有り難いことに春奈は皓弥の我が儘とも言える行為を許してくれるようだった。
「すみません」
 皓弥がいる限りここの人は守ろうとしてくれるだろう。それに逆らおうとしていることは申し訳がない。自我を通してしまうことを謝ると春奈はそれまで強張っていた顔を少し緩めてくれた。
 二人並んで玄関に向かうと、昇司がすでに門の外に立っていた。
 あまり近付くなと言われるだろうと思う、皓弥は門の手前から外を確認すると案の定ベビーカーを押した母親がいた。



 


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