四




 
 ちりんと風鈴が鳴っている。
 客間からは整えられた庭が一望出来た。計算された光景なのだろう。
 もてなしの心がなせる技だなと思う。
 まるで旅館に来たかのような景色なのだが。あくまでもただの人家である。
(アクエリ飲みたいな)
 深夜というにはまだ早いけれど、夕食が終わって時間が経った頃。ふとそんなことを思った。
 夏の夜は清涼飲料水片手にのんびりしていることが多いので、習慣がそうさせるのだろう。
 出掛けようと思い、台所にいる春奈に声を掛けた。
 何か作業しているらしい春奈は皓弥が何か言う前に振り返ってくれた。
「どうしました?」
「少し出掛けようと思います。近くのコンビニまで」
 春奈と出掛けた際に、ここから最も近いコンビニがどこであるのか見ている。
 あまり道は多くないので迷うこともないだろう。
「近くと言っても十五分くらいは歩きますよ?車を出しましょうか?」
「いえ、徒歩で行きます。外涼しいし」
 自宅では鬱陶しいほどの暑さがあるだろうが、ここは夜になると涼しい風が吹く。山が近いせいだろうか。
 おかげで散歩をしようかという気持ちにもなった。
 それにコンビニに行くのにわざわざ車で行くなんて大仰だ。
「そうですか?」
 春奈は一人で歩かせるのは良くないと思っているのか、思案顔だ。
 心配性だと思うけれど、そういえば那智もコンビニごときに付いてきた。
「では私も行こう」
 大丈夫だと言いかけた時背後からそんな声が聞こえた。
 いつの間にか昇司が後ろに立っていたのだ。
「いえ、一人で」
「私も用事があるのでね」
 皓弥に付いていくのが目的ではない、と言われると断れない。
 それが見え見えの後付けだったとしても皓弥がそれを指摘する立場でもなかった。
 昇司が一緒だと春奈も笑顔で送り出してくれた。
 当然だろう。那智と同じく刀であった人だ。鬼に対抗するのにこれ以上の人選はないだろう。
「静かですね」
 蓮城家から出ると人気のない道がずっと続く。街灯に照らされており、そう見晴らしも悪くないので憂鬱な気分にはならないが。車が通る音も一切しない街というのは新鮮だった。
 自宅にいれば深夜でもたまに車が通り、そうでなくとも窓の外では周囲の家の灯りが見える。
 けれどここは違う。
 蓮城家の垣根が続き、それが終われば畑やら人が住んでいるのかどうかも分からない建物。民家の集まりはまだ少し先だ。
「この辺りはあまり建物がないんですね」
「そうだね」
「那智は通学に時間がかかったんじゃないですか?」
 蓮城家がどこに学校に通っていたのかは知らない。だが見たところこの辺りに学校らしい建物も見当たらなかった。
 大学には車で行っているだろうが、それ以前は苦労したのではないだろうか。
「高校はバイクで行っていたな。中学小学校では自転車か徒歩だったね」
 きっと年齢が満ちた時にバイクの免許を取ったはずだ。皓弥なら間違いなくそうする。
 それにしても自転車ならともかく徒歩というのは時間もかかるが、体力を使ったことだろう。
「歩きはきついですね」
「あれは昔から体力のある子どもだったからね。そう苦でもなかっただろうさ」
 人間とは違うので基礎体力も違うということだろうか。
 羨ましいことだ。
(学校が近かった俺でも通学めんどくさかったのに)
 子どもの頃の那智はどんなものだろうかと思いをはせていると、ふと昼間の記憶が蘇る。
「子どもと言えば今日、不思議な赤ちゃんを見ました」
 あれは異変と言えるだろう。世話になっているので、一応そういうことがあったのだと離して置いた方がいいかも知れないと感じた。
 まして昇司の地元だ。今後何か起こるかも知れない。
「春奈から聞いているよ。鬼の子だろう」
「はい。母親は人間だったので、父親が鬼なんだと思いますが。これから先どうなるのかと思って」
