那智と同居し始めて、同じベッドで毎日眠り、まるで雛を守る親鳥のような姿を見てどれくらいの時間が流れただろうかと思う。 親密と言っても全く過言ではないほどの期間を過ごしているはずなのだが。 (弟がいるとか知らんぞ!?) 互いの何もかもを知らなければいけない、とは思っていない。そして隠しておきたいことがあるのならば無理に言う必要がないことも。 けれど弟がいるということは隠しておきたいことなのだろうか。 那智の口から家族に関しての話は昇司と春奈しか出てこなかった。父親の有無は春奈から聞いて知っているけれど、那智は何も言わない。 春奈が別の家に住んでいることは分かっていたので、父親もそこにいるのだろう。だが会うことはないようだ。その程度の知識しかなかった。 そこに弟がいるなんて、そんなことを匂わせたことすらなかった。 「なんだ、あれは話してないのか」 驚く皓弥に昇司は意外そうにそう言った。 「初耳です!弟!?なんですかそれ!」 「六つ下だ。春奈のところで暮らしているはずだが。今は寮に入っているんだったかな?」 「それは同じ両親から生まれた弟、ですよね?」 那智が言わなかった理由が、親が違うからというものなら納得も出来た。 血の繋がりもない相手なら別に話しておくこともないかと。そういう判断をしそうな男だ。 「全く同じ親だよ。春奈が生んだ」 「なんで、黙って……」 完全に血の繋がっている弟。まして遺伝子なら他の誰より近い存在だろうに。皓弥には言いたくなかったのだろうか。 信用されていないのか、という危惧を抱いていると昇司は苦笑した。 「失念していたのだろう」 「忘れますか!?」 昇司はあまりにもざっくりした理由を付けてきた。 しかし到底信じられないようなものだ。 「那智が私と共に暮らし始めた後に生まれた子だ。那智は弟に会うこともほとんどなかった。ましてここ十年は顔も見ていなければ声も聞いていない」 それではまるで赤の他人ではないか。 兄弟とはそういうものなのだろうか。 同居していなくとも何かと関わりを持つ、という印象なのだが。ここは違うらしい。 「あれは人に関心がないので、すっかり頭から抜けたんだろう」 「抜けるようなものなんでしょうか……」 テレビから兄弟ネタが聞こえてきたり、人と会話している流れで兄弟のことになった際に、頭の中に浮かんでは来ないのだろうか。 「あれにとってはその程度のものなんだろう」 主以外はどうでもいい。そんなことを本人の口から聞いたけれど。ここまで顕著だとは思わなかった。 (もしかして父親もずっと会ってなくて、顔忘れているとか) 有り得そうで恐ろしい。 「君とは違う真咲の血は三代前の血筋が細く続いている。血は薄まっているが、次の主はおそらくそちらから出るだろう」 「そうですか……」 血筋の話をしていたのだと、昇司が話を戻してから気が付いた。もはや跡取りなんて心配している話題ではなくなったのだ。 弟の存在に大打撃を受けたせいだ。 「その、弟さんはどんな人ですか?」 春奈と那智はよく似ている。まして血が酷似している弟はそっくりなことだろう。 そして中身はどうなのだろう。那智は自身を人間ではないものだと表現するけれど、弟も特異なのか。 「弟は刀ではなく人間に近い。春奈より力が薄いくらいだからね。大したことのない者だ」 人間に近いとは言うけれど、完全に人間だとは言わない。やはり特殊なものがあるのだろう。だが春奈より薄いということは鬼を喰うこともないかも知れない。 「見た目とかは、似てますか?」 「兄弟なので似ている。だが中身はかなり違うな。普通の人間みたいなものだ」 「へぇ……」 普通の人間である那智。 鬼を喰らっていない時の那智のようなものだと思うのだが、どうも那智と普通という単語が結びつかなくて美味く想像出来なかった。 コンビニで飲み物を買って出ると昇司が何かを見ていた。 その昇司の手には煙草があり、吸うのだと初めて知った。煙の匂いがなかったからだ。 「どうしました?」 何かおかしなものでもあるのだろうか。そう思って皓弥も周りを見たのだがさして特殊なものは見当たらない。 蓮城家の周囲とは違い、人通りもちらほらとある。警戒しなければならない相手でもいるのかと思っていると、からからと小さな車輪が回るような音がした。 そしてベビーカーが曲がり角を過ぎてこちらにやってくる。 「あの人…」 「昼間の女だね?」 昇司は皓弥の呟きに相手を察したらしい。そしてベビーカーを見下ろして目を細めた。 ぞわりと背筋を這う危機感。鬼が近付くといつもそうだ。 皓弥の感覚を読んだかのように、赤子は声を上げ始めた。 しかし母親は赤子の泣き声に気を取られるより先に皓弥と目が合った。 「昼の……」 互いに口にする言葉は同じだ。 「こんな時間にどうされました?」 