 春奈は興味がなさそうだった。そして昇司もやはり「さあな」と冷淡な様子だった。
 彼らは例外なく鬼に対して興味がないのかも知れない。
 皓弥は自分にとっての脅威であるため、何かと気になる。悪い方向にばかり捕らえるのだが、今は純粋に赤子の未来がどんなものであるのか疑問だった。
「赤子では理性がない。一人で歩き出すと人に噛み付くかも知れない」
 鬼に理性があるかどうかも皓弥としては疑わしいと思うところだが、赤子ならばましてだろう。母親の目を盗んで人に襲いかかるかも知れない。
 人に噛み付いて、赤子の内はまだ叱られるくらいかも知れないが、その先は恐ろしい結末になるだろう。
「いずれ害と見なされて殺されるか。それとも母親か何かが鬼としての本能を制し、しつけるか」
「そんなこと出来るんでしょうか?」
 鬼の本能など制御出来るのだろうか。
 しつけと聞くと人と同等のものを想像してしまうが。その程度で人を襲わなくなるなんて信じられない。
「さあね。私も鬼ではないので分からんが、そうして生きている鬼はいるはずだ」
 天然の鬼のことを言っているのだろう。だがあの鬼子は天然と思えるような強さは感じなかった。
(赤ちゃんだったから、弱いとはしか思えなかったんだろうか)
「生まれながらの鬼は見た目がそういびつではない多いからな。君が見た子も人に紛れて生きていけるのかも知れない」
「……大変、でしょう」
 皓弥はあの赤子が育っていく行程を頭の中で想い描き、苦難ばかりだろうと感じた。
 周りの者たちもそうだが、本人だって違和感と強迫観念を抱き続けるはずだ。
 しかし鬼に対してこんな風に哀れみを覚えるのは初めてだ。やはり赤子というところが衝撃だったのかも知れない。
「特異な者は皆そうだ。君もそうだっただろう?」
「……はい」
 逃げ回る日々。子どもの頃は特に暗がりを恐れて、夕方は足早に帰宅していた。
 遊びに誘う友達の声を振り切って、他の誰も感じられない視線を浴びて、命一つを必死に守っていた。
 母親以外誰とも共感出来ない辛さ。同年代の子たちと異なる感性や暮らし。どうしても気持ちが浮いてしまっていた。
 寂しくなったと言えば嘘になる。
「でも俺なんかより、那智の方が辛かったでしょう」
 皓弥は変わっていると言っても、人間であることに違いはない。けれど那智はそれすら覆されるのだ。
 人間の群れにぽつりと佇んでいる。
 皓弥に会ってからは、刀で良かったと言うけれど。その前には様々な苦悩や寂しさがあったのではないだろうか。
「そうでもないさ」
 祖父は那智の幼少期の境遇をそんな言葉で軽く表した。
 しかし昇司は那智に対して厳しいところがある。
「どんな子どもでした?」
 那智は出会った時から大人だった。皓弥も年齢的にはそうだったのだが精神面ではまだまだ幼さがあるだろう。
 けれど那智には初めからその幼さなんて感じられなかったのだ。だから肉体が幼かった頃も予測が付かない。
 いくら那智でも生まれて数年で達観はしないだろう。
「淡々としていたよ。何事にも冷静な子だった」
 子どもの頃はどんなことに対しても好奇心を露わにして、知識を取り入れようとするものではないのか。無邪気に走り回って、大人を振り回して、自分が世界の中心であるという気持ちで生きているようなものだ。
 それが冷静だなんて、聞き分けの良い子だと大人たちにとっては喜ばしいことかも知れないが。子ども自身にとっては枷になったのではないか。
「寂しい子、だったんですね……」
 人と違う生き物であるということが、那智をそうして育てたのかも知れない。
 天真爛漫に過ごす事が出来なかった過去が、皓弥には痛ましいものに思える。
「寂しくないさ。それがあの子の当然だったんだ」
(それは他のことを知らないから、分からなかっただけなんじゃないですか……?)
 寂しいことだという、それ自体を那智は知らなかったのかも知れない。
 祖父の目は静かだけれど、横顔には微かに憐憫が見えるような気がした。
 しかしそれが柔らかく溶けていくのが見えたかと思うと、昇司がこちらを見た。
「だが君に会うまでのことだ。今は全てが報われている」
 嬉しそうに微笑んでいる表情は紛れもなく、肉親の愛情だった。
 やはり那智が笑っている姿は喜ばしいのだろう。
 きっと昇司は祖父として、冷静だった子が感情を表に出して笑顔を見せ、そして育っていくのを見たいのだ。
 きっとその先、那智が結婚して、子を持って、その子が大きくなって。という光景だって想像するだろう。それがきっと普通の形だから。
(俺のおかげで報われたって言うけど。俺はこの先の喜びは、もうあげられない)
 二人で生きていく道しか用意出来ないのだ。
 平穏な家庭が、祖父や母が望むであろう次の世代を皓弥は生み出せない。
 どれだけ那智が一緒にいるだけで幸せだと言っても昇司や春奈までそれで納得してくれるかどうかなんて分からない。
「皓弥君」
 罪悪感を味わっていると、それが顔にも出ていたのか。昇司は心配そうに覗き込んで来た。
「…でも俺は、その……大切なものを那智や昇司さんや春奈さんにはあげられません。すみません」
「何のことだろうか?」
 思いは先走って、謝罪が口から出てしまった。そのせいで昇司に戸惑いが見えた。
「その、今後のことはどうなるか分かりませんが。お互い、結婚は出来ない気がして。色々、その、特殊な体質ですし」
 那智は皓弥に固執している。それはもう異常と言えるレベルだろう。だが皓弥はそれに慣れてしまっているし、それを自分にとって有り難いことであるとすら認識している。
 自分だけしか見ない那智を、それで心地良いとしているのだ。
 同性であるのも関わらず、互いがいれば全て事足りる。
 昇司の目から自分たちがどう見えているかは謀りかねる。だがそれこそ伴侶と言えるほどの濃密さで関係しているとはさすがに分からないだろう。
 なので未来のことは分からないのだと誤魔化し、一人で気まずさを味わう。
(まさか肉体まであれだなんて、言えるわけない)
 他人に、まして那智の親族にそんなことを暴露する勇気はない。
「だから那智に子どもは出来ないかも知れないと思って」
「そうだろうね」
 それは分からないよ、と不確定な未来に期待を持つかと思ったのだが。昇司は皓弥よりずっと強く諦めを込めていた。
「……すみません」
 やっぱり自分がいるから、那智は手一杯で他まで気が回らないから。そう思われたのだろう。
 小さくなって俯いた。それで許されることでもないだろうが。
「どうして君が謝るんだい」
「それは俺のせいだと思いますし」
「君のせいじゃないよ。あれが望んだことだ」
 那智が願ったことであるのなら、昇司はどんなことでも受け入れるのだろうか。
「でも、那智の子どもは見たくないですか?」
「見たくないと言えば嘘になるさ」
(そうだよな……)
 大事な孫であるのなら、その孫が大切にこの世に授かる子も見たいと思うものだろう。
 けれどそれを叶えられない皓弥は、沈む気持ちを抱えることしか出来ない。
「しかし私が見たいのは、あれの幸せそうな顔だ。それは君にしか生み出せない」
 出会った時から、昇司は皓弥が那智を変えたのだと言う。昇司だけではない。前から那智を知っていた人はみんなそう言う。
 皓弥がよく目にするのは喜色を滲ませて真綿のように微笑む姿だ。それは、以前にはなかったものなのだろうか。
 とてもそうとは信じられないほど、那智はその顔を自然に浮かべている。
「感謝こそすれ、謝罪を受ける立場ではないよ」
 俯いていた皓弥の背中を撫でるような声に昇司を見上げた。
 那智とよく似た容姿が、よく似た感情を向けてくれている。
 それを甘受して安堵したい。けれど、自分にそれが許されることなのか迷った。
「でも蓮城家は大きな家柄みたいだし。跡継ぎとか、問題があるんじゃないですか?」
 那智が子どもを持たなければ、蓮城の血が絶えるのではないか。刀の血脈が途切れてしまうのはきっと大事だろう。
 皓弥は家柄だの跡継ぎだの、無関係で生きてきたのでそれらがどれだけの束縛であるのかは体感したことがない。
 けれど立派な家柄であることは、昇司の家を見ても明白だ。
 人の家のことだが心配する皓弥に、昇司は他愛ないことだというように笑った。
「問題ないよ。那智の弟がいる」
「……え?」
「弟だ。聞いてないのかい?」
「え……?えええぇぇぇ!?」
 静まり返った夜をぶち壊すような声を上げて、皓弥は耳を疑った。その反応にまた昇司も目を丸くしたようで、互いに見つめ合って硬直する羽目になった。



 


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