声を掛けて先に近寄ったのは昇司だ。そして軽く腕を上げて皓弥には寄るなと指示を出してくる。 「あの……いえ」 どう言ったものか迷っている母親は、泣き続ける子の声が大きくなって困惑を強くする。 「また、どうしてこんなに。普段は全然泣かないのに」 しゃがみこんであやすように甘い声で語りかけているけれど。赤子は一切耳に入らないようだった。 「場所が悪いのでしょう」 昇司は泣く子にそう言った。春奈も酷似した発言に母親は弱ったように肩を落としている。 「こちらにお暮らしではないと、娘からは聞きました」 皓弥を連れているので、昼間に会った女の知り合いであることは母親も分かるだろう。なので昇司がそう言うと不審そうな顔はせずに昇司を見ていた。 「何故ここに?人探しですか?」 「え……あの……」 「そのように見受けられましたので」 どうしてこんなことを訊かれるのか。唐突な質問が不気味だったのだろう。母親が途端に表情を堅くした。昇司は人の良さそうな様子で微笑んでいるが、皓弥の目からすればそれは威圧に思える。 「その子の父親でも、探してるのですか?」 こんな時間に女一人でベビーカーを押していると、父親は?とふと思ってしまう。きっと昇司もそう感じたのだろう。 母親は躊躇いながらも、結局は「はい」と力無く答えていた。 「なら尚更ここじゃない」 「どうして、ですか?」 断言され女だけでなく皓弥も怪訝に思った。まるで知っているかのような口ぶりではないか。 「何かご存知なんですか?」 「いや何も。私が分かるのはその子が普通ではないことくらいだ」 赤子のことを指摘されると母親が息を呑んだようだった。 いきなり秘めていたであろう重大な部分を貫かれたのだ。驚愕も無理はない。 しかし昇司にとっては見極めることは容易いことなのだろう。 「鬼子がいられるような土地ではない。早々に帰りなさい」 昇司はそう言うと興味を失ったかのように歩き出す。皓弥を振り返っては視線で促してきた。 刀が住んでいる土地なのだ。鬼にとっては危うい場所だろう。 「待って、待って下さい!」 昇司はどうやら早足で進んでるようだった。皓弥は軽く駆けるようにして倣ったのだが、その後ろで母親が叫んだ。 しかし当然昇司が止まることはない。 母親も追ってこようとしたのだろう。だがベビーカーの車輪が何かに躓いたように、ガッと鈍く鳴った。 けたたましい赤子の泣き声を背中に聞きながら、皓弥は昇司に追いつく。 行きは穏やかで静かな夜だったのに、帰りは急き立てられる形になった。そして奇妙な憂いが纏わり付いてくる。 「妙な女だ」 昇司は低い声でやや不機嫌そうに呟く。 鬼子を育てようとしているのが奇妙なのか、それとも鬼であろう父親を捜そうとしているのが奇妙なのか。 (鬼なんかと関わらない方がいいと思っているのかも知れない) いないのならばいないものとして生きていく方がいいだろう。少なくとも皓弥ならばそうする。 けれどそうは出来ない者もいるだろう。赤子の父親だからと、求める気持ちも分からないでもない。 「父親は、この辺りにいるんですかね」 鬼喰いがいる土地に鬼が来るとも思えないのだが。母親がここに来たということは何か根拠があったのだろう。 「生きているかどうかすら分からないがね」 まるで事の行き先が見えているかのように昇司はそんなことを口にした。 蓮城家が近くにあるのに鬼が生きているはずもないのだろう。 「どうであれ、あれがここに留まるのならば考えなければいけない」 あれというのは鬼子のことだろう。 春奈も似たようなことを言っていた。 赤子であろうが何であろうが、鬼が近くにいること自体警戒に値する。 皓弥にとってはもちろんそうなのだが、鬼を恐れともしていないだろう昇司たちがあえてそんなことを言うのは、ここに皓弥がいるからだろう。 「君は一人で出歩かないように」 昇司はやや足取りを緩めて、そう注意してくる。コンビニくらい一人で行けると思っていた十数分前に釘を刺されているのだ。 油断など出来る状態ではない。 「はい。ご迷惑をおかけします」 一人で歩けないということは昇司か春奈に、常に世話を掛ける羽目になってしまう。家に引きこもっていれば安全ではあるのだが、そうしていてもやはり二人に気を遣わせてしまう。 退屈してませんか?と尋ねてくれる春奈の優しさが身に染みる。 「迷惑だなど思ったことはないよ」 振り返ってくれる人の温情に、皓弥は頭を下げる。 人の慈悲によって生かされているなんて、数年前なら決して思わなかっただろうに。今は何度も繰り返しそう実感する。 「それにしても、妙だ」 昇司は皓弥に一つ頷いて見せた後、どうして腑に落ちないというようにまた呟いた。 そこまで引っかかることがどこにあるのか、皓弥にはどうも分からなかった。 次 |